定時で帰るのが、ウシロメタイあなたへ
日常生活の儀式化と「不思議!」2013-07-26 03:54:19 | エリクソンの発達臨床心理 エリクソンは、日常生活の儀式...
都知事の舛添要一さんが、7月23日(金)のTwitterで
「新国立競技場:政府は、至急、今回の大失策に至る経過を検証し、責任者の処分をすべきである。最大責任者は文科省であり、担当役人の処分は免れない。組織の長にその処分ができないのなら、自らが辞任するしかない。それが大人の世界の常識であり、役人一人の更迭もないのなら、国民は許さない。」
とつぶやいています。
7月22日(木)「報道ステーション」に舛添さんが出演したときも、文科省のお役人の無能ぶり、無責任ぶりを指摘していました。その席で、北大の中島岳志さんが、丸山眞男教授の名を挙げながら、戦争遂行した、政治家・軍人・官僚の無責任が、いまの時代にも治らない、と指摘していましたね。
フクシマ原発事故が今も計り知れない放射能汚染をもたらしているのに、東電から1人の逮捕者もなく、責任者の処分さえないばかりか、勝俣恒久元会長はじめ、当時の責任者たちはおしなべて、ドバイの高級マンションで、高額な報奨金を貰って暮らしている…。
そこで「歴史意識の『古層』」です(『丸山眞男集』第十巻,p.3-66)。ここで、丸山眞男教授は、記紀神話の始めの記述から抽出した発想様式が、歴史の中で繰り返し執拗に持続する低音(執拗低音、basso ostinato パッソ・オスティナート)として 歴史の主旋律にならないけれども、副旋律として常に繰り返されてきたことを指摘しています。それは、歴史を記述する言葉にその特色を表わす、と丸山眞男教授は言います。
それが少なくとも3つあると言います。1)「なる」、2)「つぎ」、3)「いきほひ」がそれです。たとえば、「なる」ですが、これは「うむ」と「つくる」と対比的に論じられます。「なる」は自動詞ですが、「うむ」と「つくる」は他動詞ですから、「なる」は主体の生成、変化を言うのに対して、「うむ」と「つくる」は、主体が客体に働きかけるものです。また、「なる」と「うむ」は、その前後で連続性があるのに対して、「つくる」は、主体が特定の目的意識をもち、主体と客体は非連続性である、といいます。「なる」が日本神話の特色ならば、「つくる」はユダヤ・キリスト教神話の特色となります。
丸山眞男教授は、この3つの特色をまとめると、「つぎつぎになりゆくいきほひ」になると言います。これが日本の社会文化の執拗低音だという訳ですね。それは、日本文化の特色が、「いま」を中核とすることに現れる、とします。加藤周一さんが「現世主義」と指摘したことと重なりますね。
この「いま」の強調が曲者ですね。「未来のユートピアが歴史に目標と意味を与えるのでもなければ、遥かなる過去が歴史の規範となるわけでもない」からです(p.55)。また、「『いま』の肯定が、生の積極的価値の肯定ではなく、不断に移ろいゆくものとしての現在の肯定である限り、肯定される現在はまさに、『無常』であり、逆に無常としての『現在世』は無数の『いま』に細分化されながら享受され…『いま』の肯定なり享受は、たとえ次の瞬間を迎え入れようとする一種の不安定な心構えとして現れざるを得ない」からです(p.59-60)。
見事な歴史分析ですね。「いま」、を批判する視点=「未来からの目標と意味」、「過去からの規範」がないのですから、「いま」は、「つぎつぎ」に移ろいがちとなり、その場の「いきおい」に流されがちです。でも、それは、「目標・意味・規範」を意識したものではないので、だ~れもその「いま」に責任を取る人がいません。常に「いま」が絶対化して、批判が許さなくなりがちです。新国立競技場の計画変更に対して、下村文科大臣も、文科省のお役人も、JOC(日本オリンピック委員会)の森喜朗会長も、「迷惑している」などとホザイテ、被害者のような顔ができるのは、丸山眞男教が批判した歴史に対する日本人の心構えと行動が、残念ながら、治っていないことを、端的に示しています。
逆にこうして整理すると、私どもは、絶対化しがちで、批判を許さない「いま」を変えていくためには、ヴィジョンを明確にして、目標と意味を見つけ出すだけではなくて、歴史から規範を作り出す、という意識と自覚を持つことでしょう。それは「いま」に対して流されるのではなくて、いつも何度でも「Why?」と権力の正統性を絶えず問い続けて、自ら未来を作り出す積極的態度を身に着けていく、ということになります。