日本の「いじめ」と「無責任」を打破するためには...。
配慮が行き届いていて、陽気で楽しく繰り返される、日々の習慣2013-07-23 03:28:04 | エリクソンの発達臨床心...
日本人が好きな徳目は、円満であることに、異論をはさむ人は、そんなにいないだろうと思います。「家族円満」、「夫婦円満」、「円満な人格」、「あの人は角が取れてきて、随分円満になってきたね」…。どれについても、文句の出ない話ではないですか?
「円満」を一応辞書で確かめてみました。すると、「円満」とは、1)かどだたず、穏やかなこと、2)十分みちたりて欠けたところのないこと、と出てきます(岩波国語辞典 第二版,p.100)。
しかし、私はマイナー志向だからでしょうか? かねてから、この「円満」には、「偽善のにおい」がする感じがずっとしておりました。アマノジャクと言った方が良いのかもしれませんね。「円満」の私の印象を、敢えて言葉にすれば、「表向き、角が立たないように、弱い立場、弱い部分に圧力を掛けて(「静かにしてろよ」、「黙ってろ」と脅しをかける。どこぞの政権がやってることです。もちろん、アベシンちゃんと悪魔の仲間たちのことです)、欠けたところがバレない様にしているさま」という感じになります。つまり、「円満」は「繕い」であることが、現実には多いのじゃないか知らね。「繕い」とは、そのように「真の姿とは別の、偽り、装いを作ること」ですからね。
特に日本の組織は、同調圧力が猛烈に強く、少数意見を圧殺することが多いでしょ。でもね、民主主義であれば、「少数意見の尊重」が当たり前ですから、多数派の意見を、数の暴力で押し通すのではなくて、繰り返し話し合いがもたれて、「少数派の意見」をどうやったら、多数派の意見に取り込んでいけるのか? ということにエネルギーが注がれます。ですから、多数派も、少数派も、誠実に話し合うことによって、多数派の最初の意見とも、少数派の最初の意見とも、異なる、新しい意見が生まれる訳ですね。この新しい意見は、多数派の神輿に乗った、ちょっと頭が足りない人が「総合的に判断した意見」とは、別次元の意見になります。それはアベシンちゃんが、足りないアタマで考えた意見(極々一部の人の意見が、議会での多数を笠に着て、暴力的に押し通そうとする意見)が、大多数の人の納得できるものにならなかったけれども、多数派と少数派が、誠実に、繰り返し、話し合いを持った結果生まれた「新しい意見」ならば、最初の多数派よりも、多数の人々が納得する意見に成長、発展する意見になるのと、対照的ですから、その差は歴然としています。
かたや、「平和」とはどういうことですかね。戦争や諍いがないことでしょうか? さっき引用した『岩波国語辞典 第二版』で「平和」を調べますとね、「戦いや争いがなく、穏やかな状態」と出てきます(p.903)。申し訳ないことですが、貧弱な語釈ですね。
本田哲郎神父にご登場いただきましょう。本田神父によれば、「神が望まれる平和は、『抑圧からの解放をもたらす正義』(ディカイオシューネー、δικαιοσυνη)を土台とした、すべての人が『人として大事にされる』(アガペー、αγαπη)、「喜び」(カラー、χαρα)のある平和である」とします。ですから、「平和」をもたらす者は、弱い立場の人、少数者の味方になる、という旗印をハッキリさせます。そして、強い立場の人、多数派と対立したり、戦ったりすることを、厭いません。ですから、日本的な「円満」な人だとやらない、「波風が立つこと」、「立場を鮮明にすること」を敢えて行い、差別と抑圧の社会的構造にメスを入れていこうとします。そして、真の「平和」とは、戦いや争いがない状態などでは少しもなくて、抑圧されている人や、差別されている人が、その抑圧や差別と闘って、その抑圧や差別を取り除くこと、であると同時に、抑圧や差別をする人をも、その抑圧する立場、差別する立場から解放することも含まれるんですね(本田哲郎『神は貧しくされた者と共に 釜ヶ崎と福音』岩波書店)。
このように、真の平和とは、円満の繕いを暴くところから始まり、弱い立場の人たちに味方する立場を鮮明にして、抑圧や差別をなくす行動を取ることになる訳ですね。