エリクソンの小部屋

エリクソンの著作の私訳を載せたいと思います。また、心理学やカウンセリングをベースに、社会や世相なども話題にします。

私どもが落ち込む源、「悪の巣窟」

2015-07-26 09:48:18 | アイデンティティの根源

 

  キリストの十字架の苦しみというシンボルは、宗教的に、天にも昇る悦びを味わう縁まで、私どもを連れて行ってくれるらしい。

 Young Man Luther 『青年ルター』p214の第3パラグラフから。

 

 

 

 

 

 今しがた、神学用語でお話したことを心理学的に言い直すことにいたしましょう。今まで悪い良心について申し上げてきたことは、フロイトが概念化した、超自我による自我に対する抑圧と、多くの点で似ています。もしも、この種の抑圧が、個人にあっても、集団にあっても、強まっちゃうとね、私どもが体験することすべてが、特殊な生活感、すなわち、心の時空に特定の(邪悪な)側面が強調されることによって、曇ってしまいます。実際悪い良心が、束の間でも働くと、私どもが分かるのは、まさに、よくあることなんですが、見事なくらいに、しばらくは落ち込んでしまう、ということなんですね。

 

 

 

 

 悪い良心があると、落ち込んでしまうことがよくあるし、しかも、落ち込んでる時間が長い、ということですね。嫌な時間でしょ。自分の人生も、世の中も、そうなれば、悪く見えてきますよね。いろんな心の病気、いろんな社会病理が生じるのは、ここですね。

 

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老賢者が当たり前になる未来

2015-07-26 07:02:27 | エリクソンの発達臨床心理

 

 hope「困難があっても、信頼し続けること」の発展形が、faith 「低きに立たされている人たちから、本気で学ぶつもりで、関わること」と思う人は少ないんじゃないかしらね。

 The life cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』、p62の第3パラグラフから。

 

 

 

 

 

 もしも、人生の巡り合わせの最後に、人生の始まりを振り返ってみたとすれば、成熟した希望を分析するのにも、様々な信頼においても、なにがしかのものが残っていたのでした(もしも、あなたたちが幼子のようにならなったり、幼子のように変わったりせずとも)。 この成熟した希望や様々な信頼によって、人間らしい性質の中で最も子どもらしいものとして、希望を持つことが価値づけられます。実際に、人生の千秋楽は、人生最初の舞台にとって、とても大きな可能性があるように思います。すなわち、子どもたちは、育ち得る養育環境においては、年寄りたちと出会うように思慮深く作られています。将来この関係がどうなるのか? どうならなくてはならないのかをよくよく考えたほうが良いですね。そのときには、年寄りが叡智をもつのが、計画通りに期待するためには、「平均的に期待できる」見識になります。

 

 

 

 

 

 普通の老人が、老賢者になるのが当たり前になる時代が来る、というのが、エリクソンの見通しでした。でも、少なくとも日本ではそうなってませんけどね。それはなぜなのか? 子どもたちが、年寄りと出会うチャンスが、核家族化の中で、失われているからかもしれませんね。

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#笑う者 は #自由でいられる #今日も笑顔で

2015-07-26 06:49:17 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
日本人の組織の「いじめ」と「無責任の体系」から脱却するには… パートⅡ
 「日常生活の儀式化」=日常生活に対する一つの見方2013-07-25 02:39:14 | エリクソンの発達臨床心理&n...
 

  「普通」の「教会生活」を送っている人には、ビックリするようなお話が続きまたしたね。ゴメンナサイね。別に驚かそうとしたんじゃぁ、ないんですからね。でも、最初の、あるいは、本当のピスティス「信頼」やラトレイヤ「礼拝」は、いずれも「神様と向き合うこと」であり、その結果として、「弱い立場の人の側に立ち、行動すること」ですから、儀式とか典礼とか、教会やお御堂とは、無関係なんですね。

 今晩は、先日お話した「笑い」について、もう一度考えたいと思います。『笑いの神学』を参考にして、「笑い」の効用を考えてみたいと思います。

 コートさんは、まず第一に、「#肯定的な見方」が出来るようになると言います。そうですね。真面目な人であるほど、状況を深刻に受け止めやすいでしょ。しかし、そこに「笑い」があったらどうでしょう。真面目な人は、「なんか小ばかにされた」とその「笑い」についてさえ、否定的に深刻に受け止めがちですね。事態が深刻な時の「笑い」は、別に悪ふざけじゃないんですね。 深刻な事態に飲み込まれるんじゃなくて、深刻な事態から自分を一歩離してみて、客観的に見る視点を、この「笑い」がプレゼントしてくれることが多いのじゃぁないかしらね。そうだとすれば、笑いの効用は、深刻な事態に対して、距離を採ることによって、客観的に見る視点、肯定的に見る視点をプレゼントしてくれる、と言えそうですね。

 第二は、コートさんは神父ですから、その仕事がオープンなスタイルになるっていうんですね。でも、私どもは神父や牧師ではないケースが多いでしょうから、これをもっと一般的に言ったらどうなるのかな? と考えました。これは「自分の弱さを笑うこと」だと分かりました。人は自分がしている仕事を重大視しすぎる傾向にあるんじゃぁないですか? それは、その仕事を評価してもらうことを通して、自分をも評価してもらいたいからでしょ。これは必ずしもいけないことじゃぁないですよ。でもね、その思いが強すぎると、人の仕事を評価しづらくなったり、その結果,人とコミュニケーションの中で自分の仕事を進める、という基本がなおざりのなったりしがちでしょ。それは結局自分の仕事に囚われすぎて、逆に自分の仕事を台無しにしかねませんよね。だって、そう言う自分の仕事ぶりじゃぁ、人も自分の仕事を評価しづらくなりますしね、中には、足を引っ張りに来る場合だってあるかもしれませんでしょ。その点、「自分の弱さを笑う」自由があれば、自分の仕事も相対化できますから、人の仕事との客観的な関わりや、全体の中での位置づけや方向性を見ながら、自分の仕事を位置付けやすくなりますもんね。結果として、この「笑い」があった方が、自分の仕事も評価されやすいのじゃぁないかしらね。

 第三は、「日常生活が#退屈ではなくなること」。これはそうかもしれないですね。笑いは、日常生活そのままでは笑えませんよね。ルーティーンワークは、見通し通りであって、期待通りでは必ずしもないからですね。ルーティーンワークって、あまり大きな期待をそもそも持ちませんからね。結果もはじめから分かってる場合がほとんどでしょうからね。でもそこに「笑い」があれば、それは、いつもとは違った視点で、その「ルーティーンワーク」、日常生活を見ている証拠でしょう。それも一つの視点では、そうそう笑えませんからね。「笑い」に繋がりそうないろんな視点を見つけながら、日常生活を送ることになりますね。そうするとね、「笑い」がいつでも「#新しい視点の発見」に結びつきますよね。すなわち、毎日が「#小さな発見」の連続になる訳ですね。そしたら、日々が退屈どころか、新鮮になりますよね。

 コートさんが四つ目に挙げることは、もしかしたら、一番大事かもしれませんよね。それはね、「#騙されることが少なくなる」ということ。笑いは、日常生活に、いろんな視点をもたらすと言いましたでしょ。するとね、世間の常識、政府見解、メーカーのコマーシャル、NHKニースなどが、表面的な判断、当たり障りのない見方、強い者が得する情報であることが見えやすくなりますからね。『星の王子様』じゃないけれども、「大事なことは眼には見えない」ってことも、生活実感になりやすいでしょ。

 いろいろと「笑い」の効用があんですね。

 あなたも、#今日も笑顔     でいてくださいね。

 

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円満と平和 改訂版

2015-07-25 16:50:22 | エリクソンの発達臨床心理

 

 

 
日本の「いじめ」と「無責任」を打破するためには...。
  配慮が行き届いていて、陽気で楽しく繰り返される、日々の習慣2013-07-23 03:28:04 | エリクソンの発達臨床心...
 

 日本人が好きな徳目は、円満であることに、異論をはさむ人は、そんなにいないだろうと思います。「家族円満」、「夫婦円満」、「円満な人格」、「あの人は角が取れてきて、随分円満になってきたね」…。どれについても、文句の出ない話ではないですか?

 「円満」を一応辞書で確かめてみました。すると、「円満」とは、1)かどだたず、穏やかなこと、2)十分みちたりて欠けたところのないこと、と出てきます(岩波国語辞典 第二版,p.100)。

 しかし、私はマイナー志向だからでしょうか? かねてから、この「円満」には、「偽善のにおい」がする感じがずっとしておりました。アマノジャクと言った方が良いのかもしれませんね。「円満」の私の印象を、敢えて言葉にすれば、「表向き、角が立たないように、弱い立場、弱い部分に圧力を掛けて(「静かにしてろよ」、「黙ってろ」と脅しをかける。どこぞの政権がやってることです。もちろん、アベシンちゃんと悪魔の仲間たちのことです)、欠けたところがバレない様にしているさま」という感じになります。つまり、「円満」は「繕い」であることが、現実には多いのじゃないか知らね。「繕い」とは、そのように「真の姿とは別の、偽り、装いを作ること」ですからね。

 特に日本の組織は、同調圧力が猛烈に強く、少数意見を圧殺することが多いでしょ。でもね、民主主義であれば、「少数意見の尊重」が当たり前ですから、多数派の意見を、数の暴力で押し通すのではなくて、繰り返し話し合いがもたれて、「少数派の意見」をどうやったら、多数派の意見に取り込んでいけるのか? ということにエネルギーが注がれます。ですから、多数派も、少数派も、誠実に話し合うことによって、多数派の最初の意見とも、少数派の最初の意見とも、異なる、新しい意見が生まれる訳ですね。この新しい意見は、多数派の神輿に乗った、ちょっと頭が足りない人が「総合的に判断した意見」とは、別次元の意見になります。それはアベシンちゃんが、足りないアタマで考えた意見(極々一部の人の意見が、議会での多数を笠に着て、暴力的に押し通そうとする意見)が、大多数の人の納得できるものにならなかったけれども、多数派と少数派が、誠実に、繰り返し、話し合いを持った結果生まれた「新しい意見」ならば、最初の多数派よりも、多数の人々が納得する意見に成長、発展する意見になるのと、対照的ですから、その差は歴然としています。

 かたや、「平和」とはどういうことですかね。戦争や諍いがないことでしょうか? さっき引用した『岩波国語辞典 第二版』で「平和」を調べますとね、「戦いや争いがなく、穏やかな状態」と出てきます(p.903)。申し訳ないことですが、貧弱な語釈ですね。

 本田哲郎神父にご登場いただきましょう。本田神父によれば、「神が望まれる平和は、『抑圧からの解放をもたらす正義』(ディカイオシューネー、δικαιοσυνη)を土台とした、すべての人が『人として大事にされる』(アガペー、αγαπη)、「喜び」(カラー、χαρα)のある平和である」とします。ですから、「平和」をもたらす者は、弱い立場の人、少数者の味方になる、という旗印をハッキリさせます。そして、強い立場の人、多数派と対立したり、戦ったりすることを、厭いません。ですから、日本的な「円満」な人だとやらない、「波風が立つこと」、「立場を鮮明にすること」を敢えて行い、差別と抑圧の社会的構造にメスを入れていこうとします。そして、真の「平和」とは、戦いや争いがない状態などでは少しもなくて、抑圧されている人や、差別されている人が、その抑圧や差別と闘って、その抑圧や差別を取り除くこと、であると同時に、抑圧や差別をする人をも、その抑圧する立場、差別する立場から解放することも含まれるんですね(本田哲郎『神は貧しくされた者と共に 釜ヶ崎と福音』岩波書店)。

 このように、真の平和とは、円満の繕いを暴くところから始まり、弱い立場の人たちに味方する立場を鮮明にして、抑圧や差別をなくす行動を取ることになる訳ですね。

 

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「希望」の発展型としての 「本気の関わり」 改訂版

2015-07-25 16:16:13 | エリクソンの発達臨床心理

 

 年寄りが老賢者であることを止めて久しいですね。日野原重明先生や柴田とよさんなどのごく少数のお年寄りと、福祉と医療の世話になる、大多数の高齢者に分かれてしまいました。

 The life cycle completed 『人生の巡り合わせ、完成版』、p62の第2パラグラフから。

 

 

 

 

 

 間違いなく、老人の役割は、見直す必要がありますし、考え直す必要がありますね。その見直しと考え直しのために、私どもはここから私どもの表を見直してみたいと思います。ですから、表に戻りましょう。老人の位置取りは、表の縦と横とでは何かしらね? 年齢的に言ったら、老人は表の右上に位置取られますから、その最後の耳触りの悪い方の特色は、despair 「良いこともあったけれども、“人生に何の望みもありゃしない”という感じ」と私どもは言いましたね。それから、左下の角もちょっと見ときましょうか。私どもが思い出すのは、そこを戻れば、最初の耳触りのいい要素が、hope 「困難があっても、信頼し続けること」でしたね。スペイン語では、少なくとも、esperanza エスペランザ 「希望」と desesperanza デスペランザ 「絶望」を、このhope「困難があっても、信頼し続けること」は繋ぎます。また実際に、どの言語でも、hope 「困難があっても、信頼し続けること」は、≪私≫の最も根源的な性質です。もしも、このhope 「困難があっても、信頼し続けること」がなかったら、人生は始まりませんし、意義深い終わりにもなりませんからね。私どもは、空欄になっている左上の角に上がるにつれて、分かってくるのは、そこに上がって来るには、私どもは最後に抱き得る形のhope 「困難があっても、信頼し続けること」に対して一言必要で、このhope 「困難があっても、信頼し続けること」は、最初の垂直線を登るにつれて成熟するものだ、ということです。これにふさわしい言葉は、faith 「低きに立たされている人たちから、本気で学ぶつもりで、関わること」になります。

 

 

 

 

 

 実に上手く出来たライフサイクルですね。なるべく生活の実感に近づける翻訳を試みました。特にfaith は時間を掛けました。「信仰」とやったら、もう意味をなさないと感じます。信仰と関係のない生活をしている日本人がほとんどだからですね。

 でもそれだけじゃぁ、ないんですね。「信仰」と一般に考えられていること、たとえば、日曜礼拝に行ったり、そこで献金したり、祈りのチェーンに加わったり、お御堂のおミサに参加したりすることが「信仰」という印象をもつのが、一般的かもしれません。しかし、「信仰」と訳されることが多い、元のギリシア語のピスティス πιστις「信頼」は、そういうこととは、全く関係がありません。  

  ですから、今回も本田哲郎神父の助けを借りました。本物のクリスチャンだと感じるからですね。クリスチャンと言っても、私に言わせれば、偽物が多いし、かく言う私も簡単に偽物になります。ですから、いつだって、あの方を見上げていたいんですね。それも本田哲郎神父や西村秀夫先生や野村實先生に見習いながら…。

 faithは、日曜礼拝に行くことでもなければ、おミサに参加することでもない。それは「低きに立たされている人たちから、本気で学ぶつもりで、関わること」です。

 

 

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