看護師に文章を書くことを勧める、「その先の看護を変える気づき」という本の序文の中で
ノンフェクション作家の柳田邦男さんが、
「書くことと内面の成長」と題して
『人は、なぜ文を書くのか。
人は、なぜ戦争体験記を書くのか。
人は、なぜ闘病記を書くのか。
この問いは、人間が生きるのを支えるものは何かという問いと、おおいに重なっているようにみえる。・・・・』
の書き出しで
興味深いことを述べている。
こちらの、柳田邦男さんの文章の、『つづき』をクリックして、ぜひお読みください。
以下、医学書院のホームページで公開されているその、
「その先の看護を変える気づき」から序文の柳田邦男さんの文章から一部
引用させていただくと、
『私はノンフィクション・ジャンルの表現活動をしていることもあって、数々の戦争体験記や公害・事故・災害などの被害者の手記を長年にわたって、読んできた。
それら多くの手記を通して、書くという行為のモチベーションを分析したことがある。
その結果、一人の人が何らかの手記を書こうとするモチベーションには、いくつもの要素がからんでいることがわかった。それらの要素を整理してみると、次のようになる。
(1)辛さや悲しさが耐え難いほどに大きいがゆえに、表現しないではいられない気持ちの昂りが生じる。
(2)この辛さや悲しさを、誰かに伝えたい、多くの人々に知ってほしいという思い。
この広い世界には、何十億人という人間がいるが、こんな辛く悲しい思いをしているのは、自分だけだ、そのことを誰かに知ってほしい理解してほしいという、追いつめられた心境になる人が少なくない。
(3)自分がこの世に生きたという存在証明を書き遺したい、そして身近な人々に伝えたいという強い思い。自分が何も遺すものもなくこの世から消えてしまうことへの恐怖感を克服するために書こうとするのだ。
(4)自分は他の誰でもない自分であったのか、自分の人生はどんなものだったのかを、自分なりに納得できる形で確かめたいという思いから、自分の人生、自分が歩んできた歳月を、あらためて確認し噛みしめつつ、思い出の数々を中心に人生一代記とも言うべきものを書く。
これは、(3)の自分の存在証明のために書く内容と重なり合うところが多い。
(5)こんな辛い思いをする戦争、人によっては災害、あるいは病気なんか、この世からなくなってほしいという切実な願いを、社会にアピールするために書く。
これら以外にも、なぜ書くかのモチベーションはいくつかあるが、主要なものはこんなところだろう。これらの要素を通して、私が注目したいのは、
(3)と(4)に記したこと、すなわち、自分がこの世に他の誰でもない自分として生きた証をつかみたいという思いから、人生を振り返って、思い出の数々を書くという行為だ。』
以上引用おわり。
これに私がなぜ、このブログを書き続けてきたのかを重ねて考えてみると、
(1)の辛さや悲しさが耐え難いほどに大きいがゆえに、表現しないではいられない気持ち。と
(2)のこの辛さや悲しさを、誰かに伝えたい、多くの人々に知ってほしいという思い。と、
(5)こんな理不尽で辛い思いをする人が、今後は、世界中からなくなってほしいという切実な願いを、社会にアピールするために書く。
が強かった気がする。
その(1)と(2)と(5)の目的を達成するために、(3)と(4)が付け足される感じだ。
(3)自分がこんな理不尽な目に遭いながらも、この世に生きたという存在証明を書き遺したい。
そして身近な人々に私のその時の思いを伝えたい。
こんな思いをしながら生き延び、自分が何も遺すものもなくこの世から消えてしまうことへの恐怖感を書き残すことで、癒し、心安らかに人生を全うしたいために書こうとする。
(4)自分の人生はどんなものだったのかを、自分なりに納得できる形で確かめたいという思いから、自分の人生、自分が歩んできた歳月を、あらためて確認し噛みしめつつ、思い出の数々を中心に人生一代記とも言うべきものを書き残したい。
そう思う。
今までなぜに、私は、これほどまでに突き動かされ、あらゆるものより優先して思いを書き綴ってきたかが、
この柳田邦男さんの分析で、理解できた気がして、すっきりした。
ただ、私がもうひとつ六番目に付け加えるとしたら、
「人はなぜ、戦争体験記を書くのか?なぜ、被災体験を書くのか?なぜ、闘病記を書くのか?」
それは、
(6)その人の今の健康そう、元気そう、幸せそうな外見からは想像できないような過去の悲惨な体験を、
その人が語ることで、後世にその教訓を生かしてもらいたいとの願い。
があるからではないか?
たとえば、今、孫やひ孫に囲まれ、健康で幸せに過ごす、沖縄のおばあも、
もしかしたら、
あの沖縄戦で信じがたい悲惨な光景を目にしているかもしれない。
命からがら生き延びた過酷な経験をしているかもしれない。
たとえば、今は新しい家に住み、健康そうに仕事も元気にこなしている人も、
話してみれば、
東日本大震災に遭い、家も家族も仕事も失いながら、
心に傷を負いながらも、最近やっと立ち上がりつつある人なのかもしれない。
たとえば、今の外見からは、
なんの苦労もなく、元気そうで、幸せそうで、どこも悪そうに見えなくて、
むしろ普通の人より健康そうで、
普通に歩け、普通に過ごしているように見える人も、
何年も脳脊髄液減少症を見逃され、
医師にもその苦しみを理解してもらえず、家族からも罵倒され、
人間不信に陥り、
あげく、
起き上がっていることもままならないような過酷な脳脊髄液減少症の何年もにわたる闘病体験と、健康保険も効かないような理不尽な国の仕打ち、
否定派医師たちの苦しみに輪をかける無理解運動の仕打ち、
それらの
医師や社会の無理解と無関心に
ただでさえ苦しい心と体をさらに傷つけられ、めったうちにされ、
心も体もボロボロだった時期もあった
元、脳脊髄液減少症患者もいるかもしれない。
そういった人たちは、外見からでは何も伝えられないから、
自分が
自分の経験を文字や言葉で伝えることで、
後世の人たちの命を守りたい、
こどもたちを自分が経験したような同じつらさや悲しみ危険から守りたい、
そういった、
人類の、種の保存のような、
生物としての、本能的な気持ちも含まれているのではないか、と私は思う。
だから、沖縄戦の戦争体験者の生き残った語り部が、
高齢になっても、
命の限り、子供たちに伝えてくださっているんだと思う。
私も戦争体験者の方々の苦労にはとても及ばないが、
その使命を強く感じている。
形は違うが、
過去の交通事故の見逃され脳脊髄液減少症患者の生き残りとしての、
自分にしか伝えられないことを伝え続けたいと思っている。
将来、脳脊髄液減少症が、
がんのように、
世界中の医師はもちろん、一般の人々にその病の知識が広まり、
世界中の医師がそれぞれの分野で関心を持って、研究し、患者と向き合い、
症状の緩和ケアもリハビリも用意され、
見逃され続けたことで深く傷ついてしまった患者の心のケアも用意され、
脳脊髄液減少症患者が、
誰でも、平等に、いつでも、どこでも、
医療に手厚く向き合ってもらえるようになる、
その日まで。