太平洋戦争の発端となった真珠湾攻撃は
1941年12月2日17時30分
大本営より機動部隊に攻撃を命じる
暗号電文が発信された
ニイタカヤマ ノボレ ヒト フタ マル ハチ
ニイタカマヤ(現、台湾の玉山)
ノボレ(攻撃せよ)
ヒトフタマルハチ(12月8日)に 攻撃
攻撃総指揮官 淵田中佐は全軍に ト・ト・ト(全軍突撃せよ)と
命令下し 真珠湾基地 航空基地を攻撃
アメリカ太平洋艦隊に大打撃を与えた
指揮官淵田中佐は暗号電文 トラ トラ トラ
(ワレ奇襲に成功セリ)と 打電した事は有名な話である
終戦後淵田はC級戦犯の証人として 軍事法廷に度々召喚された
勝者が敗者を裁く欺瞞の満ちた裁判に怒りを覚えた淵田は
逆にアメリカ人が日本捕虜に対する 虐待の証拠を得たいと
アメリカの捕虜だった 日本人に話を聞いた
だが
収容所で日本人捕虜に親切を尽くし 病人に献身的に看病してくれる若い女性がいた
日本人に尽くす事に一点の邪意が無かったと言う
若い女性(マーガレット・コウェル)の両親は宣教師でフィリピンおいて
スパイの容疑(無実)で日本軍に処刑されていた
しかし両親は死の直前まで
「父よ彼らを許したまえ その成すところを 知らざればなり」と
日本軍への許しを神に祈り請うた
彼女はそんな両親の意志を継いで
日本人 病人を愛を持って 献身的に尽くしていた
その話を聞いた 淵田は半信半疑だった
また アメリカ人が駅前でパンフレットを
道行く人に配っていた 見ると「私は日本の捕虜でした」と
題した元軍人で ジェイコブ・デシェーザー宣教師の書いたものだった
ジェイコブは真珠湾攻撃で2,334人殺された事に復讐心に燃え
日本への空爆を志願し名古屋に3百発近くの焼夷弾投下した後
基地に帰る時に 燃料が尽きたため落下傘で投下したところ
仲間10人と共に捕虜となり アメリカ兵捕虜に対する 獄中での
虐待、冷遇 仲間3人の処刑で 日本人への激しい憎悪を抱いた
後にジェイコブも 聖書が語る 神の愛に触れ
聖書が教える「汝の敵を愛せよ」のキリストの教に
感銘を受け 敵意と憎しみを 克服し
キリストの愛を 日本人にも伝えたいと 宣教師になって
戦後 家族と供に来日し 自分が爆撃した名古屋を拠点に
神の愛と神による平和の 福音を延べ伝えた
これらの話を聞いた 淵田は衝撃を受けた
憎悪を真の 兄弟愛に変える キリストの教に 心が向き
聖書を調べてみたいという 不思議な欲求にとらわれた
聖書を読み続けていると
「父よ、彼らを許したまえ そのなす所を知らざればなり」の所で
淵田は、ハット、あの若い女性の話が 頭に浮かんだ
これはキリストを十字架につけ
槍を突こうとするローマ兵のために
天の父なる神に 許しを請うた キリストの祈りだった
敵を許す博愛 その時
若い女性(マーガレット・コウェル)の話がハッキリと理解出来た
「父よ彼らを」の「彼らは」自分も含まれていると 示された
淵田は1951年バプテスマ(入信する儀式)を受け
キリスト教に入信した
淵田はデシェーザーと共に 北海道から沖縄
東南アジアの国々、カナダ、ヨーロッパ
アメリカ本土47州各地域で
キリストの福音と 戦争の愚かさ
憎しみの連鎖を断つことを訴えた
12年前真珠湾攻撃で2400人近くの人々を死に至らしめた地
1953年にハワイの各地で60日間滞在して
福音と平和の 尊さを訴え続けた
伝道する淵田に海軍仲間から批判
米国では殺人者は帰れと 罵倒されることもあった
それでもなお 淵田信念をもって 語り続けた
無知は無理解を生み 無理解は憎悪を生む そうして憎悪こそ
人類相克の悲劇を生む 無知から生まれる 憎しみの連鎖を
断ち切らねば 再び戦争を 生むと 呼びかけ
聞く者に 大きな感動を 呼び起こした
淵田は絶対的な精神的支柱を 聖書が示す神に身を置き
いろいろな障害の中 臆することなく述べ伝え続けた
後に米国の市民権を得る
晩年は大阪水交会 会長を務める
淵田美津雄関する 多数の著書
映画、テレビのドキュメンタリー、動画など多数あり
1902年12月3日 奈良県に生まれ
1976年5月30日 73歳の時死去する