人生黄昏時

 老いを心身ともに感じ

  日々の生活で思った事を記す
  

沖縄の仏教 【20】

2017年10月25日 00時03分39秒 | 日記

  菊隠宗意 <3>

1609年、薩摩藩軍、大将樺山久高は

総勢三千人・八十余の艦艇

鉄砲七三四挺・弾丸・火薬三万七百放(一艇に三百放)

弓百十七張りで火力重視の構成であった

 

その頃の琉球国の、軍事力組織は約一万人の兵力で

三隊で構成された、三番「ヒキ」と言われた

首里城・那覇港湾などの守りであった

 

弓約五百張りで、鉄砲役二百挺

大砲数門保有し那覇の両岸に砲台設置されていたが

武器は主に弓矢が中心であった

 

薩摩軍は、3月4日に山川港を出港した

3月24日には奄美諸島すべてを占領する

 

それを知った王府は、和睦のため

日本語に通じる菊隠宗意を使者として遣わす事になった

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沖縄の仏教 【19】

2017年10月20日 00時04分37秒 | 日記

  菊隠宗意 <2>

1609年に薩摩軍が琉球国に侵攻してきた

侵攻して来た経緯については諸説あるが

 

歴史学者の先生方はほぼ同じ事を述べている

薩摩藩の事情、江戸幕府の事情、琉球側の事情があったとしている

その経緯は、1602年睦奥伊達に、琉球国の船が漂着した

その時徳川幕府の命により、1603年に39人を琉球に送還した

また、1604年には平戸にも漂着し送還している

 

後に幕府は薩摩藩を介し謝恩使を派遣するように求めてきた

琉球側は無視、繰り返し要求したが琉球国は応じなかった

 

薩摩藩は改めて大慈寺の龍雲僧らを遣わし説得し

朝聘するよう求めたが琉球は応じなかった

 

当時幕府の鎖国政策(1612年から始まる)前で

そのころ各藩の商船が多数貿易のため琉球国に出入りしていた

 

薩摩は薩摩藩の朱印状を持たない

船舶との貿易を認めないよう要求したが

貿易国の琉球としては到底受け入れる事は出来なかった

 

それまでの良好関係が崩れ、対立関係が生じた

侵攻へと至る過程に大きく影響したと言われている

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沖縄の仏教 【18】

2017年10月15日 00時02分22秒 | 日記

 禅僧菊隠宗意 <1>

菊隠宗意は幼い時に出家得度

円覚寺住持洞観和尚によって剃髪して入寺

 

その後、日本に渡り京都五山派大徳寺笑嶺宗訢(1490~1568年)より

師事を受け禅堂首座にまでなったと言うが

法嗣を受け継ぐことはなかった

 

その後、古渓宗陳(1532~1597年)に師事し、法嗣を受け継いで

古渓僧師より、菊隠の称号を受け継ぐ

 

菊隠は、十数年の修行仏法の学びを終えて

沖縄に帰国し、天王寺住寺となり

沖縄において大徳寺の仏法を教伝えた

 

菊隠は、薩摩藩などとの外交に携わる

島津家の家督継承の祝いの時も紋船で外交使節として

度々薩摩を訪問して

島津義久・義弘・家久らと親交があったと言われている

 

その後、円覚寺十八代住持となり長きに渡って勤めが

老齢のため辞し、千手寺に閑居した

 

1609年に、琉球国始まって以来の最大の危機が訪れる

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沖縄の仏教 【17】

2017年10月10日 00時03分06秒 | 日記

 袋中良定上人 <6>

袋中は、中国明に渡る機会を待っていたが

その目的を果たすことが出来ず、1606年帰国する

 

沖縄で、三年の滞在期間であった

渡船を待ちつつ、浄土念仏の布教活動を熱心に行ってきた

 

尚寧王始め王府の高官、一般民衆も帰依し

沖縄の人々、文化に多大な影響を与えた

 

袋中が教えた、念仏踊りは

エイサーへと発展し沖縄各地域へと広まり

 

旧盆の時期には、全島で盛んにエイサー祭りが行われ

全国的に知られ有名になっている

 

袋中帰国、三年後沖縄は薩摩藩の侵攻を受け

琉球国王尚寧は薩摩に連行されて行く

 

その後尚寧王は、時の将軍二代目徳川秀忠に謁見するため

江戸への道中、京都伏見で袋中と親しく再開した

 

袋中に親筆と賛辞と肖像画・書棚・青貝掛板・クバ団扇・

西湖図など、三十数点余りの宝物、送られた

 

尚寧王直筆の肖像画には

「私は法を譲りて、師を奉げるため、師の像を描き

師が桂林寺を創建された、以来我が師と仰ぐ」と記されている

 

尚寧王と袋中上人の親交の深さ、信頼関係が伺える

これらの宝物は、現在京都府の博物館に保管されている

 

袋中良定上人は、1639年2月23日、八十八歳で入滅する

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沖縄の仏教 【16】

2017年10月05日 00時02分11秒 | 日記

 袋中良定上人 <5>

袋中に厚く帰依した、馬幸明が琉球は神国であるのに

未だその伝記がない、是非とも書いて欲しいと袋中に懇願した

 

袋中は旅行中の身であることを理由に断ったが

あまりに懇願するので

琉球神道記五巻・琉球往来記一巻を著わした

 

檀王法林袋中上人―琉球と京都の架け橋・飯岡西方寺関山記

寤寐集(ごびしゅう)などに、その経緯がしるされている

 

また、馬幸明という人物についても詳しく記述されている

馬幸明は那覇港に勤める士族、国土黄冠の中で

最高位となる位階三位で王府の高官であるとしている

 

しかし、沖縄では、王、その一族、上級士族には

すべて家譜(系図)を作ることが決められていた

馬幸明に関する、家譜がない

 

袋中の著書には、詳しく、多く記されている

そのため実在の人物であると推測されている

 

袋中の著書、琉球神道記から

沖縄の正史である、中山世鑑・地誌・琉球国由来記などは

参照、資料とされていることが多々あると

歴史学者の東恩納寛惇は述べている

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沖縄の仏教 【15】

2017年10月01日 00時02分48秒 | 日記

 袋中良定上人 <4>

沖縄に仏教が伝来したのは13世紀頃

禅鑑が来流し浦添に極楽寺を創建し住寺したと

 

中山世譜・琉球国由来記巻の琉球諸寺旧記序に

仏教が伝来したのが始めてであるとしているが

753年鑑真が来流したと云う伝承もある

 

その後14世紀頃、真言宗・臨済宗が伝来し布教した

両派の修行や難解な仏法の教に比べ

 

浄土宗の教は、易行・易修の教は、ただ念ずるだけで救われ

誰でも特別な修行をしなくても

 

念仏を唱えるだけで救われると教を説いたため

一般民衆に易行易修の信仰が広まった

 

琉球国由来記に「俗にやはらげて」初めて

那覇の人民に伝ふと記述があるように、土着信仰の強い

沖縄においてたやすく受け入れられたと記されている

 

浄土宗は、袋中帰国後継承者がなく

また、三年後(1609年)薩摩藩の侵攻があり

1659年薩摩で行っていた禁教を沖縄においても

キリスト教と浄土宗を禁教とした

そのため浄土宗は次第に衰微していった

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