中国明朝が海禁政策を緩和し
西洋諸国のアジア進出日本の開国によって琉球の中継貿易は急速に衰えた
しかし明朝は朱印船を受け入れなかったため
琉球の明朝との中継交易の地位は残り、東南アジア諸国との貿易は縮小するが
中国明朝・薩摩藩の付属国として
わずかながら両国との中継貿易は安定した形で残ったが
激変する国際情勢、グロバル化する世界
旧体制の琉球国は国として機能を果たすことは出来なかった
その上追い打ちをかけたのが、1644年中国の明朝が倒れ内乱になり
琉球は衝撃を受け混乱し交易も一時期出来なくなった
琉球の政治は混迷し、誰もが危機感を抱いていた
疲弊する国を立て直すために
1666年羽地朝秀が行政の最高位摂政(任期1666~1671年)に就任する
羽地は国の構造改革に着手し、財政再建、政教分離の祭祀の合理化
意識改革、身分制度化の系図を作らせ整備した
身分は系図によって守られ、身分は系図によって継承する、身分を制度化した
「この時期に門中は生まれた」と言われている
羽地は特に農業改革に力をそそぎ、貿易による経済から
農業を国の経営に転換して衰退しつつあった琉球国を甦らせた
羽地朝秀の改革は、三司官の祭温へと受け継がた
祭温は強力なリーダシップで、農業、林業、治水、農地の倹地などの制度を整備した
そして、国政全般の新体制を完成させた
羽地朝秀と祭温は、琉球の五偉人とされ現在でも
琉球国の恩人として尊敬されている