人生黄昏時

 老いを心身ともに感じ

  日々の生活で思った事を記す
  

沖縄 【6】

2016年07月25日 00時01分38秒 | 日記

 中国明朝が海禁政策を緩和し

西洋諸国のアジア進出日本の開国によって琉球の中継貿易は急速に衰えた

しかし明朝は朱印船を受け入れなかったため

琉球の明朝との中継交易の地位は残り、東南アジア諸国との貿易は縮小するが

中国明朝・薩摩藩の付属国として

わずかながら両国との中継貿易は安定した形で残ったが

激変する国際情勢、グロバル化する世界

旧体制の琉球国は国として機能を果たすことは出来なかった

その上追い打ちをかけたのが、1644年中国の明朝が倒れ内乱になり

琉球は衝撃を受け混乱し交易も一時期出来なくなった

 

琉球の政治は混迷し、誰もが危機感を抱いていた

疲弊する国を立て直すために

1666年羽地朝秀が行政の最高位摂政(任期1666~1671年)に就任する

羽地は国の構造改革に着手し、財政再建、政教分離の祭祀の合理化

意識改革、身分制度化の系図を作らせ整備した

身分は系図によって守られ、身分は系図によって継承する、身分を制度化した

「この時期に門中は生まれた」と言われている

 

羽地は特に農業改革に力をそそぎ、貿易による経済から

農業を国の経営に転換して衰退しつつあった琉球国を甦らせた

羽地朝秀の改革は、三司官の祭温へと受け継がた

 

祭温は強力なリーダシップで、農業、林業、治水、農地の倹地などの制度を整備した

そして、国政全般の新体制を完成させた

羽地朝秀と祭温は、琉球の五偉人とされ現在でも

琉球国の恩人として尊敬されている

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沖縄 【5】

2016年07月20日 00時01分58秒 | 日記

 東シナ海の中心にあった琉球は地の利を生かして

中継交易によって、1550年頃最盛期を迎えた琉球国

 

1567年に中国明朝は海禁政策を廃止した

中国の海商人は続々と東南アジアへと進出していった

また、西洋諸国もアジアへ進出し貿易の拠点を構えた

 

中国の海禁政策の上に成り立っていた

琉球の中継貿易は失われ経済は衰退していく

 

1609年七代尚寧王のとき、薩摩藩の侵攻を受け

琉球は薩摩藩の支配下に入り政治的独立をも失う

琉球は薩摩藩の府庸国となり、薩摩藩への貢物を負い

中国明朝にも朝貢を続け、薩摩藩と中国との両属という体制をとり

琉球は独立国家として体制を保ち

朝貢交易の実権は薩摩藩が握り間接支配をしていった

 

それから、奄美諸島は薩摩藩の直轄地となり、琉球から分離された

 

また、江戸幕府に使節を(江戸上り)派遣する義務を負うことに成り

1634年から、江戸時代末期の1850年までの間に

18回行われた、随行員は100人前後であったといわれている

6月ごろ出発し11月頃江戸に着きⅠ~2ケ月ほど滞在し

年が明けてから江戸を出発して

ほぼ1年掛りの長い旅であったと記録がある

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沖縄 【4】

2016年07月15日 00時01分17秒 | 日記

 尚泰久王の子尚徳王の死に伴い

1469年尚泰久の重臣であった金丸が王位に就き尚円王と名乗り

第二尚氏王統の始祖となった

19代 410年(1469年~1879年)続き琉球国を統治した

 

尚円王の子三代目尚真王(1477年~1527年)の時

地方の按司を王府のある首里に居住させて、武器を取り上げ

中央集権体政と祭祀一致政策を行う

 

各地にあった祭祀、神事を整理し、ノロ(神女)の組織を整備し統制化した

地域全体のノロを統括する大阿母(おおもも)とし

その上に聞得大君を置いた、琉球全土の ノロ・神職の頂点に立つ存在である

最初の聞得大君は、尚真王の妹である

 

祭祀制度を制定し階層化して、王権を不動のものとなる

 

北は奄美諸島から南は先島(宮古・八重山・与那国)諸島を軍事で平定し

広大な海域を支配する、国家を築いた

中国との朝貢交易を中心に日本・朝鮮・東南アジアと広く交易を行い

琉球国は 1550年頃には最盛期を迎える。

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沖縄 【3】

2016年07月10日 00時02分47秒 | 日記

 三山を統一し琉球最初の統一国家を成立した

尚巴志は首里城を拡張、整備し王家の居城とした

 

那覇港を整備し、中国始め朝鮮、日本、東南アジアとの

交易時代の基礎を築いた、そして、文字文化をも発展させた

 

王府は、統一を成したが諸按司の勢力が強く有効な中央集権化政策を

実施することが出来なかった

 

王族内部の、志魯と布里の王位継承争い

護佐丸と阿麻和利の内乱や、外征(1446年喜界島に侵攻)などが続いた

尚巴志王統は、不安定ながら七代64年続いた

三代から六代まで尚巴志の子で、何故か王位は短命であった

 

六代尚泰久王の時、大世通宝と言う銅銭を造り、1458年頃万国津梁の鐘を造った

 

1462年尚泰久王の重臣であった、金丸(後の尚円王)が

七代尚徳王の死に伴い、王位を継承して第二尚氏王統(第一尚氏と血縁関係なし)の成立

正史では重臣たちの推挙によって即位したと記されているが

クーデターによって王位を奪ったという根強い説がある

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沖縄 【2】

2016年07月05日 00時02分20秒 | 日記

 沖縄が最初に歴史に記されたのは

636年中国の歴史書「随書」(ずいしょ)に

琉球の初期の表記である「流求」と記述がある

 

また、沖縄と初めて記されたのは、753年遣唐使一行が

遭難し阿児奈波島(おこなはじま)に漂着したと

鑑真の伝記「唐大和上東征伝(779年成立)」に

「おきなは」の語が初めて、「おこなはじま」と表記されている

沖縄は「おきなは」の当て字と言われている

 

沖縄は12世紀頃から各地に大小様々な按司(領主)が誕生し

グスク(城)を築き割拠していた

13世紀に入ると、各地の按司を束ねて

強力な三つの勢力にまとまっていった

北部地域を北山城へ、中部地域では中山城へ南部は南山城へと

これが三山時代で100年余続いていく

 

中山の察度按司が琉球で初めて中国明朝の冊封体制を受け入れ

1372年に朝貢関係に入る、1380年に南山の承察度按司

1383年に北山の怕尼芝按司も冊封体制を受け入れた

良津(港)を所有していた三山は積極的に交易を行い

経済力、軍事力に伴い勢力を拡大して行く

 

1405年、察度按司の二代目武寧は悪政を行っていたため

佐敷按司尚巴志が攻め滅ぼし、父尚恩招を中山に按司に就ける

1421年父の死により、尚巴志が中山按司に即位する

1416年北山攀安知按司を攻め滅ぼす

1429年南山他魯海按司も攻め滅ぼして三山を統一した

琉球最初の統一国家が成立、第一尚氏王統の始まりである

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沖縄 【1】

2016年07月01日 00時04分00秒 | 日記

 沖縄は、明治以前は流球国として

450年(1421年~1879年、統一国家となってから)

以上続いて最盛期には、北は奄美群島から

南は先島諸島まで統治していた

 

160の島々の集合で

人口は約109,000人(1632年頃)の小国であった

日本の鎖国政策や中国明朝・清王朝の海禁政策の中にあって

東シナ海の中心にある沖縄は地の利を生かして

中継貿易で大きな役割を果たした

 

その貿易範囲は東南アジアの国々、タイ国まで広がり

中国明・清王朝の冊封体制を受け入れた

朝貢関係の上に成り立っていた

 

1609年に薩摩藩の侵攻を受けて

以降は薩摩藩による実質的な支配下に入る

ただし対外的には独立した王国として存在した

 

沖縄は、中国・東アジアとの交易で入る文化

特に日本文化の影響を受け独自の文化を築き上げてきた

 

太平洋戦争で米軍の空爆、艦砲射撃、地上戦で県民が巻き込まれ

多数の犠牲者が出た、20万人以上と言われている

戦後、米国軍の占領は27年に及ぶ、統治下におかれた

「1972年5月15日に日本復帰する」

 

現在も多数の米軍基地がある、私が住んでいる嘉手納町に

極東最大と言われる、嘉手納空軍基地がある

 

歴史的・地理的・政治的背景で他の都道府県にない

特色のある文化を持つ県となっている

 

現在の沖縄県は、産業として、第一次産業は2%と

第二次産業は12、4%と低く第三次産業が85%を占め

観光産業に依存している、沖縄...?

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