万次郎は近代日本の夜明けとも言える時代に
日米の架け橋となる 幾多の業績を残した人物
万次郎は1827年1月27日現在の高知県土佐清水市中浜
漁師父悦介と母汐の2男、3女の次男として生まれた
万次郎14歳の時
船長伝蔵(38歳)と弟2人重助(25歳)五右衛門(16歳)と虎右衛門
万次郎は炊係としてサバ漁に出たのが1841年1月27日の事
ところが嵐に遭い5日間漂流後、無人島鳥島に漂着
魚や鳥、海藻などを食べ、
過酷な無人島生活を送ること 143日間
1841年6月27日アメリカの捕鯨船ジョン・ハラウンド号が
食料として海亀を確保しようと、無人島鳥島に立ち寄った際に
乗組員に発見され救助され、5人は九死に一生を得る
やっと故郷へ帰れると思っていたが、その頃の日本は鎖国していたため
外国船は日本近海に立ち寄る事、港に入ることは出来なかった
船長ウィリアム・ホイットフィールドは救助した5人を乗せたまま
捕鯨活動を続けながら 中継基地ハワイへ
1841年11月20日にジョン・ハウランド号はホノルルに寄港した
ハワイ国王の顧問であったGerrtP・juddの計らいでこの地に4人は降りた
虎右衛門はそのまま移住した、重助は5年後病死
船長の伝蔵と五右衛門は十年後 万次郎と共に日本に帰国する
万次郎は船長のホイットフィールドから
アメリカ行きを誘われた万次郎は自ら進んで
アメリカ行きを望み4人と別れ 捕鯨船員となった
乗組員から船名にちなんで親しみを込めてジョン・マンと呼ばれた
ジョン・ハラウンド号は1843年5月7日
万次郎が救出されてから 2年後アメリカ最大の捕鯨基地
マサチューセッツ州ニュベットフォードに帰港した
フォロー、リアクション、コメント頂き
有難う御座います 大変励みになります