人生黄昏時

 老いを心身ともに感じ

  日々の生活で思った事を記す
  

祖霊 【2】

2021年06月25日 00時00分15秒 | 日記

  祖霊について

折口信夫「琉球の宗教」によれば

沖縄では自分の祖先は死後七代目には必ず

 

神になると信じられて「中山世監」ではこれを

「七世生神」と書いていると紹介している

 

さらに「琉球の宗教」によれば

沖縄では人が死ぬと屍体を洞窟の中に入れて

その口を閉じる風習があったが

 

七代経つと屍体を入れていた

洞窟をくりばか(神墓)と称する神墓は拝所となり

 

時代を経るに従って他の人々も拝するようになると

沖縄では祖霊が神になることを紹介している

 

死生観として

魂は神のいる異界ニライカナイより来て

 

死んでまたそこへ帰り

守護神となって集落へ還ってくると考える

 

このため祖霊を非常に敬い

死後の世界を後生(グソー)と称して

これも現世や生者近いものと考えている

 

また、仏教の影響を受けて

旧暦8月には祖霊が集落

家族のもとえ帰ってくると云う

 

沢山のご馳走を準備し盛大に接待し

お盆の先祖供養である 祭祀を行う

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

祖霊 【1】

2021年06月20日 00時00分34秒 | 日記

  沖縄は先祖の祖霊を崇拝する土地としてよく知られている

氏祖は村落、地域の守護神とされている

 

桜井徳太郎は沖縄独特の他界観念として

後生(グソー)観をあげ

その一例として久高島の後生観を取り上げている

 

久高島では墓地の入口を新後生(ミーグソー)と称して

そこを生界と死界との境界だとして

 

7年後の洗骨が終わると死者は真の

後生へ行って神に成ると考えていた

 

新後生では

死者は生前と同じ生活をすると考えているため

新後生の墓廓は現世の家屋と同じ形態を備えている

 

鳥越憲三郎は沖縄人の墓造りは

死後も出来るだけ居心地の良い

住家でありたいとの思いから

 

多額の私財を惜しげなく投じて

豪壮で大規模な墓を造っているとのべている

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ウチナー

2021年06月15日 00時00分18秒 | 日記

  ウチナー(沖縄)古くはリユチュウ(琉球)と呼んだ

 

沖縄と呼ぶ場合

県外からは沖縄全域を指すが

 

沖縄では沖縄本島のみを指す地名で

 

沖縄を方言で「ウチナー」

沖縄人を「ウチナーンチュ」と呼び、

 

沖縄県を除く 46都道府県を本土と呼び

先輩方の中にはナイチャ(内地)と呼ぶ方もいる

 

本土(大和)の人を「ヤマトンチュー」と呼び

先輩方の中には ナイチャー(内地人)とも呼んでいる

 

沖縄県は広島県に次いで外国に移民を多く送り出している県である

このため世界各地に流系外国人が存在している

 

沖縄の移民は100年に及ぶ歴史の中で海外に移住した

子孫の二世~五世は現在約41万人以上いるといわれている

 

そうした県系外国人が、父母祖の地、沖縄に帰って

沖縄に住む人と交流をして絆を深め

 

世界中に広がるウチナーンチュの

ネットワークの構築を図る目的で

 

1990年から世界のウチナーンチュ大会

沖縄に集う世界のウチナーンチュ大会が開催された

 

回を追うごとに人数が増え5回大会には

4500人以上の参加があった

 

5年ごとに開催される世界のウチナーンチュ大会は

第6回目開催は2017年10月26日から30日まで開催された

 

29ヶ国、地域から7,353人が来県

地元県民との交流を深め会った

 

開催期間中、県内各地で

スポーツ・武道・文化、芸能や

 

ワールドバザールといったイベントに加え

シンポジュム・フォーラム・ネットワークに関する討議などが行われ

 

70以上のイベントが開催され

大会延べ来場者も約40万人以上の参加者

 

そして10月30日を「世界ウチナーンチュの日」として制定する

 

5年ごとに開催される世界のウチナーンチュ大会は

第7回大会は2021年10月開催予定でしたがコロナ過のため

 

1年延期する事を2021年9月に正式に決める予定

 

沖縄県内には県外出身者(外国人を含む)が約10万人以上住んでいて

県外に住むウチナーチュは約45万~50万人以上

 

沖縄県 現在の総人口1,454,890人 2021年4月1日現在

コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ドゥナン チマ

2021年06月10日 00時00分15秒 | 日記

  ドゥナン チマは日本最西端の島で

東西に長く延びた地形で

 

東端を東埼、西端を西崎と言う

この西崎からよく晴れた日には隣国 台湾が見える

 

ドゥナン(与那国)チマ(島)は八重山諸島の中でも

独特の自然や文化・歴史を有している

 

2003年から2004年、特番として2006年に

フジテレビ ドラマ「Dr、コトー診療所」が放映され

 

全国的に知られ 有名になる

(セットが現在も残っている)

 

与那国島は真っ青な青い空、青い海

夜は満点の星空である

 

島の南海岸に人工遺跡なのか

自然に出来た物なのか

 

まだ解明されていない神殿跡のような

巨大石造物海底遺跡が在り、

ダイビングのメッカになっている

 

美しい地上の楽園、国境の島と呼ばれる

ドゥナン チマ(与那国島)に

悲しい歴史が伝承されている

 

琉球王府が1637年に宮古・八重山諸島だけに

行われた、差別的な人頭税制度が施行された

 

この人頭税は穀物の収穫に関係なく

15歳から50歳の全ての人の頭数によって税が徴収された

 

この人頭税制度に与那国島の人々は

重い年貢に苦しむことになる

 

人頭税を少しでも軽減するために

人口制限が行われた クブラバリ(久部良割)がある

 

クブラバリとは幅三メートルもある

岩の裂け目、深さ七メートルを

 

島の妊婦、全員を集めこの裂け目を飛び越えさせた

飛び越えた妊婦は生き残り

 

出来なかった妊婦は流産するか子供共々死んだ

 

また、トゥングダ(人桝田)と呼ばれる田んぼに

15歳から50歳の男子を招集し規定時間内に

入りきれない者は島民の合意のもと惨殺された

 

人頭税による過酷な取り立てがあった頃の

人減らしの策であった

 

1637年に始まり1903年(明治35年)まで

実に266年続けられた 人頭税

 

クブラバリ (久部良割)

トゥングダ (人桝田)

と言う悲惨な伝承と遺跡、現在も残っている

コメント (9)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

サンアイ・イソバ【2】

2021年06月05日 00時01分08秒 | 日記

  石垣島を統治していた英傑オヤケ・アカハチは

琉球王府が求めた朝貢を拒否し

 

琉球王府に従わなかった

それに怒った王府は

 

宮古島の首長仲宗根豊見親玄雅に征伐を命じた

玄雅は嫡子の中屋金盛を大将にし

 

3千人の兵士を乗せた46の軍船で

石垣を攻めアカハチ軍を鎮圧した 

1500年の事である

 

その勢いで金森は軍を率いって

与那国島に侵攻し攻撃してきた

 

ドゥナンバラ村とダティグ村は焼き払われ

残りの2村も焼き払われ、弟の按司たちは殺された

 

イソバは軍を率いって追撃し

遂に宮古軍は敗走した

 

宮古軍を撃退し与那国を守った

サンアイ・イソバ名は後世まで

英雄伝説として語り継がれるのである

 

イソバの姓没年は不明だが子孫は島袋家として伝わっており

十六代まで女系であったと言う

 

現在与那国島の観光名所の一つになっている

ティンダパナの近くにイソバの石碑が建立され

墓が設けられている

 

イソバの子孫は現在も続いており 功績を称え

その子孫を中心に、島民も参加し祭りを行っている

この祭りは島中まちり(祭)と言う

 

壬午の日に、今は廃村になっているが

島中ムラで行われている

 

サンアイ・イソバはドゥナン(与那国)チマ(島)を

守り、開拓者、優れた指導者 

 

チマの英雄として

サンアイ・イソバは後世に語り継がれて行くであろう

コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

サンアイ・イソバ【1】

2021年06月01日 00時00分15秒 | 日記

  ドゥナン(与那国) チマ(島)は

15世紀以前の史料は皆無に等しい

 

与那国島はどの国にも属せず独立国であった

15世紀末から16世紀前期頃

 

サンアイ・イソバ がドゥナンを統治していた

女傑と呼ばれたサンアイ・イソバは

 

巨躰で豪傑、剛力の持ち主で

祭祀を司る、ムトカアボ(元司阿母)とも

呼ばれる神職者でもあった

 

サンアイ・イソバとは通称で

サンアイは方言でガジュマルの樹と意味し

 

イソバは名前

ガジュマルの樹が生い茂る ムラのイソバと呼ばれた

 

イソバは祭政を基本に内治を良くし

外敵を防ぐ政策を執って与那国を統治した

 

イソバは広域な開田を行い

開いた水田は現在のハインダン

 

またサンバルを開拓し牧畜も営んだ

開拓した地にムラを造った

 

造った村は二十以上あったと言われている

 

イソバは四人の兄弟がいて

兄弟それぞれに、ドゥナンバラ村、ダディグ村

ダンヌ村、ティバル村の按司(領主)として配置し

 

自らは島の中央に位置するサンアイ(ガジュマル)村に居し

中央集権祭政を行った

コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする