袋中良定上人 <3>
袋中は以前より、中国明に渡り仏法を学びたいと望んでいた
五十二歳(1603年)の時、意思を固め郷里の磐城を旅たち
明への便船を求め九州の長崎平戸より出国したとされている
しかし当時は日本と中国明との関係は断絶状態であり
日本人は入国出来なかった
やむなく琉球に渡り、そこで渡明する機会を待つことにした
袋中が琉球に渡った経緯については
「袋中上人絵詞伝」と「檀王林袋中上人―琉球と京都の架け橋」に
詳しく記されている
袋中は渡船を待つかたわら
念仏布教を熱心に活動していく
士族で王府の高官那覇港に勤めていた
馬幸明が帰依した
また、儀間真常も深く帰依する
儀間真常は、沖縄の五大偉人の一人である
中国から伝来した蕃薯(はんすー(いも))の普及
砂糖の制法の伝播、琉球絣の木綿栽培、織などの
沖縄の産業の基礎を築いた人である
袋中から儀間真常に「麻性家譜」に
袋中直筆の「受了徳公」書を賜ったと記され
掛け軸が残されている
時の七代目尚寧王も、袋中に厚く帰依して
松下町に桂林寺を建立し、袋中は居寺し布教活動をしていく
多くの信仰を集め、沖縄の文化に大きな影響を与える
「袋中上人絵詞伝」や「檀王林袋中上人―琉球と京都の架け橋」
に詳しく記述されている