人生黄昏時

 老いを心身ともに感じ

  日々の生活で思った事を記す
  

儀間真常【3】

2020年08月25日 00時00分19秒 | 日記

  1609年3月4日薩摩軍3千余兵、80余りの船団が

琉球に侵攻し奄美大島・徳之島・沖永良部

 

そして3月5日琉球本島今帰仁運天港に侵攻

次々と攻略、琉球国軍の抵抗はむなしく

4月4日首里城は陥落、尚寧王は降伏し首里城を下城する

 

5月15日尚寧王薩摩へ連行され

1610年将軍徳川秀忠に謁見のため江戸へ

8月28日江戸にて秀忠に謁見し尚寧王臣従を表明する

 

その随行、約百余名の中に勢頭役として

真常も随行していた、その帰り

 

1611年木綿(きわた)の種を

薩摩から持ち帰り屋敷内で試植し研究した、

 

そうして栽培法と木綿の織り方を普及させ

後の琉球絣織の基礎を築いた

 

また、ウージ(甘蔗)の栽培法とウージ(サトウキビ)から

サーター(砂糖)の製糖方法を琉球全島に普及させる

 

サトウキビの発祥の地はニューギニアの島々であると言われ

6000年前後現在のインドと東南アジアに広まり

砂糖の精製は北インドが発祥とされている

 

中国では紀元前3世紀頃から長江流域で

甘蔗から砂糖が作られていた

 

琉球にもサトウキビをウージとして栽培されていたが

砂糖にする製法は知らなかった

琉球は明王朝と朝貢関係にあり度々明国を行き来していた

 

1623年頃王府の高官であった真常は部下を

明国に派遣し製糖方法を学ばせ

 

そして琉球においても

ウージから砂糖(黒糖)を製造する事が出来た

 

そして琉球全島に普及させ琉球の基幹産業のひとつになった

現在でも沖縄を代表する重要な産物である

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儀間真常【2】

2020年08月20日 00時00分48秒 | 日記

  1605年頃中国から甘藷の苗を持ち帰り

野国ムラで栽培、痩せた土地でも天候に左右される事なく

 

よく育ち食べても美味しく保存も出来る事から

栽培法をムラ(村)の人々に広めた

 

琉球に始めてウム(芋)の苗を持ち帰った

野国総官とは

 

現在の嘉手納町野国ムラで出生(生没年不詳)

琉球名は与那覇裕初・からなー(唐名)は総世健

 

わらびなー(童名)はマチューと呼ばれていた

 

野国は出身地、総管は役職名である

 

明王朝との朝貢関係にあった琉球は毎年事に

進貢船を派遣していた野国は総官(事務職長)として

 

1605年頃進貢船に総官として乗船し

その時に持ち帰ったのが甘藷の苗である

 

この甘藷によって、台風や干ばつの災難の多い

琉球の人々が飢餓から救われた

 

私が住む嘉手納町では野国を

ウムウフシュ(芋大主)と呼びその偉業を称え

 

2005年に甘藷伝来400年蔡を大々的に行われ

総官の出身地にちなんで

 

野国芋と呼ぶ、野国いも宣言を行った

 

ウムの恩恵は儀間真常によって琉球全島に普及していった

 

1705年頃薩摩山川の前田利右衛門は船乗りで

琉球を訪れた時に、琉球芋を持ち帰り

薩摩領内で栽培し広めた

 

伊奈忠達が西日本に芋の栽培をひろめ

西日本で普及していた、サツマイモを

 

青木昆陽によって江戸に持ち込んで関東地方に広まり

そして日本全国へと普及していった

 

甘藷は琉球ではウムと呼ばれ薩摩では琉球芋

全国ではサツマイモと呼ばれている

 

日本全国が野国いもの恩恵を受けて来た

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儀間真常【1】

2020年08月15日 00時00分32秒 | 日記

  儀間真常とは、琉球国の殖産家

ウム(甘藷)の栽培方法と普及

 

木綿の栽培方法と木綿織の製法の普及

 

そしてウージ(サトウキビ)の栽培と

サーター(砂糖・黒糖)の製糖方法の普及し

琉球国の主要産業として、発展に尽力した人物

 

真常は父儀間親雲上真命と母真鍋の三男として1573年に誕生、

からなー(唐名)麻平衛、わらびなー(童名)真市

 

1593年父の跡を継ぎ、真和志間切儀間地頭となり

儀間親雲上真常と称した

 

1605年頃野国総監が中国から鉢植えにした

ウム(甘藷)の苗を持ち帰り、野国ムラで試作した

 

痩せた土地でも、また天候にも左右されない

ウム(芋)はよく身を付け

 

食べても美味しく、保存も出来

ムラ(村)の人々からも大変喜ばれた

 

琉球の島々は台風の通り道と言われるほど

毎年多い時は30個近くの台風に見舞われ、

 

また、干ばつも度々起き

飢餓の脅威にさらされ、時には餓死者も出た

 

作物が育たない、慢性的な飢えを、どう解消するか

当時の為政者の最大の関心事だった

 

甘藷の事を知った、真常は、野国総官に教えを請い

そして栽培方法の研究を重ね、

 

また国の推奨、奨励もあり

琉球各地にウム(芋)を普及させた

 

儀間真常は飢餓から多くの人々の命を救ったと評された

 

中国から伝わった唐芋は

琉球から薩摩に伝わり琉球芋言われ

 

薩摩から日本全国に伝わり

サツマイモと呼ばれている

 

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蔡温 【5】

2020年08月10日 00時00分21秒 | 日記

  祭温は1728年47歳の時、王族・上級士族

200余名の選挙によって

世あすたべ(三司官)に任命される

 

三司官は3人制で、王府の実質的な行政最高責任者である

 

1609年薩摩藩の軍事侵攻により薩摩に支配され

琉球は幕藩体制へと組み込まれた

 

1666年羽地朝秀が摂政に任命され

羽地は幕藩体制という現実

どうしようもない現実を容認し

薩摩・幕藩体制との協調体制の倫理を導入し

 

古琉球の伝統を批判、否定し近世琉球へと

改革を断行し道を開いた、羽地の死去後

 

1728年に蔡温が世あすたべ(三司官)に任命され

羽地の改革を継承し、蔡温は持てる知識と

強力なリーダーシップを発揮し改革を押し進め

完成へと導いていく

 

蔡温も薩摩藩の支配と幕藩体制と言う現実を受容し

その枠内で独立国家としての道を摸索していく

 

まず国民(士族)の意識・イデオロギーの改革

新しい価値観を儒教の教えを置き

 

王府の経済的自立強化のため、新しい農業・林業の育成と

振興を図り国の近代化を推進し

また諸政策を実行していった

 

蔡温は多くの著作(18本)を著している

家内物語、独物語などは和文で記述されている

 

中世世譜(蔡温本)や図治要伝・簔翁片言は

国の政治や儒学的思索を説いた、漢文で記されている

 

蔡温最後の著作は自叙伝で

これらの著作は後世に大きな影響を与えた

 

蔡温は三司官職を25年間務め1762年80歳の時死去

蔡温は近世琉球を代表する大政治家である

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蔡温 【4】

2020年08月05日 00時01分29秒 | 日記

  蔡温は、久米村の実力者で琉球の正史中山世譜(蔡鐸本)や

歴代法案の編集、漢詩集などを著した

 

父親蔡鐸の下で勉学に励み論語を始め

語学(日本語)など学びまた多くの書物を論破し

 

二十代前半で、トゥージ(通訳)に任命され

漢文の教師や講解師となる

 

1708年27歳の時に進貢存留役となり清国へ

トゥージとして赴任する

 

この2年間に儒学や書物の知識だけでは

何の役にも立たないとする「実学」の教えを学び

多くを学び、多くの知識を習得し、1710年に帰国する

 

1711年尚益王の世子尚敬の教師兼務役に任命される

1712年12代尚益王が死去する

 

1713年尚敬13歳の時、13代目王に即位する

祭温33歳の時に国師に就任し

国を指導する役割を担うことに成る

正義太夫となり首里赤平に土地を賜り転居する

 

1715年34歳で勝連間切神谷地頭職に任じられ

神谷親雲上となった

 

35歳の時申口座となり末吉地頭職となる

38歳で紫金太夫末吉親方となり

三司官となる資格を得る

 

祭温47歳の時王族、上級土族ら200余名の選挙によって

世あすたべ(三司官)に任命される

久米村から2人目の三司官である

 

祭温は名実ともに琉球国の実力者に成った

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蔡温 【3】

2020年08月01日 00時11分35秒 | 日記

  蔡温は閩から渡来した人々によって形成された

クニンダ(久米村)の出身である

閩とは現在の福建省の古名である

 

大勢の人々が渡って来たため

閩三十六世とも呼ばれた

 

三十六姓とは漠然とした数字で

大勢の人が閩から渡って来の意味

 

彼らは琉球から与えられた土地に定住し

自分の住む集落を唐栄、または唐中と呼び

後に久米村と称した

 

久米三十六姓は琉球国の外交や貿易の文書作成や通訳

そして造船、航海技術などを担う専門職能集団として

 

清国、東南アジア諸国との外交、貿易などの交渉を遂行し従事

久米村は琉球の外交・交易の拠点となった

 

また久米三十六姓によって儒学や漢語、社会組織、宗教

中国文化などの各分野に多大な影響を及ぼしている

 

それから王府の要職や学者、教育者

琉球の歴史書中山世譜を編纂した際鐸、

 

三司官の鄭迵(謝名利山)、蔡温、多くの政治家を

久米村から輩出して、琉球国の発展に寄与している

 

政治力、経済力を手にした久米三十六姓の地位は極めて高く

琉球の政治に深く影響を与えていく

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