人生黄昏時

 老いを心身ともに感じ

  日々の生活で思った事を記す
  

尚氏第二王統【4】

2020年05月25日 00時06分40秒 | 日記

 尚真王は叔父二代目宣威が王位を退位した後を受け

1477年尚真十二歳の時、三代目琉球国王中山王に即位

 

1479年冊封を受け、歴代王の中で最も長く琉球国を統治した

 

初期の頃は母后オキヤカ(宇喜也嘉)が幼少の王を

補佐し政治に関与していたと言われている

 

尚真王は五十年、国を統治し多くの事績を残している

最大の実績は、中央集権体制を断行した事とされている

 

また各地域を支配していた按司(領主)を王城である

首里城の周辺に居住させ、そして武器を取り上げた

 

その地方に按司掟と言う王府の役人を置いて

全島を支配下に治めた

 

按司たちには収入を保証し、位階を与え

身分に応じた、色の冠や簪の着用を定めた

 

また太古から各地にあった祭祀,神事、祭場を整備し

聞得大君を頂点に地方の祭司を行う神職を

 

ノロと呼ばせ組織の中に組み入れ、階層化した

初代聞得大君は尚真王の妹月清である

 

尚真王は政治を中央集権化し、祭祀制を階層化して

祭政一致を行い、王権、第二王統を盤石体制に整えた

 

北は奄美群島から、宮古、八重山諸島まで支配下に置き

それぞれの島、地域に役人を配置し

 

祭祀を行うノロ(神職)を任命した

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尚氏第二王統【3】

2020年05月20日 00時00分18秒 | 日記

 尚氏第二王統初代尚円王は多くの事績を残し

1476年薨去、六十二歳 在位七年

 

世子尚真は十二歳で時期王として幼すぎると

重臣たちは、尚円の弟宣威を推挙した

 

1477年に琉球国中山王二代目に、弟宣威が即位した

伊是名時代から苦楽を共に助け合って来た

弟宣威は当時越来間切りを領地として越来王子と称していた

 

半年後宣威は新国王として即位した事を

神々に報告し神任を得る即位式に臨んだ

 

その最中に、ノロ(神職)が

「首里におはる てだこが おもい この遊び見もん、、、」と

尚真を讃える神託を下さったと告げた

 

これを聞いた宣威は神を恐れ、王位を退位した

在位わずか半年だった

 

尚円王の世子である尚真が王位を継承すべきと

異を唱えていた、尚真の母親王妃オギヤカが

神託を利用し陰謀と考えられている

 

王妃オギヤカは、ノロ(神女)の頂点に立つ

王の次に権力持つ存在だった

 

尚真は十二歳の時三代目国王に即位する

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尚氏第二王統【2】

2020年05月15日 00時00分24秒 | 日記

 金丸が重臣として使え、寵愛を受けていた

尚泰久王が1460年薨去

 

世子である尚徳王が二十一歳の時

尚氏王統七代目に1460年に即位した

 

若い尚徳王とは事ある事に意見が合わず

諫めても聞かず遂に確執が生じ

 

金丸は西原間切内間に隠居する事になった

1468年五十四歳の時である

 

その尚徳王が1469年4月22に、二十九歳の時急死する

病気か事故か暗殺か場所、死因も不明である

そのため現在までも憶測で語られている

 

琉球の歴史書によると

法司(三司官)たちは尚徳王の世子を王位に継承させ

即位させようと重臣たちを招集し会議を開いた

だが世子は国王として幼いと、問われ

その場で金丸を次期国王に推挙し全員一致で決定された

 

金丸は隠居先から首里城に迎えられ国王に即位した1470年

 

金丸は尚徳王の世子として、朝貢関係にある

明王朝に尚徳王の薨去を報告、請封し冊封を受け

 

金丸は名実ともに琉球国中山王に成り

尚氏を継承し、尚氏と名乗った

 

前尚氏と区別するために第二尚氏と呼ばれている

そうして金丸は、尚円と名乗った

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尚氏第二王統【1】

2020年05月10日 00時00分21秒 | 日記

 尚氏第二王統とは初代尚円王が1469年王位に即位

十九代続き410年琉球国を統治した王統

 

尚円王は現在の島尻郡伊是名村諸見

父尚稷・母瑞雲の二人兄弟の長男として

 

1415年生まれたと言われている

わらびなー(童名)は思徳金(うむとくがに)

 

思徳金が二十歳、弟は五歳の時両親が死去

家族で農業を営んでいたが

 

島は長い間雨が降らず干魃になり

なぜか思徳金の田だけ水があった事から

村人から盗水の嫌疑をかけられた

 

村に住む事が出来なくなり島を出て

国頭ムラに居住したと伝えられている

 

この伝承は、尚氏王統初代思紹王の父

佐銘川大主の伝承と類似したストーリーである

どちらがなぞったのか不明で後世の作と考えられている

 

思徳金家族は後に久志ムラなど経て首里に移住する

1441年、二十七歳の時

尚金福王の弟尚泰久に家臣として仕えた

 

思徳金は能力を発揮し三十八歳の時には

当時最高位黄冠に出世した

 

その後尚泰久が尚氏王統六代目に即位すると

西原間切内間地頭に任じられ采地を有するまで出世した

 

1459年には御物城御鎖側官(貿易長官)に就任

役人のトップ実力者に出世したのである

思徳金は自ら金丸と称した

 

しかし重臣として寵愛を受けていた尚泰久王が

1460年四十五歳で薨去した

金丸四十六歳のときである

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尚氏王統【7】

2020年05月05日 00時00分18秒 | 日記

 尚徳は二十一歳のとき尚氏王統七代目に即位

尚徳は強い行動力を発揮し国政を行ったと言われている

 

琉球の正史によると尚徳王は重臣の諫言も聞かず

臣下の粛清、女に現をぬかし行政を疎かにし

 

むやみに出兵し財を浪費し

酒色好みなどと暴君として記されている

 

しかし当時交易を行っていた、明国や

高麗東南アジアなどの、史書よると

琉球国尚徳王は有能盛んな王として見える

 

重臣のトップである金丸とは

度々政策が合わず確執が生じた、そのため金丸は

西原間切り内間に隠居している、1468年の頃

 

1469年4月22日尚徳王二十九歳の時急死する

病気か事故か暗殺か死因は不明である

そのため多くの憶測を呼んでいる

 

金丸を支持する家臣たちによるクーデタが起こり

尚徳の世子、次男、四男は殺害され一族の多くは追放

三男は乳母によって佐敷に落ち延びた

 

尚徳に関する多くの伝承伝説が語られ

墓や石碑が北は喜界島から本島

宮古諸島まで存在し語られている

 

金丸は重臣の推挙により中山王に即位する

金丸は尚を名乗り尚家を継承した

 

尚氏王統は七代続き64年で滅びた

 

尚氏王統とは、全く血の繋がりの無い

金丸が尚氏を名乗り尚円と名乗った

新しい王統の始まりである

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尚氏王統【6】

2020年05月01日 00時00分18秒 | 日記

 尚徳(1441~1469年)は1461年

琉球国中山王七代目に即位する

 

尚徳は泰久王の三男として生まれ

母親は側室でありながら

 

王妃の子長男富金橋や次男を退き

泰久王の後を、七代目王を継いでいる

 

それは母王妃の父親護佐丸が謀反の嫌疑を

掛けられたから即位出来なかったと言われている

 

尚徳は在位中多くの事績を残している

 

1466年に尚徳は、喜界島を征討するため

自ら二千余の兵を率いて出陣している

 

遠征前にこの戦いに成否を神にお伺いを立て

この戦いは義ありとしている

 

史書球陽によると

かなり前から喜界島に朝貢を促していたが

 

従わなかったので攻め落としたとある

奄美群島全域を配下に置いた

 

尚徳は仏教に帰依し信仰に厚く

天界寺や大宝殿、八幡宮などの寺院を建立している

 

また父王の代から仕えていた

臨済宗僧侶介隱承琥を使者として

 

室町幕府に派遣、将軍足利義正と謁見し

日本との関係を深めた

 

明国から暦学の導入

永楽通宝を変造し世高通宝を発行する

 

朝鮮王にオームや孔雀など寄贈し

返礼に方冊蔵経など送られている

 

尚徳は若くして王となったが強い指導力を発揮し

特に海外との交流事業を積極的に行った

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