人生黄昏時

 老いを心身ともに感じ

  日々の生活で思った事を記す
  

前昔北山時代

2021年07月25日 00時03分56秒 | 日記

  琉球の歴史書である

中山世監・中山世譜・球陽は琉球王府によるよって編纂された

 

正史に天地創造の

琉球開闢神話が記されている

 

天帝(天の最高神)が

阿摩美久(あまみく)と言う女神と

男神志禰礼姑(しねくり)を下界に遣し

 

沖縄の島々を創造し

九つの聖地と七つの森を創った

 

その七つが琉球開闢七御嶽として沖縄の信仰において

もっとも神聖な御嶽として聖地として位置づけられている

 

それから数万年を経て

阿摩美久は天上に上がり人間の種子を天帝に乞い

天帝は自分の子 男女の神を降臨させた

 

女神が吹き通る風によって

三男・二女が誕生した

 

長男は天孫王統として琉球最初の王となる

次男は地方の按司

三男は百姓の始まりとなり

長女は君君(高級神女)

次女はノロノロ(地方の神女)の始まりとなった

 

歴史書によると

天孫王統のとき琉球を島尻・中頭・国頭の三国に分け

民に住居の建築や農耕、塩、酢の製法などを授けた

 

都城を築き首里と名付け

行政の間切を定め、按司を配置し国を治めた

 

この国頭が北山で今帰仁按司が城主となり

五代続いて国頭(山原地方)を統治する拠点となる

 

天孫王統は 25代17802年 ? 続いて

最後の王 思金松兼が重臣の利勇の反乱によって滅ぼされ

25代続いた天孫王統は断絶した

 

天孫王統は伝説と伝承によって語り継がれたものを

琉球王府が正史として編纂したものだが

 

天孫王統は

神話と伝説の域を出ていない

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北山城の歴史【2】

2021年07月20日 00時00分27秒 | 日記

  北山城は波乱に満ちた歴史である

前昔北山時代

中昔北山時代

後昔北山時代

監守時代と

 

世之主(按司=あじ(主・あるじの転訛)である支配者が入れ替わり

その度に按司一族、家臣は沖縄全島に離散していった

 

北山から逃れた、按司一族・家臣は各地に子孫が住み

その地に先祖の墓所、石碑などがあり

拝所で今帰仁に向かって御願(礼拝)をしている

 

一族、門中は、ムートゥヤはナチジン(もとは今帰仁)と言い

今帰仁を今でも心の故郷としている

 

北山の権力攻防に敗れ落ち延び

時代に翻弄された人々は各地に子孫が残り歴史を伝承して

 

北山由来記や各地の門中の持つ

家譜元祖由来記などの背景になっている

 

一族による、多くの伝承が語り継がれているが

伝承には理解出来ない物語も多く

脚色された物なのか

 

同じストーリーが多くあって何が真実なのか

詳細は分からないが 歴史を想像し歴史の重みを感じる

 

史実として資料はないが 歴史として

否定出来ない事も多く 沖縄の歴史認識として

現在でも根強く語られている!!

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北山城の歴史【1】

2021年07月15日 00時00分12秒 | 日記

  沖縄の歴史書『中山世監』[1665年]

『中山世譜』(1701年)『球陽』

などの歴史書は琉球の正史として編纂された

 

これらを見ると北山城は

天孫王統が最初に北山城を築き

北部地域を支配していたとある

 

その後に舜天王統系

怕尼芝王統系と続き

中山按司尚恩昭によって滅ぼされる

 

天孫王統系が支配した時代を「前昔北山」

 

舜天王統系が支配した時代を「中昔北山」

 

怕尼芝王統系が支配した時代を「後昔北山」といい

 

怕尼芝王統の三代目の攀安知を滅ぼした

中山の尚恩招按司が北山を支配し監守を置いた

 

この時代を「監守時代」といって

四つの時代区分として北山城が語られて来た

 

解説されている資料文献が多く残されている(17世紀頃から)

 

北山世之主(王)が歴史的に史実として記されているのは

怕尼芝が中国明朝に朝貢した

1383年(史書明実録)から

 

それ以前は神話や口伝、野史などの

伝承によって語り継がれてきている

 

琉球国の歴史書は中山王統を中心に編纂されているので

真実の史書として正しく伝えているとは言えない

 

また、琉球の歴史は文字に記でた物は少なく

沖縄の各地を歩くと

 

北山グシクに関する さまざまな拝所

石碑などが多く

 

それらにまつわる一門の家譜や野史などによって

古い時代の伝承が語り継がれている

 

これらの伝承の中にも真実が多く含まれていると

伊敷賢は言う

 

特に資料が少ない、北山の歴史について多くあると

『琉球国の真実-琉球三山戦国時代の謎を解く』の

著者 伊敷賢は述べている

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北山城【2】

2021年07月10日 00時00分12秒 | 日記

  北山グシク(城)は私が育ったシマ(島)今泊ムラに

1915年に管理を委任される

 

北山城は 北の島(地域)にある城と呼ばれていた

現在 ナチジングシク(今帰仁城)と呼ぶのが普通であるが

 

今帰仁城と言う呼び名は

私は成人に成ってから知ることになる

 

ナチジンマジリ(今帰仁村(そん))には

多くの御願所(拝所)や墳墓、祠

御嶽などが点在している

 

グスク(城)内には カラウカ、ピーヌカン 

テンチジ アマチジ、ソイツギ などの拝所があり

 

歴史上の監守時代の碑

志慶真乙樽(しじまうとざる)の歌碑などがある

 

城下に以前(薩摩軍侵攻1609年前)あった

シマ(村)跡にも幾つかの御願所(拝所)がる

 

グスク(城)の後方に

琉球開闢七御嶽の一つクバ(クボ)御嶽がある

 

これらの聖地を巡礼するのが今帰仁ぬぶい(上り)といって

現在でも多くの巡礼者が訪れている

 

これらの御願所(ウガンジュ(拝所)には

数百年に及ぶ北山城の興亡の歴史が

口伝、野史、一門の家譜などによって語り継がれている

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北山城【1】

2021年07月05日 00時00分11秒 | 日記

  北山グシク(城)は 

ナチジングシク(今帰仁城)とも称される

沖縄県国頭郡今帰仁村字今泊に在る

 

築城された年代は明確になっておらず

発掘調査などによって

 

13世紀頃から築城が始まったと

推測されているが 誰によって築かれたか

その歴史的には不明な点が多い

 

北山城は標高100メートルほどの丘上に築かれ

グシク(城)の北と東は70~80メートルの

渓谷になって急斜面となっている

 

城郭は約1500メートルの外周、高さ3メートルの

石灰岩を積み上げて造られた城壁、高い所は8メートル

自然の地形に沿って曲線を描いた城壁に囲まで美しい

 

また堅固で防衛上極めて優れた地形となっている

南北350メートル、東西800メートル、面積37.000㎡

県内最大級の城として知られている

 

城跡から国頭の山並み 辺戸岬

晴れた日には与論島も眺めることができる

海の上に浮かぶ伊平屋島、伊是名島が見える

 

北山城跡は2000年12月に

琉球王国グスク(城)及び関連遺産群として

ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録

 

名称は今帰仁城跡

2006年4月6日、日本100名城98番に選定された

 

1961年8月に撮影 

 

上の写真とほぼ同じ場所から撮影  

2枚とも 2019年3月撮影

 

 

        静岡県熱海市伊豆山地区で起きた大規模な土石流で

130棟の崩壊、安否不明80人のニュースが映し出される度に

           ご家族の思い お察しします 大変心が痛みます

            一人でも多く元気な姿で 確認出来ますように

                                心よりお祈り致します

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ナチジン

2021年07月01日 00時00分13秒 | 日記

  ナチジン(今帰仁・なきじん)は

両親が生まれ育ったムラである

 

私は大阪で生まれ5歳の時に両親のシマ 

字今泊に家族と供に引き揚げてきた

 

当時は合併前でエールマイ(親泊)と言っていた

1972年に字今帰仁と字親泊が合併し字今泊となる)

私は、小中校とエールマイ(親泊)で育った故郷である

 

そのころは電気も水道もガスも 各家庭に無い時代であったが

 

大きな湧き泉、エーガ-(親川)あり

水の豊富な 美しい田園風景あった

 

海や山が在り 海岸や森を保有する

自然豊かな美しい景観のある故郷である 

 

今帰仁村のシンボル 北山城が

今泊ムラに有している

 

北山城はナチジン人のアイディテイ

今泊ムラのルーツである

 

今でもシマを誇りと愛着を持っている

 

その頃は昔ながらの、神事、祭祀

祭りなど古式豊かに行われていた

 

沖縄本島北部を山原(ヤンバル)と呼ばれていたが

明治41年に北山の領域であった ヤンバルを国頭郡と言い

 

間切を村(そん) 

ムラ、シマを字(あざ)と呼ぶようになる

 

私達の年代は 生まれ育った故郷を今でも 

シマ(今泊)と呼んでいる

 

2000122日に世界遺産に登録されている

シマのルーツである北山城(ナチジングシク)を

次回から紹介したいと思っています

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