人生黄昏時

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沖縄の歴史書【1】

2016年04月25日 00時01分55秒 | 日記

  中山世監

琉球の歴史書をサラ・さらっと、紹介します

中山世監とは、琉球国歴史を王府が編纂した

最初の正史とされている

 

第二尚氏、10代目国王尚質の

摂政羽次朝秀(向象賢)により編纂された(1650年成立)

全6巻記述は和文体である

 

琉球開闢説話から

天孫王統(25代、17802年続いたという)??

舜天王統(1187年~1259年)三代で72年?

第二尚氏王統、四代目尚清王(1527年~1555年)までの

歴代国王のプロフィルやエピソードなどが記されている

 

中山世監は王家の系譜と中国との関連記述が柱となっている

琉球は中国の明皇帝に対し朝貢(明を盟主と認めること)を

行い冊封体制を受け入れ明皇帝へ使者を送り

貢物を奉じ忠誠を誓うことになる

 

明の皇帝から派遣される、冊封使によって

琉球国王として認め

称号・王冠・王服・印章・任命書が与えられる


また貿易も認められることになり

王府は貿易によって莫大な利益を得

この朝貢の記録が多く記されている

 

中山世監に源為朝渡来伝説も記されている

源為朝は、舜天王統の祖で、舜天の父であるという

この舜天王統は三代続き73年(1187年~1260年)

琉球国を治めたと記述されている


真偽は不明だが歴史事実として記録されており

流日同祖論と関連づけられて議論されることが多く

尚王朝の権威付のために創作されたと言う

歴史学者の見解である

 

中山世監は、序文には和暦が用いられ

文中の年代表記は中国年号が表記されて

主に漢字によって書かれている

 

中山世監に記述されている内容に疑問が多く残るが

沖縄歴史研究の書として

重要な資料とされている

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今帰仁城【13】

2016年04月20日 00時02分42秒 | 日記

 祭祀場としての北山城 <3>

今帰仁村(そん)周辺には

旧跡、墓、祠、御嶽などの拝所が点在している


それらを聖地として

沖縄には昔から今帰仁ぬぶい(上り)といって

親族一門が行う巡拝がある

 

地域の各門中によって巡拝地は異なる

今帰仁村内に19ヶ所の拝所があるが


その内北山城内に4ケ所、城下に3ケ所

北山城の後方にクバ(クボ)御嶽、今泊ムラ内に2ケ所

そしてエーガ(親川)と今泊番地内に11ケ所の拝所がある

 

今帰仁ぬぶいは、3年・5年・7年事の

奇数年を年期として巡拝しているが

5年に1回行う門中が多い

 

北山城は

具志川家が代々管理を務めていたが

1915年に管理を今泊ムラに委任される

 

2000年11月に琉球王国グスク(城)及び

関連遺産郡として


ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録される

名称は今帰仁城跡

2006年に日本の百名城98番に選定された

 

今帰仁の歴史

遺跡、文化自然景観豊かな北山今帰仁城跡は


現在は観光地

参拝の聖地として多くの人々が訪れている

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今帰仁城【12】

2016年04月15日 00時06分09秒 | 日記

  祭祀場としての北山城 <2>

第二尚氏一世監守韶威を元祖とする

子孫(具志川家)が代々北山城の監守を務めていたが

1665年に首里に引き揚げた


北山城は城主のいない廃城となる

その後祭祀信仰の場となった北山城

 

北山城は

数百年に亘る興亡史時代があった

権力闘争に敗れた按司一族・家臣らは各地に離散した


その子孫だとする

旧家・石碑・墓碑などがあり

一族の門中の家譜などによる伝承がある

 

北山城の歴史には

開闢神話の中で語られる

天孫王統時代の伝承の拝所

舜天王統の子孫の拝所


前昔北山・中昔北山・後昔北山時代の

子孫の語られる拝所の伝承がある


そして監守時代と

それぞれ異なる拝所は聖地となっている

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今帰仁城【11】

2016年04月10日 00時02分00秒 | 日記

 祭祀場としての北山城 <1>

監守七代従憲のとき

首里王府の政治改革のため監守一族は

1665年首里に引き揚げ

北山城は政治的・軍事的機能を持った

居城としては喪失していった

 

それ以後北山城は祭祀の場所として変化し

神霊が依り憑聖城として

信仰の場所へと変容し拝所が設けられた

 

北山城内に

男子禁制の女性だけで祭礼を行う最も崇高な拝所

テンチジ アマチジとカラウカ・ソイツギ

火の神の祠などの拝所がある

 

城の後方に、沖縄信仰において最も神聖な

開闢七御嶽の一つクバ(クボ)御嶽がある

 

城の前方にあった親泊ムラ・今帰仁ムラは集落ごと

現在の今泊ムラに居住した


ムラ跡に阿応理屋恵ノロドゥンチ火の神

今帰仁ノロドゥンチ火の神

トゥムヌハー火の神

古宇利ノロの火の神などの拝所となっている

 

ムラ人達は移っていったが

三人のノロが住んでいた屋敷跡は神の降臨地

それはノロを媒介として神を観じて

神聖な領域、祭祀を行う場として

信仰のため祠を建てて重要な御願所とした

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今帰仁城【10】

2016年04月05日 00時54分23秒 | 日記

 監守時代 <2>

北山(北の島の意味)は権力の中心としいて

北部地域を統治していた北山城


1416年に中山の尚巴志によって滅ぼされ

北山は政治的に独立国として失う


中山は北部地域を統括するため

監守を置いて支配していく

第一尚氏王統は二代・第二尚氏は五代

北山城に監守を置いたが

 

1609年に薩摩軍の侵攻によって

北山城は焼失し五代監守克祉は死亡する

北山城の前後にあった


今帰仁ムラと親泊ムラも破壊され

そのため集落は麓(現在の今泊)に移動した

また監守一族もムラ内に移り住む

 

1665年監守七代従憲のときのとき

監守一族は王府の命により首里に引き揚げた


その後も監守政治は首里に居て続けている

北山城は城主を失い廃城となる

監守制度は240年続いた

 

その後の北山城は

一代目監守韶威を元祖とする子孫が管理を行う


それから84年後(1749年)に監守制の経緯や

首里に引き揚げた事情

北山城を永代に管理し続け礼典を司ることを


首里王府より許可されたことなどが城内に

「山北今帰仁城監守来歴碑記」として建てられている

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今帰仁城【9】

2016年04月01日 00時16分08秒 | 日記

  監守時代 <1>

1416年北山は

中山尚巴志によって滅ぼされ

1422年に尚巴志は次男の尚忠を

北山監守として北山城に派遣した


北山地域を統治する体制

反乱を防ぐために

監守制度を導入したのである

 

1429年に、南山も攻め落としたが

監守は置かなかった

そこに北山と南山の対処の違いがある


二代目監守に具志頭王子が任命されたと

伝承があるが不明な点が多く定かではない

 

北山城、北部地域を管理するため監守設置は

尚巴志王統(第一尚氏王統)の時代と


金丸(尚円)が建てた第二尚巴志王統時代に分けて

第一監守時代・第二監守時代と呼ばれる

 

第二尚氏に入って代官を交代で

北山監守として派遣する


1526年になると

琉球国三代目尚真王は各地で勢力を保っていた

按司たちを、首里に集め居住させ、


按司掟(あじうっち)を置いて武器を取り上げ

中央集権を強め地方勢力を支配においた


北山城は重要視し特別に尚真王(1477年~16817年)の

三男の尚韶威が派遣された


1665年七代目従憲(1627年~1687年)まで

北山城に監守が置かれた

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