泰久(1415~1460年)は、1454年に中山王六代目に即位
泰久は尚巴志王の七男、前王の金福王の弟になる
泰久は王位継承順位、かなり低かったが
五代目金福王が逝去すると
世子である思魯が六代目王に即位するが
(明国の冊封を受けていなかった)
巴志王の六男金福王の弟、布里が異を唱え
王位を争い、内乱状態になり、思魯は死亡
布里は王位を継承することはなかった
布里の弟、巴志王の七男、泰久が
中山王六代目に即位する、1454年の事である
この内乱で首里城は全焼した
史書による記録では首里城最初の焼失になる
2020年10月31日の焼失は5度目
泰久は意外な形で王位に即位
泰久王の治世中歴史的事件が起き
現在でも語り継がれている
護佐丸&阿麻和利の乱である
地方按司として力のある両雄であった
この乱を鎮圧した業績
永楽通宝を変造し大成通宝を発行する、など
また泰久は仏教に帰依し多くの寺院を建立(18寺)
琉球史上最も仏教を普及、保護し厚く信仰した王である
特に鋳造した梵鐘は23口
その中で最も有名な万国津梁の鐘がある
泰久王の治世は波瀾に満ちた時代であった
泰久王は1460年逝去、四十五歳、在位七年 長男は富金橋