運天 <3>
源為朝伝説 (2)
為朝は保元の乱で敗れ伊豆大島に流刑となった
その途上船が嵐に遭い「運は天にあり」と漂着したのが
運天の名称になった言う運天に上陸した
1922年に「源為朝公上陸之碑」が建てられている
為朝は、南山の大里按司の妹を娶り二人の子を儲け
男の子尊敦(そんとん)と名付け
後の舜天王、琉球初代国王と言われた
二代舜馬煕王、三代義本王と
72年にわたって続いた
1259年英祖王に王位を譲ったとされている
為朝は妻子を伴って大和へ船出するが
出港するたびに嵐に遭って仕方なく妻子を残して
一人で帰ったという
妻子はティランガマ(テラブのガマ)で仮住まいし
為朝の帰りを待ち焦がれた場所が
マチナート(待港・今の牧港)と言う由来となっている
現在のティランガマは拝所で洞窟内御嶽となっている
この物語は『中山世監』尚質王(1648年~1668年)に
仕えた摂政を務めた羽地朝秀により編纂された(1650年完成)
来流の真偽は不明だが琉球王朝の歴史事実として
記録されており日流同祖論と
関連づけられて語られることが多く
尚王朝の権威付のために創作されたと言うのが
歴史学者の見解である
『中山世監』より100年前に京都五山の
僧侶月舟寿佳(1471年~1533年)が著した
「鶴翁字銘井序」の中で為朝の
琉球渡来伝説が語られていると云う
また、袋中僧侶が記した
琉球神道全5巻を著した
(三年琉球に滞在していた1603年~1606年)
中にも記されているという
これらの著書が、曲亭馬琴によって
椿説弓張月を生んだとされている