人生黄昏時

 老いを心身ともに感じ

  日々の生活で思った事を記す
  

今帰仁 【9】

2015年11月25日 00時05分03秒 | 日記

 運天 <3>

 源為朝伝説 (2)

為朝は保元の乱で敗れ伊豆大島に流刑となった

その途上船が嵐に遭い「運は天にあり」と漂着したのが

運天の名称になった言う運天に上陸した

1922年に「源為朝公上陸之碑」が建てられている


為朝は、南山の大里按司の妹を娶り二人の子を儲け

男の子尊敦(そんとん)と名付け

後の舜天王、琉球初代国王と言われた


二代舜馬煕王、三代義本王と

72年にわたって続いた


1259年英祖王に王位を譲ったとされている

為朝は妻子を伴って大和へ船出するが

出港するたびに嵐に遭って仕方なく妻子を残して

一人で帰ったという


妻子はティランガマ(テラブのガマ)で仮住まいし

為朝の帰りを待ち焦がれた場所が

マチナート(待港・今の牧港)と言う由来となっている

現在のティランガマは拝所で洞窟内御嶽となっている


この物語は『中山世監』尚質王(1648年~1668年)

仕えた摂政を務めた羽地朝秀により編纂された(1650年完成)


来流の真偽は不明だが琉球王朝の歴史事実として

記録されており日流同祖論と

関連づけられて語られることが多く


尚王朝の権威付のために創作されたと言うのが

歴史学者の見解である


『中山世監』より100年前に京都五山の

僧侶月舟寿佳(1471年~1533年)が著した

「鶴翁字銘井序」の中で為朝の

琉球渡来伝説が語られていると云う


また、袋中僧侶が記した

琉球神道全5巻を著した

(三年琉球に滞在していた1603年~1606年)

中にも記されているという


これらの著書が、曲亭馬琴によって

椿説弓張月を生んだとされている

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今帰仁 【8】

2015年11月20日 00時01分21秒 | 日記

 運天 <2>

 源為朝伝説(1)

源為朝は父為義の八男として生まれる(1139年)

為朝は、弓矢の達人で左手が右手より約12cmも長く

210cmもある大男であったという


保元の乱に父、兄弟とともに参戦したが

敗れて腕の筋を抜かれ、伊豆大島へ流刑となる

島の代官三郎太夫忠重の婿となり、、、、

10年後(1165年頃)に伊豆七島を支配するようになる


1170年伊豆諸島を所管する

工藤茂光は上洛して為朝の乱暴狼藉を訴え

討伐の院宣が下った、500余騎、20艘で攻めよせた


為朝は抵抗しても無駄と悟り

九歳の我が子為頼を刺し殺し自ら腹を切って自害した

享年32歳、切腹は史最初の例といわれている


為朝の首をはね京都に運ばれて

さらし首になったという


為朝にまつわる多くの伝説がある

佐賀県の黒髪山で

角が7本ある大蛇を退治したという


また、300人が乗る大船を一矢で沈没させたいう


喜界島の沖合から雁股の矢を放ち矢を抜いたら

清水が湧き出したというなどの伝説がある

これらの、石碑が建てられている


また、為朝神社も多くあると聞く

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今帰仁 【7】

2015年11月15日 00時02分32秒 | 日記

 運天 <1>

源為朝が

伊豆大島から逃れて来るときに嵐にあい

「運は天にあり」と漂着したので

これが運天と言う地名の由来であるという!!!


運天は古代から天然の良港として

沖縄本島北部の重要な港とである

近世沖縄の四津口(港)の一つが運天港である


この運天港に

1609年3月25日薩摩軍3000余人

70~80隻の船で侵入する事件など


また、1816年バジルホール

1846年フランス艦船

ペリー艦隊なども訪れている


琉球国府時代には間切所が設置され

北部の行政要所で


1916年まで番所(役場)あった

現在は中曽根にある


運天には、大北墓(うふにしばか)

百按司墓(むむじゃなばか)

大和人墓(やまとんちゅばか)

外国人墓などがあり


歴史的な出来事の痕跡を遺している運天...港である。


運天ムラの所帯数は120

人口250人(外国人含む、2014年12月現在)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今帰仁 【6】

2015年11月10日 00時00分32秒 | 日記

 古宇利島 <4>

古宇利島は

人類発祥の地といわれているとともに

タキヌ御願やウンジャミ(海神祭)や

サーザーウェーなどの祭祀が現在も行われて

神の島と呼ばれている


タキヌう御願においてはお宮から始まって

十箇所で御願をするのが古宇利島の

七森七嶽(ななむいななたき)である


七森七嶽は、ハマンシヌ御嶽

ナカムイ御嶽・マイジヌ御嶽

マーハグチヌ御嶽

ブトゥキヌメーヌ御嶽

トゥンガヌ御嶽


ソウヌ御嶽でこれらの聖地は

地元の人達によって大切に守られている


古宇利島の一年を通して行われる

神事、祭司は

ノロを始めとして、ウチ神、根神、海シル神

プンシ神、タムトゥ神

ミチチマーイ神は一人で、シル神

クニマーイ神九人、ヌミトゥイ神十三人

などの神人によって行われ

神人の組織は今も継承され守られている


沖縄県の他の地域と比べても

古宇利島は各種の年中行事が

大切に保存されており


神の島として

神々に囲まれ守られたムラである

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今帰仁 【5】

2015年11月05日 00時00分27秒 | 日記

 古宇利島 <3>

恋島→くぃじま→古宇利島(くぅーりじま)

恋島が古宇利島の語源となったと云われている


島の北側にティーヌ浜に

ハートロックと呼ばれているハート形の岩がある

人気グループ嵐が出ている

JALのCMで撮影されたロケ地として有名な場所がある


古宇利島は恋の島

恋愛の成就

恋の聖地として

全国から多くのカップルが訪れる島となっている


古宇利島周辺の海の透明さは

沖縄でトップクラス


オーシャンタワー(82メートル)から見る

大橋や海を望むパノラマが絶景で

夜になると満点の星空が鑑賞できる

これは、自然が創り出す芸術作品です


島には、トケイ浜(ホット・ホール)

ティーヌ浜(ハートロック)


チヌグ浜はアダムとエバの言い伝えられた

二人が住んでいた洞窟のあるビーチです


古宇利ビーチ

ソウヌ浜で海水浴

シュノーケリングで色鮮やかな熱帯魚や

サンゴが見ることが出来ます


恋の島

神の島

パワースポットがある古宇利島で究極の

癒しを体験してみませんか

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今帰仁 【4】

2015年11月01日 00時06分21秒 | 日記

 古宇利島 <2>

古宇利島は

「恋の島」や「神の島」であると云う

伝承がある有名な島です


古宇利島には聖書にある

アダムとエバの人類誕生とマナ物語に酷似した

沖縄民族の祖先となった伝承がある


昔シマに、男女が天から降ってきた

二人は裸であったが恥ずかしいとは思わなかった

天から降ってくる餅を食べて幸福に暮らしていた


ある日

もし餅が降らなくなったらどうしようかと考え

毎日少しずつ貯えるように

ところが貯えを始めたときから餅は降らなくなった


二人は天に向かい

たうたうまへされ、たうたうまへ

(お月様、もしお月様)


大餅やと餅お賜べめしょうれ

(大きい餅を、太い餅下さいまし)


うまぐる拾うて、おしゃげやべら

(赤螺を拾うて上げましょう)と


声を嗄らして歌ったが

餅は二度と降ることはなかった

二人は生活と労働の苦しみを知るようになる


浜で生活をしていた二人は

ある時海馬の交尾を見て男女の違いを意識し

恥部をクバの葉で隠すようになった


現在の沖縄の民族は

この二人の子孫であると云う神話・伝承である

シラサの岬に二人が暮らしたと云う洞窟がある

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする