浦添城の城主、察度は明国(中国)に朝貢し
大和、高麗、東南アジア諸国との外交、貿易を促進し
また、官生(留学生)も派遣などをして
浦添地域(中山)を政治、外交、経済、文化を中心とした
察度王統は二代目武寧が明国の冊封を受け入れ
琉球で初めて明国皇帝から中山王としての称号を得る
そのころ佐敷グシクを拠点に勢力拡大していた
佐敷按司、尚巴志が浦添グシクを攻めた
戦いの結果56年続いた察度王統は滅ぶ(1406年)
尚巴志の父親尚思紹が中山王に成り
王城は首里に移り、政治の中心も首里に移る
その後、浦添城は王族の居城と成るが
1609年薩摩軍の侵攻によって浦添グシク内
周辺の建造物は焼失する
1671年に第二王統七代尚寧王(1589~1620年)が
修築し隠居とする
時代とともに場内の建造物は再三に渡り
改築されて来たとされている
浦添城は石灰岩上標高約130m.で
城域は東西約380m.南北に70m.以上
北側は断崖である
自然の地形を巧みに利用した
要塞堅固なグシクであった
そのため去った大戦では日本軍の
第二防衛線の陣地と成った浦添城
1945年4月26日から始まった日米両軍による
激戦によって浦添グシクは破壊的状態となる