ミシン でスーツを縫う
上着の場合 生地・裏地・芯地など、約64枚に裁断。
スラックスは 約34枚に裁断する。
切り揃えた、生地・裏地などを、ミシンで縫い合わせると、スーツに仕上がる、
ミシンで 90%以上縫う、縫えないところは 手縫い。
仕立時間
上着の本縫い 20時間~30時間、
スラックスの本縫い 8時間~12時間で仕立てる事ができる。
ミシン でスーツを縫う
上着の場合 生地・裏地・芯地など、約64枚に裁断。
スラックスは 約34枚に裁断する。
切り揃えた、生地・裏地などを、ミシンで縫い合わせると、スーツに仕上がる、
ミシンで 90%以上縫う、縫えないところは 手縫い。
仕立時間
上着の本縫い 20時間~30時間、
スラックスの本縫い 8時間~12時間で仕立てる事ができる。
もしも を議論したり 考えたりするのは、
意味のないこと、時間の無駄と言われる 私もそう思う。
もし もしも
戦争終結を速く決断していれば、、、、、、、
東条内閣が(1941年10/18~1944年7/22)総辞職した時から、
1945年2月までに、何度か戦争終結の機会があったと聞く。
特に、2月14日の元首相の近衛文麿(上奏)が敗戦は避けられない、
早期和解を計るべきと、意見を述べた時、大きな チャンス だった。
もしも
2月の時点で戦争終結を決断をしていれば。
東アジア・東南アジア・東京大空襲・広島・長崎の原爆投下・沖縄戦によって、
数百万の死傷者の悲劇を回避できたと思う。、、、、、、、、、、
68年間戦争のない平和と繁栄を築いた日本、この平和を世界に。
人間の 永遠の 真理の 平和の 実現を。 まずは、隣人から。
1945年 4月1日 8時30分ごろ、
連合軍(主にアメリカ軍)が沖縄に上陸した日
先輩達の話によると、軍艦が
海を埋め尽くし 海が見えない
海を埋め尽くした 軍艦から 艦砲射撃と
爆撃が鉄の雨が降るように
沖縄の地上に落ち、地形が 変わったと ( 6月23日まで戦争は続く)
戦没者は、民間人・軍人・アメリカ軍人
合わせて、21万人以上
負傷者と行方不明者を合わすと、数倍の犠牲者になる
沖縄戦上陸碑
写真をクリックすると拡大する。 一番上左の矢印をクリックすると元に
上陸碑の 300メートル後ろに極東一と言われている
嘉手納基地がある
嘉手納飛行場の面積は 1985.5ヘルタール
東京国際「羽田」空港の1.6倍で
沖縄市・北谷町にまたがっている
嘉手納町の面積 83%が嘉手納空軍基地
4,000メートル級の2本の、滑走路がある。
ミシン 昭和に入って(2)
戦争によって、100万台以上のミシンが焼失したといわれている。
そうした中で、数十社がミシンを製造が始まる。
1947年 規格が統一される。
ミシンの需要が飛躍的に伸びていく
日本の主な輸出品は繊維であったこと、
また、ミシンそのものも、重要な輸出品になる、
当時、日本女性がミシンを結婚の嫁入り道具として使われていたことも大きい、
1955年ミシンの輸出が最高になる、
しかし、1970年を境に高級機種以外は減少傾向になっていく。
現在日本のミシンは、高品質・高機能で マルチ機能の付いたミシンから、
刺しゅうミシン、電動・電子ミシン、コンピュータミシンは、世界でトップクラス。
刺しゅうミシンは 写真 そのまま 刺しゅうする。 すごー い !!!
ミシン (昭和に入って)
安井正義・実一兄弟が(1927年 (昭和3年))環縫いミシン、
1号機を完成し昭和3年に発売されたことから、昭三式ミシンと命名する。
その造りが独自の技術革新にあった。
性能がよく、故障が少なく、外国製品ミシンの10倍の耐久性をもつと。
評判となり、注文が殺到した。
会社名も安井ミシン兄弟商会(のちのブラザ工業株式会社)と、
1932年 シャルルフックの量産化に成功、家庭ミシン1号機完成する。
蛇の目ミシン(バイン100種30型)を1929年に発売。
三菱ミシン発売する(1935年)
日本産製造のミシンが量産されるが。
1941年、 戦時体制の強化で、器工業整備統合の指定業となって、
ミシン業種は続々と転廃業となっていく。
日本のミシン
13代将軍家定夫人、篤姫が日本で最初にミシンを使ったといわれている。
ミシンが普及したのは、明治になってから。
初期のころは、輸入品のみで。1881年、大砲職人 左口鉄造が、
東京で開催された第2回内国勧業博覧会に(明治14年3月1日~6月30日)
国産ミシン第1号が展示される。
1912年関根安治が、ミシン製造、1921年亀松茂がバインミシン会社を設立、
そのころから、日本にも多くのミシン製造会社があり、ミシンの量産が始まる。
しかし、量・質とも輸入品には敵わなかった。
始めのころは、ドイツ製品が多く使われていたが、
ミシンの 質・便利・宣伝報告・販売方法によって、シンガーミシンが多く普及し、
90%以上の シエア、残りが、ドイツ製・イギリス製・日本製であったと。
ミシンの伝来
日本に初めて伝来したのは、
1854年ペリーが2度目に来航をした時に、
将軍家に、献上品の中にミシンがある、記録では一番古い記述。
1860年5月 にはジョン・万次郎が手回しミシン1台を、アメリカから、
ウィラー・アンド・ウイルソン社製品を購入して持ち帰ったと。
13代将軍徳川家定夫人、篤姫(天樟院啓子(すみこ)が日本で最初に、
ミシンを使ったと、いわれている。
ペリーの後に、総領事ハリスが本国に送った報告に篤姫がミシンを使っていると。
また、贈ってくれた、ウィラー・アンド・ウィルソン社に返礼の品々を贈ったとある。
シンガーミシン
1850年 アイザック・メリット・シンガーが、
第一号実用ミシンの特許を取得したことから始まり。
以来、163 年間にわたり、世界中に、
広く知られ歴史ある シンガーミシンへと。
手回しミシンに始まり、研究・技術革新により、
足ふみミシン・電動ミシン・電子ミシン・コンピューターミシンへと、
使い手の用途に合わせて開発する。
生産技術、生産量増大、宣伝広告、販売方法に工夫した結果、
世界中に愛される、世界のブランドへと躍進する。
現在でも、シンガーミシンの愛好家が多い(私もその一人)
トマス・セインが世界で初めて、特許を取得してから、
その後、いろいろな人々によって、ミシンが改良される。
1810年 ドイツ人、靴職人 クレムスが、針先先端付近に、
針穴が付いた、ミシン針を発明する。
1832年 ウォルターハントは2本糸による、ロックステッチミシンを発明。
1846年 エリアス・ハウは本縫いミシン、シャトルとボビン、
先端穴の、曲がり針を考案する。
1850年 アイザック・メリット・シンガー
シャトル ボビンが内蔵されたミシン、1号機完成。
現在とほぼ同じ構造のミシンを発明し翌年特許を取り、
I・M・シンが社(のちのシンが社)設立する。
多くの人々の努力と、発明が近代ミシンの原理と基礎となる。