人生黄昏時

 老いを心身ともに感じ

  日々の生活で思った事を記す
  

夕涼み

2023年07月25日 00時00分30秒 | 日記

   7年前から一人暮らし

住宅は一戸建てだが毎日の生活は

 

一間で生活している事が多い、寝食、PC操作

部屋は西向きの部屋であるが

 

ドアーを開けると、キッチン

反対側ドアー開けるとトイレなので便利

 

沖縄では台風が多いため

コンクリート作りの家が多い

 

屋上、壁に太陽が当たると生活している部屋は

西向きのため昼間は36度になる事もある

 

太陽光が入った部屋は夜遅くまで温度は下がらない

7月25日0時6分現在 温度33度、湿度69%

 

クーラーは使用していないため

夕食を済ますと「夕涼み」に散歩する

 

潮風、川風にあたると3~4度下がった感じで

とても気持ち良い 30分程度「夕涼みの散歩」

 

       夕涼みの散歩コース

       家の前の道路を出発

        海岸沿いを通る

 道路整備され歩きやすい

万が一に備えて4か所に準備されている

 

    水道やトイレ、数か所有り

歩道は整備され 街灯も有り 女性でも安心して

   散歩やウオーキングが出来る

 

 

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ジョン・万

2023年07月19日 00時00分53秒 | 日記

  ジョン・万のプロフィールと功績

 ジョン万次郎は

1854年に幕府剣道指南役田野源之進の次女「鉄」と結婚

3児を儲けたが1862年風疹に罹り若くして「鉄」は病死

 

後に「琴」と再結婚し次男、三男を儲けるが 離婚する

「重 しげ」と再々結婚、四男と五男を儲けるが 四男は早世する

 

長男  中浜東一郎

次男  中浜西次郎

三男  中浜慶三郎

五男  中浜秀俊

 

万次郎の子孫はアメリカのホイットフィールド船長の

子孫と代々交流を続けている

 

出身地の土佐清水市はアメリカでの滞在先となった

ニュベットフォード・フェアヘーブンの両市と

 

姉妹都市盟約を結び現在も街ぐるみで

交流が続けられている

 

2023年10月5日から10月11日までフェアヘブンで

第19回米国「ジョン万祭り」が開催される

 

祭りには沖縄の高安家の子孫も度々参加しているが

今年も参加されるのか ?

~ ・ ~ ・

万次郎は近代日本の夜明けとも言える時代に

日米の架け橋となる多くの業績を残した

 

第30代大統領クーリッジは 万次郎を高く評価し

ワシントン スミリニアン研究所が開催した

 

海外からの「米国訪問者展」で世界各国から選ばれた

29人の中に万次郎も選ばれている

 

万次郎の長男中浜東一郎氏に

大統領から1933年に親書が送られている

 

万次郎の功績に関する伝記や著書が多くある

また、小説、楽曲、漫画、テデビ、舞台などに 

ジョン・万が登場するシーンが多くある

 

万次郎は波瀾に満ちた生涯を走り続け

幾多の業績を残し1898年11月12日 

 

71歳の時 逝去

現在雑司ヶ谷霊園に葬られている

 

1928年「正五位」を追贈されている

 

 

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ジョン万次郎

2023年07月13日 00時18分59秒 | 日記

   万次郎は両親が付けた名前

幼年、少年時代に「万次郎」と呼ばれた

 

「ジョン・マン」と言う名は救助された

捕鯨船 ジョン・ハラウンド号の船名に

 

ちなんで付けられた愛称

アメリカ滞在中、学校でもジョン・マンと呼ばれた

 

「中浜万次郎」と言う名は幕府に

召し抱えられた時に賜った正規の名前

 

「ジョン万次郎」と言う呼称は

1938年「ジョン万次郎漂流記」で井伏鱒二が

 

第6回植木賞受賞後用いられた事で

この名前が広まった

 

「ジョン万次郎」と言う名は

それ以後の事である

 

明治維新後の明治政府の

開成学校(現東京大学)英語教授に就任する

 

1870年普仏戦争視察団として大山巌らと共に

アメリカ経由で欧州へ その旅の途中

 

10月28日アメリカの大恩人

ホイットフィールド船長と

 

20数年ぶりに再会

身に着けていた日本刀を贈っている

 

11月ロンドンに着いた時に

病気を発症し仕方なく帰郷

 

蒸気船ダクラス号でスエズ運河を通り

東回りで帰国する

 

帰国後軽い脳内出血したが数か月後には

日常生活に支障が無いほどに回復

 

ジョン万次郎は自分の意思とは関係なく

アメリカへ行く事に成り それを受け入れ

貪欲に知識を修得した文物は

 

江戸幕府は長く鎖国政策で 

外国の情報はほとんど無く

 

西洋の知識を貪欲に吸収しようとしていた

知識人や幕末の志士達に

 

ジョン万次郎は多大な影響を与えた

 

 

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中浜万次郎

2023年07月07日 00時01分54秒 | 日記

   ジョン・マン(万次郎)

1851年 琉球に上陸

全く言葉が通じなかった

 

通事(通訳)をしていた板良敷(牧志)朝忠が

密航者として 英語で取り調べを行った

 

その際に万次郎から得た米国情報は

1853年5月26日に来琉したペリー総督との

 

外交交渉に大いに役にたった

(7月8日に江戸,浦賀に来航する)

 

万次郎は琉球に半年間滞在している

現在の豊見城市字翁長の高安家に居置かれた

 

監視はあったが集落内は自由に出歩く事とは

自由で緩やかな軟禁状態だった

 

言語能力に長けた万次郎は半年間で方言を理解し

地元民と親しく交流していたと言われている

 

琉球を離れるときには

沖縄の方言で挨拶していたと言う

 

後に、琉球から薩摩藩に情報が入り

島津斉彬は万次郎を招き

 

洋学校(開成所)英語の講師とし

万次郎の指導のもと和洋折衷船越通船を建造している

 

その後幕府の取り調べを受けるため長崎へ

踏み絵によりキリスト教徒の是非を問われた

 

長期間尋問を受け アメリカから持ち帰った

文物全てを 没収された

 

その後土佐藩に引き取られ藩の取り調べを受けた

取り調べ中 寝泊まりしていた家の 

 

河田小龍は万次郎の話を聞き

記録して「漂選紀略」を記している

 

1852年約2ケ月後に帰郷が許され

帰国から約1年半後

 

故郷に帰ることが出来たのは漂流から

11年過ぎての事だった

 

土佐藩から士分武士の階級が与えられ

帯刀する事を許された

 

また 藩校(教授館)の教授に任命される

 

1853年7月8日黒船ペリーが江戸に来航

来春再代航すると言い残し7月17日出港

 

来春ペリー総督来航への対応を迫られた幕府は

アメリカの知識を必要とし7月25日 

万次郎を召喚 江戸へ8月30日に到着

 

万次郎は直参の旗本の身分と

苗字を名乗ることも許され 

 

万次郎は生まれ育った中浜の地名

「中浜万次郎」と名乗った

 

1856年軍艦教授所の教授に任命され

造船の指導、測量術、航海術、数学、英語などを教えた

 

江川英龍の元で働きその時期に長崎で没収された

万次郎がアメリカから持ち帰った文物を返還された

 

1860年日米修好通商条約の

批准書を交換する使節団

 

勝海舟、福沢諭吉や万次郎も通訳として

その一人として臨海丸に乗船しアメリカ行く

 

小笠原諸島の開拓調査や捕鯨活動

上海渡航、ヨロッパ渡航 成館教授就任等々

 

中浜万次郎は めまぐるしく働き続ける

 

 

 

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ジョン・マン

2023年07月01日 00時00分22秒 | 日記

   アメリカでジョン・マンと呼ばれた万次郎

 

万次郎はサバ漁、操業中嵐に遭い

6日間漂流後 無人島 鳥島に漂着

 

143日後捕鯨船ジョン・ハラウンド号によって

救助された万次郎と仲間4人は

 

アメリカの捕鯨船の中継基地

ホノルル(ハワイ)に帰港した

 

船長ウィリアム・ホイットフィールドから

アメリカ行きを誘われた ジョン・マン

 

万次郎は自ら望み4人に別れを告げ

アメリカへと向かった

 

捕鯨を続けながらアメリカを目指した

1843年 ジョン・ハラウンド号は

アメリカ最大の捕鯨基地

 

マサチューセッツ州ニューベットフォードに帰港する

万次郎たち救出されてから2年後の事である

 

ホイットフィールド船長の

故郷マサチューセッツ州フェアヘーブンで暮らす

 

スコンチカカットネック・スクールで英語

1844年ではフェアヘーブンのバートレット・アカデミで

 

数学・測量・航海術・造船技術など学ぶ 

万次郎は熱心に勉学に励み首席で卒業した

 

また民主主義や男女平等などの知ることは

新鮮であったが、一方で人種差別も経験する

 

卒業後も何度か 捕鯨船に乗り航海し

地球2周 航海したしたと言われている

 

ジョン・マンと呼ばれていた万次郎は

望郷の思いに駆られ

 

帰国する資金を得るため

当時ゴールドダッシュで沸いていた

 

カルホルニアの金鉱で金を採掘する職に就き

当時のお金で 600ドルを得た

 

この資金で日本に帰るため

小型船 アドベンチャラー号を購入

ホノルル(ハワイ)の漂流仲間もとへ

 

そうして帰国準備を整え 

宣教師の計らいで1851年ホノルルから

上海行の商船サラ・ボイド号に乗船した

 

1851年2月 沖合で2人の仲間共に

アドベンチャラー号に乗り移り

 

琉球(現在の沖縄県糸満市)大渡海岸に上陸する

当時琉球は幕藩体制の中 薩摩藩に付属していた 

 

万次郎達が漂流から10年後の事でした

 

 

 

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