人生黄昏時

 老いを心身ともに感じ

  日々の生活で思った事を記す
  

グシク 【4】

2019年10月25日 00時00分23秒 | 日記

 琉球国時代にグシクを城と言う当て字にして以降

歴史書やグシクを紹介する文献など

 

全て城としてグシクを紹介している

この事が現在混乱を招いている原因と言われている

 

奄美ではグシクを、ゴスコ・ウシュク

沖縄本島では、グスク・グシク

宮古・八重山では、スク・シュクなどと呼ばれている

 

城(グシク)としての成り立ち

12世紀ごろ

地域に按司(領主)が登場し

初期のころは野面積みの石垣によるグシクで

按司の居城

 

13世紀ごろには

石切積みの城壁、城郭を持つ

 

中規模なグシクで、グシク時代と言われ

ほとんどのグシク内には御嶽と言われる拝所があった

 

14世紀頃になると

大規模なグシクが築城されるように成る

 

その頃を三山時代と呼ばれ

中山王察度・南山王承察度・北山王怕尼芝とも

 

明国と交易を行っていた

かなりの権勢を誇こり、力を持っていた

 

その頃の名残が現在も地名として

北部(国頭郡)、中部(中頭郡)、南部(島尻群)と

今も使っている(三山時代は百年続く)

 

15世紀中期に

琉球は統一王朝誕生により城の築城は終了する

 

2000年に五か所のグシク

今帰仁城跡・座間味城跡・勝連城跡・中城城跡

首里城跡がユネスコ世界遺産に登録されている

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グシク 【3】

2019年10月20日 00時00分23秒 | 日記

 グシクを何を持ってグシクと定義するか

グシクの実態は多種、多様なため

 

現在まで様々なグシク説が提起されたが

現在も決着していない

 

多数あるグシク説の中で特に論点されて来た主な三点

城郭説・聖域説・集落説が議論されて来た

 

鳥羽正雄や比嘉春潮らが著書で立地や構造を見る限り、

多数あるグシクの大部分が国王・按司の居城であるとした

 

鳥越三郎もこの説を受け入れ著書「琉球教宗教史の研究」で

これらの見解を述べてグシクは城郭説とした

 

城郭説に異を唱えたのが中松弥秀である

グシクの立地、分布や構造から

城郭だとする考えに疑問を呈した

 

グシクは祖先の共同の葬所の場所であり

グシク内には神が降り、神が鎮座している

御願所と一つにした聖域であるとした

 

でも城郭説を全て否定しないとも言っている

 

古代史学の平野邦や民俗学の国分直一も

聖域説を提起している

 

嵩原政秀が聖域説、城郭説を否定し集落説を提起した

田村浩もグシクを集落と関連告げて

 

マキヨ(血族小集団)と呼ばれた小集団が集落を形成し

自衛のため防護のためグシクが発成してきた

 

また、墓地や御嶽(拝所)を中心に発生してきた

集落であるとした

 

聖域説を支持する国分直一や中松弥秀などからは

これらの説には、難点があるとした

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グシク 【2】

2019年10月15日 00時00分23秒 | 日記

 グシク(城)は奄美群島から先島諸島の範囲に

470以上あると言われている

 

グシクの形態は実に様々で城壁や城郭などを持つ城塞としての

グシクはごく一部で大多数は小規模なグシクである

 

琉球国時代にグシクを「城」と言う当て字にしたため

現在でもグシクを城と解釈している

 

そのためグシクと言われていたもの

全てを城と記録され、呼ぶようになっている

 

私たちが思う城とは戦国時代以前の城は

軍事拠点を主に外敵から防衛をする為

城作から環濠、土堀、堀、土塁の作事などと

 

時代とともに石塁から石垣による城壁、城郭を

持つ城塞としての城をイメージするが

 

古琉球国時代の城と言われるグシクの

大多数は全く違う形態である

 

グシクと言われる遺跡は小高丘や岩山に

立地した宗教上の聖域や墓陵、按司の家館

 

集落跡などを、グシク跡と言われている

どうみても城とは思えない物である

 

グシクの実態が様々なため何を持ってグシクとするか

定義するか決まっていない

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グシク 【1】

2019年10月10日 00時00分26秒 | 日記

 グシク(城)とは、琉球列島に存在する

琉球独特のグシクと言われる城跡の事です

 

琉球列島に同じ古流球文化を共有する

北は奄美群島から南は宮古・八重山諸島に

様々な形態のグシクがある

 

岩台地や小高丘などに小規模なグシクが

マキヨ(血族)と呼ばれる小集団・集落を

柵で囲ったものから、堀、土塁の作事

 

そして時代とともに石塁、石垣のグシクへと

外敵から防衛するためグシクは発展していった

その大部分は小規模なグシクであった

 

私たちが現在目にしている城とは

まったく違う形態のものである

 

沖縄本島及び周辺離島に

380のグシクがある

 

それから奄美群島に40グシク

宮古諸島に29のグシク

八重山諸島に39のグシクがあると言われている

 

合計すると468グシクになる

 

この数字は沖縄県教育委員会発行誌

各市町村史・各市町村教育委員会が発行した雑誌及び

 

関係する誌等に載っているグシク

そして各地域で伝わるグシク跡などの数字である

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城 【4】

2019年10月05日 00時01分32秒 | 日記

  江戸幕府の一国一城令による城の破却によって

三千以上あった城は百七十城ほどに激減する

 

1873年(明治6年)明治政府による廃藩置県

に伴う廃城令により約百五十城が廃城処分となり

四十余りの城が残った

 

そして火災や戦争によって

破壊、焼失し多くの城が失われた

 

破却、廃城となる中

中村重遠や大隅重信、市川重造そうして民間人らが

 

日本の城は建築的にも、美術的にみても

世界に類をみない価値あるものであると考え

 

城の修理や保存を国や国民に

城の所有者地方自治体に働きかけた

 

姫路城や名古屋城、彦根城、松本城など

多数の城が修復、保存された

 

現在も各地方にある城

城跡など整備され復元されている

 

日本にある天守十二城

弘前城・松本城・丸岡城・犬山城・彦根城

姫路城・松江城・備中松山城・丸亀城・

伊予松山城・宇和島城・高知城

 

重要文化財に 七城が指定

丸岡城・宇和島城・伊予松山城・高知城

弘前城・備中松山城・丸亀城

 

国宝

犬山城・松本城・彦根城・姫路城・松江城

 

ユネスコ世界遺産登録

姫路城・二条城・

 

沖縄、五か所の城まとめ

世界遺産に登録されている

今帰仁城跡・座間味城跡・勝連城跡・中城城跡・首里城

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城 【3】

2019年10月01日 00時00分37秒 | 日記

  日本の歴史の中で最も城が

建築されたのは戦国時代

 

平地を望む丘陵の平山城や

平地に築いた平城、平城が主流となり

天守や櫓なども建築されるようになる

 

その頃全国各地に、三千以上の城が築かれ

天守は百余りあった

 

江戸時代、江戸三百藩と言われる

約三百の藩がありそれぞれの藩は

数城(家臣の城)の城を持っていたが

 

徳川幕府は武家諸法度と一国一城令によって

大名の居城となる一城以外は破却となった

 

全国にあった三千の城は

百七十ほどに激減した

 

江戸時代の城は軍事拠点としての

意義を失い政治を行う政庁としての役目を行っていく

 

だが幕末になると外国船への対策として

日本各地に台場や砲台など五稜郭や

四稜郭、稜堡式の城郭が多数築城されている

 

そうして明治時代になると

1873年(明治6年)の廃城令、廃藩置県により

 

約百五十の城が廃城処分となり四十余りの城が残った

だが保存や修築などはされなかった

 

そして火災や戦争によって破壊

焼失し多くの城が失われた

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