人生黄昏時

 老いを心身ともに感じ

  日々の生活で思った事を記す
  

菊隱宗意【5】

2020年10月25日 00時00分16秒 | 日記

  尚寧王一行は、将軍秀忠に謁見のため江戸に菊隠も同行した

1610年8月28日の事である

 

そのとき薩摩藩は幕府から琉球の支配権と

奄美諸島を割譲し直轄領地として承認を得た

 

その道中摂政具志上王子が病死している

(静岡市清水区清見寺に葬られている)

 

1611年薩摩から「琉球は古来より薩摩藩の付属国である」と

記述された起請文書に

 

署名を要求され尚寧王と三司官は受け入れ

拒んだ三司官の一人謝名利山は斬首された

 

薩摩藩の支配は明治維新まで

二百七十年続くことになった

 

また貿易管轄権などの「掟十五条」を認めさせられ

琉球の貿易は薩摩藩が握るようになった

こうして間接支配するようになり

 

年貢の上納・貿易の統制

そして江戸上がりなどの義務を負うことになった

 

琉球国は対外的には

独立した王国として存在するようになった

 

尚寧王一行は、1611年8月まで薩摩に滞在した

三年後に帰国した

 

菊隠は、国難のときに対する

功績により大里間切を給地され、

 

その地に西来院を建立し

開山祖菊隠西来和尚と称された

 

僧侶にもかかわらず

摂政同格の加判役王子の位も与えられ

 

そして琉陽国師の称号も賜った

菊隠宗意は老いのため、三司官・諸々役職を辞し隠居、

 

隠居寺の料として知行高四百斛を与えられる

1620年8月7日に菊隠宗意は示寂した

墓は現在も西来院に現存する

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菊隱宗意【4】

2020年10月20日 00時00分17秒 | 日記

  薩摩軍が奄美大島に到着の報告を受け

琉球国は和議を申し入れるため

 

天龍寺の以文を派遣したが、以文は恐れ

隠れて接触すらしなかった

後に勘を蒙ったと言われている

 

薩摩軍が今帰仁運天港に到着したとき

王府は再び和睦の使者として

 

三司官名護親方・茶人の喜案

そして菊隠らを送った

 

戦禍の中をなんとか今帰仁に着き

和睦を申し入れた、交渉の結果

名護親方が人質になり

 

首里で和睦の交渉を行う事が決まった

薩摩軍は進攻し、三月二十九日読谷大湾に上陸した

 

軍は二手に分け本体は陸路で首里を目指した

一方の船隊は那覇港へ

 

四月一日首里に到着し

二日から講和交渉が開始された

 

琉球側は摂政具志頭朝盛・喜案・菊隠ら

八人が列席して始まった、

 

組織的な軍事行動は終結した

四日尚寧王は降伏(無条件降伏に等しかった)し

首里城を下城した

 

五日から城内荷物御改し宝物の目録作成が行われ

十日~十三日かかった

 

五月十五日尚寧王は、薩摩へ連行され、

翌年1610年尚寧王と随行者百余人(琉球側)

藩主島津忠恒と共に、

 

徳川将軍に謁見のため江戸へ向かった

そのとき菊隠も同行している

 

この戦争で薩摩側は、二百人近く戦死者

多数の負傷者が出た

 

琉球は戦兵・住民を含めると薩摩より

数倍あったと言われているが正確な数の記録がない

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菊隱宗意【3】

2020年10月15日 00時01分18秒 | 日記

  1609年、薩摩藩軍、大将樺山久高は

総勢三千人・八十余の艦艇

 

鉄砲七三四挺・弾丸・火薬三万七百放(一艇に三百放)

弓百十七張りで火力重視の構成であった

 

その頃の琉球国の、軍事力組織は約一万人の兵力で

三隊で構成された、三番「ヒキ」と言われた

 

首里城・那覇港湾などの守りであった

弓約五百張りで、鉄砲役二百挺

 

大砲数門保有し那覇の両岸に砲台設置されていたが

武器は主に弓矢が中心であった

 

薩摩軍は、3月4日に山川港を出港した

3月24日には奄美諸島すべてを占領する

 

それを知った王府は、和睦のため日本語に通じる

菊隠宗意を使者として遣わす事になった

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菊隱宗意【2】

2020年10月10日 00時00分16秒 | 日記

  1609年に薩摩軍が琉球国に侵攻してきた

侵攻して来た経緯については諸説あるが

 

歴史学者の先生方はほぼ同じ事を述べている

 

薩摩藩の事情

 

江戸幕府の事情

 

琉球側の事情があったとしている

 

その経緯は、1602年睦奥伊達に

琉球国の船が漂着した

 

その時徳川幕府の命により

1603年に39人を琉球に送還した

 

また、1604年には平戸にも漂着し送還している

後に幕府は薩摩藩を介し謝恩使を派遣するように求めてきた

 

琉球側は無視、繰り返し要求したが

琉球国は応じなかった

 

薩摩藩は改めて大慈寺の龍雲僧らを遣わし説得し

朝聘するよう求めたが琉球国は応じなかった

 

当時幕府の鎖国政策(1612年から始まる)前で

そのころ各藩の商船が多数貿易のため琉球国に出入りしていた

 

薩摩は薩摩藩の朱印状を持たない

船舶との貿易を認めないよう要求したが

 

貿易国の琉球としては到底受け入れる事は出来なかった

それまでの良好関係が崩れ対立関係が生じ

侵攻へと至る過程に大きく影響したと言われている

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菊隱宗意【1】

2020年10月05日 00時00分15秒 | 日記

  菊隠宗意は幼い時に出家得度

円覚寺住持洞観和尚によって剃髪して入寺

 

その後、日本に渡り

京都五山派大徳寺笑嶺宗訢(1490~1568年)より

 

師事を受け禅堂首座にまでなったと言うが

法嗣を受け継ぐことはなかった

 

その後、古渓宗陳(1532~1597年)に師事し、

法嗣を受け継いで古渓僧師より、

菊隠の称号を受け継ぐ

 

菊隠は、十数年の修行仏法の学びを終えて

琉球に帰国し、天王寺住寺となり

琉球において大徳寺の仏法を教え伝えた

 

菊隠は、薩摩藩などとの外交に携わる

 

島津家の家督継承の祝いの時も

紋船で外交使節として

 

度々薩摩を訪問して島津義久・義弘・家久らと

親交があったと言われている

 

その後、円覚寺十八代住持となり長きに渡って勤めが

老齢のため辞し、千手寺に閑居した

 

1609年に、琉球国始まって以来の最大の危機が訪れる

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袋中良定【6】

2020年10月01日 00時00分17秒 | 日記

  袋中は、中国明に渡る機会を待っていたが

その目的を果たすことが出来ず、1606年帰国する

 

琉球国で、三年の滞在期間であった、

渡船を待ちつつ、浄土念仏の布教活動を熱心に行ってきた

 

尚寧王始め王府の高官、一般民衆も帰依し

琉球の人々、文化に多大な影響を与えた

 

袋中が教えた、念仏踊りは

エイサーへと発展し沖縄各地域へと広まり

 

旧盆の時期には

全島で盛んにエイサー祭りが行われ

全国的に知られ、有名になっている

 

袋中帰国、三年後琉球は薩摩藩の侵攻を受け

琉球国王尚寧は薩摩に連行されて行く

 

その後尚寧王は

時の将軍二代目徳川秀忠に謁見するため

 

江戸への道中

京都伏見で袋中と親しく再開した

 

袋中に親筆と賛辞と肖像画・書棚・青貝掛板・クバ団扇・

西湖図など、三十数点余りの宝物、送られた

 

尚寧王直筆の肖像画には

「私は法を譲りて、師を奉げるため、師の像を描き

師が桂林寺を創建された以来我が師と仰ぐ」と記されている

 

尚寧王と袋中上人の親交の深さ、信頼関係が伺える

これらの宝物は、現在京都府の博物館に保管されている

 

袋中良定上人は、

1639年2月23日、八十八歳で入滅する

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