人生黄昏時

 老いを心身ともに感じ

  日々の生活で思った事を記す
  

唐芋の伝播【1】

2022年06月25日 00時20分20秒 | 日記

  四国への伝播

甘藷(唐芋)は琉球から薩摩藩に伝わり

九州全域に普及して行った唐芋

 

伊予の国大三島 

現在の愛媛県今治市属する

 

島に住む下見吉十郎は

子供三人を 亡くしていた

 

吉十郎38歳の時 六部僧となり

諸国 行脚に旅発ち

 

大阪、京都、広島、

九州を巡って薩摩藩に

 

1711年11月頃 伊集院村で

始めて食した唐芋は美味しく

 

我が村に持ち帰りたいと懇願し

栽培方法と種芋を譲り受け

大三島へ持ち帰った

 

下見吉十郎は故郷大三島で種芋を育て

その苗を農民に配って伝授した

 

後に唐芋は瀬戸内海の島々に

普及して行った

 

1731年から1732年天候不順で凶作となり

享保大飢饉が起こった

 

19世紀に編纂された江戸幕府の公式史書

御実記によると97万人の餓死者と 

 

飢餓に苦しんだ人は2百50万人以上

のぼったと記録されている

 

大三島周辺では餓死者は一人も出ず

唐芋を食べ命が救われたと言われている

 

唐芋は救荒食物として

四国全域へ普及して行く

 

前回の投稿にコメント頂き有難う御座います

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

唐芋の伝来と伝播

2022年06月20日 00時01分27秒 | 日記

  芋のルーツは中央アメリカのメキシコから

グアマテラにかけて紀元前三千年前から

栽培されていたと考えられている

 

15世紀ごろ南米地域に伝わり

16世紀頃スペイン人やポルトガル人によって

 

東南アジアへ伝わり急速に普及した

その後中国へと伝わり

 

1605年頃 琉球国の野国総官によって

琉球に芋の苗が持ち込まれ 総官の村で広がり

 

儀間真常によって15年後に

芋は琉球全島に普及していた

 

薩摩 中川出身の前田利右衛門は

貿易船の船内荷役の仕事をしていた

 

仕事で琉球を往来していた

1705年頃 琉球で栽培され 全島に普及していた

 

食べて美味しく栄養が有り 

痩せた土地でも良く育ち 

 

狭い土地でも収量も多く 

年中栽培出来る 唐芋によって

 

琉球は台風や旱魃が度々あったが 

この唐芋によって多くの人々が救われた事に注目した

 

前田利右衛門は苗を 

故郷山川(薩摩藩)に持ち帰り

 

植えたが 琉球と気候が違うため

上手く出来なかった

 

様々な工夫を重ね 遂に栽培に成功し

増やした種芋や苗を村人に分配し

栽培の方法を指導した

 

芋は薩摩藩(鹿児島県)領内に普及した

芋を唐芋と呼ばれ 

 

さらに九州全域に普及して行った

 

        唐芋の伝来と伝播は諸説あり

 

前回の投稿にコメント頂き有難う御座います

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

野国総官【2】

2022年06月13日 00時00分33秒 | 日記

  野国総官は

通称 野国総官と呼ばれていた

 

野国は出身地の名で

総官は役職名である

 

姓名は 与那覇裕初(大和名)

唐名(トゥナー)は總世健

 

ワラビナー(童名)は マチュー(松)

家族、親族、仲間内では 一生 ワラビナーで呼びあう

 

当時の琉球は災害、台風や旱魃などが度々あり

凶作により多くの人々が貧しく貧困に喘いでいた

 

総官が持ち帰った 

ウムによって多くの人々が餓死より救われ

 

まさに命を支える食の 大恩人

ウム・ウフシュ(芋大主)と呼ばれている

 

那覇市奥武山 世持神社に

野国総官は蔡温・儀間真常らと供に

 

沖縄産業発展に尽くした一大恩人として祀られている

 

また出身地嘉手納町に 野国の墓がありその前面に

甘藷発祥之地の石碑が建立されている

 

また、甘藷伝来350周年記念として

野国総官宮が建立された

 

総官の偉業を 讃えて

毎年秋に野国総官祭りを開催し

 

尊敬と親しみを込めて 

ウム・ウフシュ(芋大主)と呼ばれている

 

       

       前回の投稿にコメント頂き有難う御座います

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

野国総官【1】

2022年06月07日 00時00分36秒 | 日記

  野国総官とは

琉球国に始めてウム(甘藷)を普及させた人物

 

明王朝(中国)と朝貢関係にあった 琉球

朝貢貿易の進工船に野国総官は事務職として勤めていた

 

1605年頃 進工船の一員として

明国福州(現在の福建省)に赴いた

 

野国総官は現地で食べて 美味しく 栄養が有り

栽培が簡単で やせた土地でも良く育つ事から

 

当時の琉球は台風や旱魃など度々あり

貧しく貧困に喘いでいた 琉球に

 

この甘藷(ウム)を持ち帰りたいと思い

栽培方法を学び 鉢植えの苗を持ち帰り

 

自分の故郷 野国(現嘉手納)ムラで移植した

常食である五穀は天候に左右されるが

 

ウムは天候には大きく左右されない

痩せた土地でも多くの実を付け 

 

良く育った事から五穀を補う

食糧として大きな役割を果たす

 

多くの人々が このウムによって救われ

また、凶作、災害、旱魃などによる餓死の

災難からも 守られた

 

ウムは多くの村民に普及された

 

その後 儀間真常によって

琉球全島に普及されていく

 

 

前回の投稿にコメント頂き有難う御座います

                大変励みになります

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ウムのルーツ

2022年06月01日 00時01分29秒 | 日記

   ウム(甘藷―サツマ芋)

ウムの原産地は中央アメリカのメキシコから

 

グアマテラにかけて紀元前三千年以前から

栽培されていたと 言われている

 

その後南米地域やペルーに伝わり

十五世紀末に 探検家コロンブスによってヨロッパへ

 

ヨロッパ地域ででは気候が合わず

あまり普及する事は無かった

 

十六世紀になると頻繁に南アメリカ大陸にやって来た

スペイン人やポルトガル人によって

 

植民地であった東南アジアに持ち込まで

ウムは急速的に 広がっていった

 

その後中国へと伝わり特に中国南部に広がった

千六百年頃に 中国明王朝と朝貢関係にあった

 

朝貢のため進貢船の一員として

明国の福州に赴いた

 

琉球国の野国総官は

鉢植えされたウムの苗を持ち込み

 

野国村(現在の嘉手納)で栽培された

ウムは台風や旱魃にも強く 

 

痩せた土地でも良く育ち 収量も多く

 

琉球で度々あった飢饉から 多くの人々が 

ウムによって 飢えから救われた

 

琉球から

薩摩・九州全土へと 伝わり

そして日本全国へ普及した

 

ウムは薩摩では唐芋(からいも)と呼ばれ

薩摩から全国に普及したため

 

サツマ芋と呼ばれるようになる

   (ウムの伝来と伝播には諸説あり)

 

 

前回の投稿に温かいコメントを頂き有難う御座います

                     大変励みになります

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする