人生黄昏時

 老いを心身ともに感じ

  日々の生活で思った事を記す
  

蔡温 【2】

2020年07月25日 00時00分39秒 | 日記

  蔡温は、クニンダ(久米村)の名門祭氏志多伯家十世父蔡鐸は

クニンダの最高職である総理唐栄司で

 

琉球の正史中山世譜(蔡鐸本)や

外交文書歴代宝案を編纂、漢詩集などを著している

父蔡鐸の次男として誕生した

 

クニンダとは今から620年前中山王察度(1350~1396年)は

明国朝洪武帝とは朝貢関係にあり交易、商売目的に

 

明国・琉球国との間を往復しているうちに

閩人が移住したとされている

その後も隋時琉球に渡来して久米村を作った

 

閩人とは現在の福建省出身の客家であった

客家とは、漢民族で古代中国中原(都)の王族の末裔で

政変によって王朝が交代した時、権力の座から追放

 

戦乱から逃れるため中原から地方に落延びて

移住先ではよそ者であるため客家と呼ばれた

 

客家は移民のため土地を所有が困難のため

商業や流通に従事する事が多く

 

そのため子弟には教育に熱心であった

その客家が東南アジア、東アジアに渡り

 

そして琉球にも渡来して来た

この客家が華僑のルーツとされている

琉球国は東シナ海の中心にあり

中継交易によって、明国や日本、高麗

 

華僑の人が居た東南アジア諸国との

中継交易によって繁栄していた

 

この繁栄は、外交文書作成、通訳、造船航海技術などを担う

専門職能集団のクニンダ人によって成し得たものである

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

蔡温 【1】

2020年07月20日 00時00分51秒 | 日記

  蔡温とは琉球国の政治家・学者、1728~1752年まで25年間

世あすたべ(三司官)の地位にあった、その間多大な業績を残し

また、多くの著書を残し後世の施政に強い影響を及ぼした人物

 

蔡温は1682年、蔡氏多伯家十世・父蔡鐸と母真呉瑞との間に

次男(正室の長男)として誕生した、わらびなー(童名)は蒲戸

 

ウチナナー名乗りは(沖縄名)具志頭親方文若

蔡温は、からなー(唐名)である

 

父蔡鐸は、クニンダ(久米村)の

最高責任者省総理唐栄司の地位にあった

側室眞多満との間に長男蔡淵・わらびなー次良がいた

蔡温は4人兄妹の次男である

 

蔡温は三司官になる以前から王府の要職に在りその才能を発揮し

清国とのトゥージ(通訳)、国王の国師などの役職を務め

また漢文の訓話師や講解師などの職にあった

 

羽地朝秀が古琉球から近世琉球へと

改革の道を開いた路線を受け継ぎ

 

王府の自給自立の強化、国民・官使の意識、ものの考え方の改革

国の倫理的支柱に儒教を置き儒教道徳の浸透を図った

 

経済的には、農業・林業の改革を行い

古琉球から脱し近世琉球へと際温は確立へと導いた

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

羽地朝秀【5】

2020年07月15日 00時00分21秒 | 日記

 羽地は古琉球の伝統祭祀・祭礼の中にある、非合理的な神事、

羽地が思う迷信的な儀礼、ユタ、トキ

神がかりてきな政治などを、批判し否定した

 

伝統祭祀を守ろうとする抵抗勢力から激しい反対

批判を受けながら、羽地は改革を遂行する

 

多額の経費が掛かる、国家の最高儀礼である

国王の久高島への参拝を廃止し代理を派遣するようにし

 

祭祀、祭礼を簡素化し廃止した

各地域の祭祀も縮小するようにした

 

羽地が最も力を入れ改革したのが

経済と地方制度改革である

 

伊野波(本部)、恩納、大宜味、久志、美里

宜野湾、小禄を間切として独立させ再編成した

 

そして仕明策(土地の開墾)によって

農民・士族も自ら土地を開墾した

 

土地の私有と自由に売買を認め

農地は拡大し収穫も増強した

 

羽地の改革は貿易経済から農業を中心とする

経済に転換し改革は一定の成功を治めた

 

経済状況は回復し後には国の借金も返済しつつあった

この羽地の改革は、三司官際温に引き継がれていく

 

摂政に就任、七年間に実施し政策を行った布達文書を

まとめたのが羽地仕置きである

 

羽地は後に王子の位に就く

1673年摂政職退任、1675年五十九歳の時死去

 

羽地朝秀の業績は高く評価され

現在でも尊敬を集めている

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

羽地朝秀【4】

2020年07月10日 00時00分20秒 | 日記

  羽地朝秀は1666年国の最高職、摂政に任命される

薩摩藩の軍事による侵攻によって

 

薩摩・幕藩体制の中に組み込まれ

独立国家として意思決定が出来ない

 

その結果人々は生きる意欲が失われ

無気力、退廃的になり、人心は乱れ

 

その上中継交易も失われていた

激変する国際情勢に琉球は国として

 

機能を果たすことが出来ていなかった

政治は混迷し国全体が疲弊していった

 

このような状況下に羽地は摂政に任命されたのである

 

羽地は薩摩・幕藩体制の支配と言う現実を容認し

琉球国の主体的国家に維移、遂行の道を得るため

羽地は改革を断行する

 

まず国の行政機能の改革

摂政・三司官の会議を王府の最高機関と位置付けた

 

官人、人々の意識改革、価値観の育成

 

身分制度を厳格化するために

士族全てに系図を作らせ制度化した

 

身分は系図によって守られ

身分は系図によって継承し

この身分(家)によって王府に仕えるように制度にした

 

沖縄の門中制度は、この時期に始まったとされている

 

士族、役人に学問や算勘、謡(和歌・琉歌)

茶道、歌道、芸能などの習得を義務化された

日本や中国との外交上必要なものだった

 

沖縄の伝統芸能はこの時代に基礎が造られたと言われている

 

朝秀が特に力を入れたのが財政再建

 

王家と国民に至るまで贅沢の禁止

虚礼の廃止、不要な慣例などを改めた

 

琉球の政治は政教一致で行われていた

 

王府の祭祀、神事には多額の出資あった

祭祀、祭礼を縮小し簡素化をした

 

聞得大君を頂点とするノロ

神職組織を政治的影響力を排除した

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

羽地朝秀【3】

2020年07月05日 03時08分21秒 | 日記

   羽地朝秀の生存中の姓名は呉象賢・羽地按司重家と呼ばれていた
1691年以降王家の分家は氏が「向」、名乗り頭が「朝」に統一され

王族であった朝秀は向象賢・羽地按司朝秀と呼ばれる

「向」は姓「象賢」は諱、「羽地」は家名、按司は位階もしくは称号
「朝秀」は名乗りで、姓と諱の組み合わせは、からなー(唐名)と言い
中国との朝貢、外交の際公文書に使用された

王家の姓は「尚」、分家は「向」、名乗り頭は「朝」の一字が付いた

家名・称号・名乗りを合わせた構成は、大和名と呼ばれ
日本との外交の際公文書に用いられた

家族、仲間内では大人になっても、わらびなー(童名)で
呼びあっていた、朝秀のわらびなーは「思亀」である

琉球は中継交易よって国として成り立っていた
ところが西洋諸国のアジアへ進出

清国の海禁政策の緩和により琉球の中継交易は
急速に衰え国の経済は衰退した

激変する国際情勢に旧体制の琉球は国として
機能を果たすことが出来なかった

経済は衰退し政治は混迷、人、国全体が疲弊していった
このような状況に誰もが危機感を抱いていた

大和に留学し政治や経済に精通していた羽地朝秀を
尚質王は行政のトップ(摂政)に任命した

当時の琉球は薩摩藩、幕藩体制の中に組み込まれ
政治的には独立を失い、その上莫大な借金があった

独立国としてなんとか維持していた琉球は
独立国として幕府、薩摩藩に物を言える
主張できるような、主体的な国に立て直すため

旧体制下の政治機構、全ての組織、政教分離を
強力なリーダーシップで大胆に改革を断行する

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

羽地朝秀【2】

2020年07月01日 00時00分46秒 | 日記

  羽地朝秀は、父羽地王子朝泰(羽地御殿五世)の

七人兄弟の長男として1617年6月6日誕生

 

からびなー(童名)は思亀、からな(唐名)は呉象賢

名乗りは重家

 

呉象賢・羽地按司重家、号は通外である

 

1640年に家督、羽地御殿を継いで

羽地間切の按司地頭となる

 

朝秀は大和(薩摩)に留学し三年の間に数々の

学問を習得したと伝えられている

 

帰国後、尚質王の命により琉球国最初の国史

中山世鑑を編纂した

 

琉球国の創始(開闢説話)から

1555年四代目尚清王の治世まで

六冊を和文で記述されている

 

琉球の人々の祖先は、日本からの渡来人で

琉球最初の王統、舜天王は源為朝の子で

清和源氏の末裔と称している

 

源為朝は保元の乱で敗れて伊豆大島へ流刑になったが

為朝は島を脱出し嵐に遭い、

 

運を天に任せると祈ったところ、琉球に流れ着いた

着いたところを「運天」と名付けられている

 

その後、為朝は大里按司の妹を妻とし

子が生まれ尊敦と名付けた後の「舜天王」である

 

源為朝渡来伝説は、日本の文献最初は京都五山の

臨済宗僧侶月舟寿桂(1470~1533年)の

幻雲文集・鶴翁宇銘井序(1572)においてである

 

1807年頃には有名な曲亭馬琴の椿説張月や

鎮西琉球記などにも記され江戸時代には広く知られている

 

また為朝来琉説が十六世紀前半には京都五山の

僧侶の間では琉布していた事実が確認でき

琉日の僧侶の交流によって琉球国へ伝えられている

 

また琉球に滞在していた袋中僧侶が1605年に編纂した

琉球神道記にも源為朝来琉記記述されている

 

為朝琉布文献は、中山世鑑を編纂される際に大きな

影響を与えたのではないかと言われている

 

源為朝来琉説は史実的根拠はなく伝説の域を出ない

この伝説は羽地朝秀の琉日同祖論として多く議論されている

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする