人生黄昏時

 老いを心身ともに感じ

  日々の生活で思った事を記す
  

久米島 【5】

2016年11月25日 00時03分03秒 | 日記

 14世紀頃、東南アジアより、インド発祥とする

製織技法が沖縄、そして久米島に伝わり

 

また、「堂の比屋(堂集落の長)」が中国から養蚕の方法を学び

これが久米島に広まり、絹織物久米島紬の成り立ちと伝えられている

 

久米島の紬は、桑の栽培から始まり、

養蚕、糸作り、手くくり絣、泥染、染料は

全て久米島島内にある物を使い

 

織は手投杼を用いて手織りで織り上げる

これらの技術は、琉球王国時代からの伝統を継承し伝承されていた

 

久米島紬は日本の紬の発祥の地と言われている

 

沖縄本島から奄美大島を経て、日本本島に伝わり

大島紬・結城紬・久留米絣などの元となったと言われている

 

久米島紬は、昭和50年に伝統工芸品として指定され

平成16年には国の重要文化財に指定される

 

久米島紬保存団体が重要無形文化財の保持団体に認定された

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久米島 【4】

2016年11月20日 00時02分12秒 | 日記

 具志川城主であった上江洲家は

代々久米島の地頭として勤めてきた

 

1754年に七世地頭の上江洲智英(1704~1762年)が

現在の家屋を建築したと言う記録がある

 

屋敷(約660坪)の周囲は琉球石灰岩の

石垣と福木に囲まれ、全体が美しい状態で保存され

当時の面影を色濃く残っている

 

今でも島の住民は石垣殿内と親しみを込めて呼んでいる

 

上江洲家は地頭として

綿糸・お茶の栽培方法、中国から伝わった養蚕

東南アジアから伝えられた織物の技法など

 

久米島紬として久米島に普及させ

久米島のために尽力されたことでよく知られている

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久米島 【3】

2016年11月15日 00時01分23秒 | 日記

 美しい島・球美の島と呼ばれる、久米島は

歴史書にも「くめのしま」と「おもろさうし」に謡われている

 

日本の史書「続日本記」に元明天皇の時代714年の記事に

太朝臣遠建治等が奄美、信覚(石垣島)、球美等の

52人を率いって奈良に入朝をしたとある

 

また、ほかの史書にも、九米島・古米島・孤米島などの記述がある

 

久米島の歴史は古く、史跡、石碑、伝統文化など多くある

小島であるが、城跡として13箇所確認されている

15世紀頃久米島を支配していたであろう

宇江城跡、伊敷城跡、登武那覇城跡、具志川城跡として今も見ることが出来る

 

1511年に琉球の侵攻により、琉球の支配下になる

その後、具志川城主が代々地頭代として久米島を統治してきた

 

具志川城主の末裔である上江洲家は、280年前に建てられた家は現存する

沖縄最古で国の重要文化財に指定されている

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久米島 【2】

2016年11月10日 00時23分11秒 | 日記

 久米島は緑豊かな森林を有し、そのため水が豊かで

以前は、稲作が盛んで米の島と言われていた

 

沖縄の方言で米は(くみ)と言い

米の島→球美の島→久米島と呼ばれるようになったと言われている

 

久米島の東側沖合に浮かんでいるように見える長さ7㎞の3つの砂洲ハテの浜は

メーヌハマ・ナカヌハマ・ハティヌハマと呼ぶが

この3つを総称して、ハテの浜と呼ばれている

 

コーラルサンドケイと言う真っ白な砂は

白化したサンゴ・貝殻・ウニ殻・魚の骨などが

数万年かけて白化した、砂・星砂になった

これは自然が創り出した神秘です

 

コバルトブルーの海は透明度高く世界のマリンスポーツのメッカとなっている

ザトウクジラ・ジンベイザメ・イルカ・マンタと色鮮やかなサンゴと熱帯魚の舞は

ダイバたちに感動を与えている

 

また、釣りバカ日記の映画や、CM,ミュジックCDの撮影や風景に使われている

久米島の島々、砂洲、海は、東洋一美しいと呼ばれている

 

美しい島・球美の島・久米島!!!

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久米島 【1】

2016年11月05日 00時02分14秒 | 日記

 久米島は、沖縄本島南部から最も西に、約100㎞に位置し

面積は、59.53㎡で、人口8137人

 

奥武島(有人島人口30人余り)、オーハ島(有人島1人)

砂だけから成るハテの浜(3つの砂洲 )

3島から成る久米島町と成っている

 

中国と琉球の玄関口の島であった寄港地として

久米島は、東シナ海に面し、その位置から琉球国時代から

中国、東南アジアとの交易、18世紀には諸外国の船も寄港するようになり

中継基地として中心的な役割を果たしていた

 

久米島は緑豊かな森林が有り、水も豊富で

歴史を伝える史跡、伝統や文化財など多くある

 

東洋一美しいと呼ばれる

自然そのままの砂だけの島ハティヌハマ(果ての浜)と

イフビーチは真っ白な砂浜、真っ青な青い空で、海は透明度高く

写真、ウォッチング、マリンスポーツ、マリンレジャーなどに最高です

 

久米島は沖縄の古き良き風景が残り

歴史、伝統文化、自然を堪能することが出来る

 

1983年に島全体が県立自然公園に指定される

 

久米島は神が住む島で、宗教上の遺跡、拝所も多く信仰心が強い

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伊是名島 【4】

2016年11月01日 00時00分31秒 | 日記

 沖縄には、毎年3月~4月頃シーミー(清明蔡)言う伝統行事がある

17世紀頃中国から伝わったと言われている

先祖供養する、旧盆、旧正月、シーミーは

三代行事の一つで重要な行事と成っている

 

王家の先祖供養の公事清明(くーじぬしーみー)祭は

王家の玉陵で行われる

玉陵は尚円王の妃・父・母・姉・親族が葬られている

 

近年の王族や2005年には、22代当主尚裕氏も葬られている

伊是名玉陵でも、1870年頃から王府と同じ儀式で行われていて

以来現在まで、公事清明蔡は行われ続けられている

 

王家の公事清明蔡が行ってから

一般の家庭のシーミーは行う慣わしとなっていが

現在では公事清明蔡を行っているのは、伊是名島だけである

 

毎年行われている公事清明蔡は伊是名村の主催で執り行われる

村長始め島の代表者、尚家親族が列席し

 

また、島内の王族、四殿内(ゆぅろぅんち)といわれる

銘刈家・伊礼家・名嘉家・玉城家から代表者も参加して

厳かに執り行われている

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