石垣永将は名門嘉善姓一門四代目である
父は長くジトゥデ(地頭代;村長)を務めた石垣永正と
側室との次男として 1580年生まれた
童名は保久利思
嘉善姓家譜(系図)によると
永将は幼児期から優秀で
清国 留学や交易で海外に行き来し
当時の国際情勢に精通していたとある
当時の石垣島は 石垣間切、大浜間切
宮良間切に区分されていた
1611年に永将31歳の時
宮良間切(村)のジトゥデ(地頭代;村長)任命され
宮良ペーチン(親雲上)永将と呼ばれた
1624年石垣島富崎の沖にスペイン船が漂着した
遭難した船にスペインドミニコ会から
宣教師として派遣された
ファン・ロス・アンヘレス・ルエダ神父が乗船していた
永将は船員とルエルダ神父を自宅に招き手厚く世話し
日用品や食料与え 牛10頭を与えた
永将はルエルダ神父が熱く語る
キリスト教の教養を知り
世界的宗教であると悟り
国禁と知りつつ信仰したのである
八重山島年代記によると隣村の
石垣ペーチン(親雲上)信本が
永将を王府にキリシタン宗旨を奉じていると訴えた
王府は小禄良宗を派遣し査問した結果
永将は訴えどおり国禁のキリスト教を信仰していたと判明
永将は宮良ジトゥデ(地頭代;村長)職は免職
渡名喜島へ流刑 財産は全て没収
子孫は残らず波照間島、与那国島
宮古島へ流刑となった
だが後に薩摩藩の知ることになり
火刑を命じられ 流刑地 渡名喜島で
1635年に永将は
火あぶりの刑に処せられた流刑になってから
10年もの月日が経ってからの事である
後に弟もキリシタン宗旨として
三男 永弘と六男 永定も火刑に処せられた
琉球で初めてのキリシタン処刑で
これが八重山キリシタン弾圧事件で
現在まで語り継がれている
嘉善姓家譜 ・ 八重山島年代期
薩摩旧記雑録 ・ ドミニコ会殉教禄
この4つの史料から得た記録である
前回の投稿にコメント頂き有難う御座います