羽地朝秀とは、琉球国の政治家、歴史家として広く知られ
当時疲弊していた琉球を、大胆に種々の改革を断行し
国を蘇らせた人物
1609年薩摩藩の軍事による侵攻により
琉球は薩摩藩の付属国となり薩摩藩への貢納を負い
そして幕藩体制に組み込まれ、政治的独立を失う
朝貢関係にあった明王朝と薩摩藩との両属体制となった
対外的には独立国家として
なんとか琉球国体制を維持する事が出来ていた
琉球は東シナ海の中心にあって
地の利を生かしして明国や高麗、日本、東南アジア諸国との
中継交易によって琉球国として成り立っていた
その頃から西洋諸国のアジアへの進出や日本の開国
清国の解禁政策の緩和により清国の海商人は
次々と東南アジアへの進出していった
琉球の中継交易は急速に衰え国の経済は衰退していった
激変する国際情勢、グロバル化する世界
旧体制の琉球は国として機能を果たすことが出来なかった
政治は混迷し、それまでの価値観は崩れ
人心は乱れ無気力に成り国全体が疲弊し
だれもが危機感を抱いた
尚質王(1648~1668年)は疲弊している国を立て直すため
1666年に行政最高位摂政に羽地朝秀を任命した
朝秀は大和(薩摩)へ留学し三年の間に数々の学問を修めていた
帰国後、琉球国最初の国史中山世鑑(1650年)を編纂
政治・経済に精通していた羽地朝秀は大胆に数々の改革を断行する