祖父の高畑疎開日記
はじめに
父(節三)も祖父(福男)も筆まめなのは、どうもボクに文化的「遺伝」したようです。ここに連載するのは、祖父・福男(とみお)の1945年(昭和20年)6月末からの日記です。
当時、祖父は浜松市の中心街・新町(今は消えてしまって「中央何丁目」になってしまった)91番地で本屋・林泉書房を借家で営んでいました。当時、祖父は57才でした。
浜松市の中心街を焼き払った6月18日の浜松大空襲で、わが家も焼けてしまい、当時家にいた、祖父・福男と福男の妻・里子、福男の母・まつ、福男の次男・照男、福男の三女(9番目の子ども)・はるみの5人は、浜北・高畑(たかばたけ)の「まつ」の実家でまつの弟の山田堅一方の離れ(六畳一室)を借りて疎開することになりました。
当時、ぼくの父・節三は浜松工業を卒業して朝鮮で就職していました(『落葉松』第1部参照)。
祖父が文庫版の掛川報徳社発行の『報徳日記』に、6月23日から書き始めた日記を、ここに連載します。元の日記は漢字カタカナ文ですが、父・節三が1981年(昭和56年)に、ガリ版で「漢字ひらがな文」に直して小冊子で抄録・発行し親戚に配ったものを引用します。一部、句読点を加筆しました。
*1、*2 は父と私のつけた注です。
戦後70年記念連載ですが、毎日掲載して戦後71年までかかります。ご愛読ください。
祖父の高畑疎開日記 1
「 六月二十三日 曇時々小雨
今日は朝、照男*1 も手伝い、ジャガイモ掘り、次でモーターをかけて麦扱【こ】き、晝【昼】食后も引続き馬力をかけ、夕方になり小雨降出したため全員手伝ひ七時頃終了。入浴夕食。
寿(たもつ)さん*2 、小生一家四名の配給帖面を受けて来られ、早速照男に米、醤油を買はしむ。明日晝食より四名丈、別に食事を献立することにする。」
*1 照男:福男の次男
*2 寿さん:山田家の当主
注)この日は沖縄戦が三ヶ月におよぶ死闘を経て、牛島司令官が自決、日本軍の組織的抵抗が終わった日だが、日記にはその影もない。また、
当時、新聞が発行されていたのかも不明。ラジオはどうだったのか。なお、沖縄戦が公式に終わったのは沖縄日本軍が降伏調印した9月7
日だった。
はじめに
父(節三)も祖父(福男)も筆まめなのは、どうもボクに文化的「遺伝」したようです。ここに連載するのは、祖父・福男(とみお)の1945年(昭和20年)6月末からの日記です。
当時、祖父は浜松市の中心街・新町(今は消えてしまって「中央何丁目」になってしまった)91番地で本屋・林泉書房を借家で営んでいました。当時、祖父は57才でした。
浜松市の中心街を焼き払った6月18日の浜松大空襲で、わが家も焼けてしまい、当時家にいた、祖父・福男と福男の妻・里子、福男の母・まつ、福男の次男・照男、福男の三女(9番目の子ども)・はるみの5人は、浜北・高畑(たかばたけ)の「まつ」の実家でまつの弟の山田堅一方の離れ(六畳一室)を借りて疎開することになりました。
当時、ぼくの父・節三は浜松工業を卒業して朝鮮で就職していました(『落葉松』第1部参照)。
祖父が文庫版の掛川報徳社発行の『報徳日記』に、6月23日から書き始めた日記を、ここに連載します。元の日記は漢字カタカナ文ですが、父・節三が1981年(昭和56年)に、ガリ版で「漢字ひらがな文」に直して小冊子で抄録・発行し親戚に配ったものを引用します。一部、句読点を加筆しました。
*1、*2 は父と私のつけた注です。
戦後70年記念連載ですが、毎日掲載して戦後71年までかかります。ご愛読ください。
祖父の高畑疎開日記 1
「 六月二十三日 曇時々小雨
今日は朝、照男*1 も手伝い、ジャガイモ掘り、次でモーターをかけて麦扱【こ】き、晝【昼】食后も引続き馬力をかけ、夕方になり小雨降出したため全員手伝ひ七時頃終了。入浴夕食。
寿(たもつ)さん*2 、小生一家四名の配給帖面を受けて来られ、早速照男に米、醤油を買はしむ。明日晝食より四名丈、別に食事を献立することにする。」
*1 照男:福男の次男
*2 寿さん:山田家の当主
注)この日は沖縄戦が三ヶ月におよぶ死闘を経て、牛島司令官が自決、日本軍の組織的抵抗が終わった日だが、日記にはその影もない。また、
当時、新聞が発行されていたのかも不明。ラジオはどうだったのか。なお、沖縄戦が公式に終わったのは沖縄日本軍が降伏調印した9月7
日だった。