雨宮家の歴史 23 雨宮智彦の父の自分史 「『落葉松』 第3部 在鮮記 1-21 召集」
その日のことは今でも忘れられない。昭和二〇年一月二十八日、第四日曜日で休みだった。第一・第三を部長が休み、第二・第四を私が休んだが、日曜日でも現場は休日がなかったので、交替で月二回休みをとっていた。休みといっても、荒野の中に突如として現われたような工場なので、周りに家居など何もない。平南線(平壌ー鎮南浦)の岐陽駅前に、郵便局・駐在所・食堂などがちょっと集まっているにすぎなかった。鉄道線路の両側には低いリンゴの樹が連なっていた。ある休日に、そのリンゴを食べすぎて、洗面器一杯に吐いてしまったことがある。
朝食のあと、私はふとんにもぐっていた。昼前ごろだったろうか「おーい、中谷さん、工場から電話だよ」と管理人の呼ぶ声が,ドアをノックする音と共に聞こえた。寮の電話は階下(した)にあった。私は彼の言った「召集らしい」という言葉ははっきりと覚えているが、それ以後の記憶はおぼろげである。電話は総務部からで、駐在所への召集令状の受け取り方の指示であった。渡鮮するとき、既にそのときの覚悟は決めていたが、いざそうなると私は大いにあわてた。
駐在所には、朝鮮籍の巡査が令状の置かれた机を前に腰かけていた。令状は白色であった。二月十日、朝鮮第四十四部隊(平壌府)入隊、三ヶ月の教育召集であった。三ヶ月で教育が終われば臨時召集に切り替わるのは常態であったから、帰ることはあきらめねばならなかった。入隊後分かったが、アメリカ軍の上陸に備えて、南鮮に新設される野戦部隊の衛生兵要員の教育であった。
朝日新聞の夕刊の「窓」という論説委員のエッセー欄があって、昭和六十三年六月十日付に「一銭五厘」と題して召集令状のことが載った。軍隊で教育係りの班長から「貴様たちの代わりは一銭五厘で来る。しかし軍馬はそうはいかん」とどなられた。葉書が一銭五厘だったのは昭和十二年四月までのことだから、この話はそれ以前のことになるが、現役入隊者への通知が葉書だから、それと混同されたのであろう。要するに「一銭五厘」は軍隊の非人間性の象徴であった。
通常召集令状は、軍ー警察ー役所ー本人の順で渡される。私の場合は役所が抜けて警察より直接渡されたことになる。招集者の人選をするのは軍の連隊区司令部である。各府県の県庁所在地にあった。私は工場に赴任するとき、静岡連隊区にある兵籍をどうするか迷った。内地に残せば、召集の場合朝鮮海峡を渡って帰らねばならない。関釜連絡船は不定期になっていて、いつでも帰れるという保障はない。私の後輩が二人入社して赴任のため下関まで来たが、連絡船に乗られず引き返しているのである。考えた末、兵籍は平壌連隊区へ移すことにした。その代わり、いざという時、肉親に別れを告げることは不可能で、事実そうなってしまった。
令状を受け取ったあと、研究部に行き部長に報告した。部長は「困った,困った」を連発したが、ともかく今後の対策を相談した。後輩は渡鮮出来ず、一人になってしまうショックがあったに違いない。
入隊まで十日余りあったので余裕はあった。家へ至急電を打ち、ついでに不用な金を電報為替で送金した。いくら送ったか覚えていないが、後になって、父の八月十五日(敗戦の日)の日記に、一家の預金額が示されているのを見た。私の分として、入隊中の留守宅送金額を含めて、銀行に一、二〇〇円、郵便局に七九〇円あった。しかし、引き揚げた時、生活用として二〇〇円しか引き出せなかった。預金封鎖されていたのである。
出発の日、壮行会が社長出席のもと、工場事務所で行われた。工場の召集第一号であったから丁重であった。私も何か答辞をしゃべった筈であるが覚えていない。社長・専務以下連名の日章旗を送られたが、戦後、ソウルで米軍に接収されてしまった。宝物だったが、最近、よく新聞紙上で日章旗の返還される記事を見るので、一日千秋の思いで待っている。
私の衣類・寝具・書籍類は部長が自分の室に預かってくれた。万が一の僥倖を願ったが、それらは空しく北鮮の地に消えてしまった。誰かのお役に立っていればいいとも思う。
二月八日、日の丸の小旗を振った少年工たちに送られて岐陽の地を離れ、平壌の旅館に二泊した。会社出張所が市の中心部の寿町にあり、本社は京城、支社が東京にあった。
私は二日間、これが娑婆の見納めかと、映画を観ることにした。しかし、失望した。かって私を興奮させた「望郷」「駅馬車」「舞踏会の手帳」のごときものは一つもなく、ただドイツの戦意高揚映画だけだった。映画館内も客がまばらで寒々としていた。
私が泊まった室は三階で、暖房のスチームも余り効かなかった。入隊前夜、部長と同郷のN氏が来て会食をした。N氏はトラックの運転手で、工場へ出張して来れば、私の部屋へ泊まってしゃべり合い、無聊を慰めていた。彼は浜松市営バスの運転手だった。私は下手くそな「白頭山節」をうなった。
泣くな 嘆くな 必ず帰る
桐の小箱に 錦着て
アア 会いに来てくれ 九段坂
私に愛情を傾けた人はいなかったので気楽であったが,気楽であったが寂しくもあった。その晩、部長は一緒に泊まった。