雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

『落葉松』「文芸評論」 ⑭ 「浜松詩歌事始 前編 雪膓と子規 1」

2017年09月03日 16時23分00秒 | 雨宮家の歴史

『落葉松』「文芸評論」 ⑭ 「浜松詩歌事始 前編 雪膓と子規 1」


 Ⅲ 4 雪膓と子規 ー浜松詩歌事始 前編

 雪膓(榛原郡の生まれ、ー本名加藤孫平)が東京・上根岸の子規庵を訪ねたのは、静岡師範学校を卒業した明治(以下、年は明治を表す)三十年四月であった。その雪膓が俳句を学ばんと子規に手紙を出したのは二年前、師範学校在学中の二十八年十一月(二十才)で、子規は二十四日付けで次のような返書を送った。
 
 「お手紙拝見。未(いま)だお目見えしていませんがお元気の由何よりです。小生先月帰京しましたが病で臥せっておりましたので御返事おそくなり恐縮です。貴兄俳句を御修行のお望みで小生に添削せよとの事ですが、とても初学の私に出来るとは思いませんが、拝見の上、可否を致します。これだけは病気を押してでも致すつもりです。」(以下略。原文=候文、参照①)
 
 子規はこの二十八年に勤め先の新聞『日本』社より日清戦争に従軍記者として特派された。社長の陸羯南は、子規の身体のことを考えて反対したが本人の強い希望で押し切られ、結局、これが子規の命取りになった。子規は、野戦での不自由な生活が身に応え、五月末、満州からの帰国途中の船上で喀血(かつけつ)し、その後、須磨保養院に転院して療養に努めた。

須磨に病をやしないて   
 夏の日のあつもり塚に涼み居て
 病気なほさねばいなじとぞ思ふ            (注②)

 容態回復した八月末に松山へ帰省したが、家族は既に東京に移住(後述)していたので、松山中学校の教師だった夏目漱石の下宿へ居候して静養し、十月末大阪、奈良を廻って帰京した。大阪では腰を痛めたが、奈良では三日程滞在する間はひどくならず面白く見れた。

   柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺
 は、この時の作であるが、これを評して「柿食うて居れば鐘鳴る法隆寺」と何故いわれなかったのかと、これは尤もな説であるがかうなると稍々句法が弱くなるかと思う。」(参照③)

 帰京する子規を虚子が新橋駅に出迎えたが、歩廊を歩いて来る子規は足をひきずり顔色も悪かった。そのまま寝付いてしまった。雪膓への返事が遅れたのはその為である。翌二十九年三月に医師の診断の結果、子規の晩年を苦しめる結核性の脊髄カリエスと判った。子規はリューマチと思っていた。
 実は子規の喀血は、この時が初めてではない。六年前の二十二年五月、大学予備門生(漱石と同級)の時、本郷の旧松山藩の寮の部屋で一週間続けて毎晩五  の血を吐いた(前年の八月に鎌倉江ノ島の路上でも吐いた)。それにも拘わらず深夜一時過ぎまで「ホトトギス」に関する句を四,五十句作った。ホトトギスは口の中が赤く、鳴くと血を吐いているように見える鳥で、不如帰、時鳥、子規とも書く。この時漢詩を作り「喀血後自ラ号ス子規ト」と最後の部分に記し、自ら「子規」と号するようになっったのはこの時からである。

  卯の花をめがけてきたか時鳥
  卯の花の散るまで啼くか子規

 子規は卯年であった。この時の医師は「肺結核」と診断し絶対安静を命ぜられた。当時結核といえば不治の病いで子規にとってもショックであったが、若さと負けん気に詩歌の革新に立ち向かったから結核菌は脊髄を侵すようになった。
 この夏、静養のため松山へ帰省した。東海道線が神戸まで全通したので汽車の旅であったが、案外汽船より疲れると言って途中必ずどこかへ途中下車して一,二泊した。この時は静岡、岐阜であったが、冬に新春を松山で迎えた時は、従兄の藤野古白と同道し、大磯、浜松へ泊まった。浜松の旅館は不明であるが、「町を散歩して市中のことごとくの家の軒端が傾斜していることに気づく」と日記に記している。これは城下町の名残の古い家であろう。

 子規はもう一度、羯南のすすめで母と妹を呼び寄せる為、西下した二十五年十一月九日に浜松に一泊した。この時は「花屋」へ泊った。当時、浜松で大きな旅館は「花屋」と「大米屋(おおこめや)」で、伝馬町に隣り合っていたがこの年の三月に連尺町の入枡(いります)座(芝居小屋)からの出火で市の大半を消失する大火があり、両旅館とも消失してしまった。二軒ともその後、浜松停車場前通りに移り、大米屋は現在の中央郵便局の東側へ、花屋は向かい合った道路の南側に居を構えた。(『浜松百話』静岡新聞社)

 子規の泊まったのは新築旅館であったが、
   傾城の噺ときるる夜長かな
の一句を詠んでいる。(「日記」25・11・9)

   馬通る三方原や時鳥
 (『日本』28・7・23「陣中日誌」)

   天の川浜名の橋の十文字
(『早稲田文学』29・2・15付「橋    百句のうち」)

 「三方原」は神戸入院中で結びつきが今一つはっきりしないが、雪膓は法月(のりづき)歌客(東京日日新聞浜松通信部長で「谷島屋タイムス【注④】」編集主任)との対話【注⑤】で「想像の作だ」と言っている。「天の川」の句は大正十四年七月五日,弁天島に於て虚子を招いて、句碑除幕式と句会を行った。この句会席上で虚子と雪膓との大論争があった。

 浜松に関する子規の三句は、虚子の『子規句集』(昭和十六年)には「天の川」の一句しか載っていない。

 叔父(母の弟)加藤恒忠(拓川)を頼って十六年に松山中学を中退して上京、大学予備門生となった子規を、拓川が旧松山藩の給費生としてフランスに留学することになったので、司法省法学校以来の同志「日本」新聞社主の陸羯南に子規の身元を頼んだ。子規の生涯にとって羯南との出会いは良い意味で、その一生を支配される重要な一点となった。

 羯南より「お出でなさい」と言われ、大学を中退して月給十五円(のち四十円)『日本』社員として二十五年十二月入社した。家も羯南の隣の借家を世話され、母妹を松山より呼び寄せて生活の安定を図った。羯南にとって子規の病気や生活の不安定が心配だったのである。これで落ち着くと思った。

 翌二十六年二月三日、新聞『日本』の片隅の「文芸」に俳句欄(のち短歌にも拡大)が設けられ、これこそが近代俳句、短歌革新の確立原点となるものとなった。

 子規が俳句を始めた頃は芭蕉一派の俳句を手本としていた。ある日の句会で蕪村の句が巧いという話が出たが、蕪村は南画の大家として知られ、俳句はあまり知られず句集が手に入らなかった。二十六年四月に片山桃雨が蕪村の句の僅かばかり書き集めた写本を探し出して来たので、子規は硯を桃雨に送った。

 行く春や硯に並ぶ蕪村集 (子規)

 蕪村句集講義が始まり、二十七年、画家中村不折との出会いは、写生風詠を基調とする俳句を広げた蕪村への理解が急速に増した。天明期俳人中最高の存在とし、その特質を「詩趣に於て変化自在を極めたるのみならず句法けい抜(他よりすぐれている)しゅう練(よく練れている)善く其詩趣に副いたるが如き空前絶後の一人」と評した(注⑥)。


< 続く >



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