雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

雨宮家の歴史 22 「『落葉松』 第3部 在鮮記 1-20 軍需工場」

2014年06月11日 20時36分53秒 | 雨宮家の歴史

  第三部 在鮮記

  Ⅰ 20 軍需工場

 大正十五年十二月二十五日、大正天皇が崩御した。

 「地にひれ伏して あめつちに
  祈りしまこと いれられず
  日出ずる国の くにたみは
  あやめもわかぬ 闇地ゆく」

  こんな御大葬の歌に送られて、多摩御陵に葬られ、「昭和」の御代となった。
  「昭和」という年号は、中国の『書経』に出ている「万物協昭明 万邦協和」からとった。国民の幸福と世界平和を実現するという意味である(三国一朗『証言 私の昭和史1』旺文社文庫)。しかし、国民の幸福は絵に描いた餅にすぎず、平和どころか、戦争、戦争の連続であった。

  満州事変(昭和六年)、上海事変(昭和七年)、盧溝橋事件(昭和十二年)に始まる日中の衝突はますます拡大して、初和十六年には米英を相手とする太平洋戦争となった。思えば、反昭和としか言いようがなかった。

  昭和二十年八月の敗戦を境とすれば、前半の二十年と後半の五十年が同じぐらいの長さに私には感じられた。戦後の五十年はアッという間に過ぎ去ってしまったが、戦前の二十年は、なかなか前へ進んでくれなかった。「あやめもわかぬ闇地ゆく」の如く、昭和前半は暗い時代であった。それは少年時代に私の見た真っ黒なかたまりと同じく、暗い、色にたとえれば黒という感じの「欲しがりません勝つまでは」のいやな時代だったからに他ならない。
 その暗さを象徴するように、私はそのころ、朝晩、漆黒の夜空にまたたく星空の下を、工場に往復する日々を続けていた。

  「  辞令  中谷節三
  技手補ニ任用シ月給六拾七円ヲ給ス
  岐陽工場勤務ヲ命ズ
    昭和十九年九月六日
   朝日軽金属株式会社」

  岐陽工場は、当時の朝鮮平安南道江西郡東津面(村)岐陽里(字)に建設中であった。現在の朝鮮民主主義人民共和国の首都平壌の近くであった。私はこの辞令を受けて朝鮮海峡を渡り、帰国したのは昭和二十一年五月であった。足かけ三年に過ぎなかったが、敗戦による日本権力の撤退という激動した朝鮮半島の実態を見聞したことは、私の人生にとって大変貴重な体験であった。
  昭和十九年秋には、サイパン島の玉砕により東条内閣が退陣し、国民生活に明るさは見られなくなった。旅行も軍公務優先のため、汽車に乗るのも切符が手に入らず楽ではなかったし、長距離旅行には証明書が必要であった。

  浜松から工場のある岐陽まで、連絡船を含めて二等の通しで九十円ぐらいであった。国内では急行に乗れず、普通列車を京都で夜半急行に乗り換えて、翌朝下関に着いた。埠頭には関釜連絡船が、煙突から黒い煙をもくもくと吐きながら待っていた。

  京都で二等車に同席したのは、白い麻の服にパナマ帽の年配の紳士であった。この決戦下、男子は国民服に国民帽、ゲートル姿でなくては旅行できないのにおかしいなと思ったが、注意もされなかったことを考えると、軍関係の人だったのかも知れない。北京までと言っていたが、船は一級上の階級に乗るのが常識と、若い私を諭して連絡船の一等船室へのタラップに消えて行った。

  関釜連絡船は、前年の十八年十月に「こんろん丸」が米軍の潜水艦より魚雷攻撃を受けて沈没し、五百余名の犠牲者を出す大惨事に見舞われていた。私にとっては関釜連絡船による渡鮮は、昭和十四年の鮮満修学旅行以来五年ぶりのことである。あのときは、夜行便の三等で船倉であったから、満員で暑くて眠れなかった。今度は二等で甲板上であり、ゆったりとした秋日和にも恵まれて、穏やかな航海であった。救命胴衣をつけての避難訓練が船員の指導で行われながら、夕方釜山港に入った。秋の陽はつるべ落としで、すぐ暗くなってしまった。

  桟橋の釜山港駅には、三本の急行列車が待機していた。十八時発の北京行き(あのパナマ帽の紳士はこれに乗ったのであろう)、十九時二十分発の京城行き、私は最後の二十時三十分発のハルビン行きに乗るのであるが、どれか分からず、暗くなった構内のレールをまたいで、ハルビン行きを探した。プラットフォームはなかった。線路は広軌なので車体も大きく、席が一椅子二人分空いていた。翌朝まで一人で横になって寝られたことは珍しいことであった。

  京城で朝となり、日中は混んできて、立っている人も出てきた。平壌には十六時頃着いた。鎮南浦行の平南線に乗りかえて、岐陽に着いた時は真っ暗であった。正味三日間の途中下車なしの一人旅は終わった。

  朝日軽金属は、アルミニウム製造の日本軽金属と同列の古川系の会社で、金属マグネシウムを造るために、岐陽工場を建設中であった。両方とも航空機材料の軽合金ジュラルミンの原料である。生産量は年三十万トンであった。

  昭和十九年二月、トラック島・サイパン島・テニアン島は米軍空母十隻をもって攻撃され、海軍は航空機の大半を失ってしまった。サイパン島上陸の前哨戦である。連合艦隊司令長官古賀大将は、ジュラルミン獲得交渉のため、戦艦「武蔵」に乗って東京へ急行した。ジュラルミンは陸軍六割、海軍四割の比で使っていたが、もっと海軍側に増強するよう交渉した。しかし、陸軍は頑として応じなかった。

  ここにいわゆる「竹槍事件」が発生した。「毎日新聞」が社説に「竹槍では間に合わぬ、飛行機だ、海軍飛行機だ」と書いたのである。これを見た東条首相は激怒し、その記事を書いた記者を陸軍に召集してしまった。東条の退陣とともに、その記者は召集解除となったが、お粗末な首相であり、陸海軍間の対立は、戦局にも影響を及ぼし兼ねなかった。

  岐陽工場は、軍需工場(戦争に必要な武器・弾薬・航空機・車両・その他を製造する)に指定されていた。金属マグネシウムを作るには、アルミニウムと同じように工程が複雑で、電解槽や電化炉を必要とし、多量の電力を消費した。そのために鴨緑江の水豊ダムを水源とする豊富な電力を使用する金属精錬工場が、平壌近辺に集中していた。昭和十九年現在、日本のマグネシウム製造能力は一万トン逢ったが、生産量は半分の五千トンにすぎなかった。岐陽工場の設備能力は五千トンであったから、折からの航空機増産の期待に応えるため、突貫工事にかかっていた。そのため建設労働者がストを起こしたほどであったが、軍当局の期待は大きかった。

  昭和十五年三月に県立浜松工業学校色染仕上科を卒業した私は、五年生の夏のときに身体をこわしたので学校に残り、助手をしていた。戦時色が強まるとともに、色染科は工業化学科に改編されて、私は化学分析の実習を担当していたが、科長をしていたI先生が、朝日軽金属の研究部長に就任し、私にも入社を勧めたのである。先生は既に十九年の六月に渡鮮していた。

  私は十八年に二十歳となり、徴兵検査を受けた。第三乙種の第二補充兵で召集を待つ身であった。しかし、学校の助手という公務のせいか、一年経っても召集はなかった。

  一八年の秋、最後の親孝行をと思って、母を連れて伊勢・奈良を廻る旅行に出た。決戦下で旅行も制限されていたが、旅館も汽車も満員でサービスも悪かった。帰途、近鉄奈良線から東海道線に乗り換える京都駅で母を見失ってあわてたが、駅の拡声器で放送してもらって、無事出会うことが出来た時は旅の終わりであった。

  軍需工場は召集を考慮(免除ではない)されるという先生の言葉を信じ、母の「そんな遠くへ行かなくてもよかろうに」という言葉を背に負って私は渡鮮した。しかし、先生の言葉など関係なく、着任四ヶ月で私は岐陽工場の召集第一号者となる皮肉な運命に見舞われて悲嘆にくれたが、敗戦時に南朝鮮に駐屯していたので、幸運なことになった。人間の一生なんて、ひとつのことでどのようになるか、全くわからないものである。

  研究部はI先生の部長と私が内地籍で、あとは全員朝鮮籍であった。「一視同仁」といって朝鮮籍の者も日本人であったが、それは建前に過ぎなかった。技師の星江允明(いんめい)氏は京都帝大理学部卒の理学博士の三十歳。当時、北鮮では最高学力者と言われていた。技手の平山氏は、東京工業大学分析化学技術員養成所出身の二十五歳。二人とも両班(やんばん)(日本の貴族に当る上流階級)の出身であった。星江も平山も、創氏改名による日本名で、本当は立派な族譜を持つ朝鮮名がある筈である。

  いつもお昼になると、星江氏の神戸女学院出身のきれいな奥さんが弁当を持って現われる。それを見て、I部長と私は工場の食堂へ出かけるのであった。

  私は技手補で、少年工の養成係であった。職員はこの四名で、他に内地の工場で研修を済ませ、標準語のペラペラな分析工が五・六名いた。他の課に日本語のうまくない人がいて、朝鮮籍かと聞いたところ、鹿児島出身で九州弁であった。

  私の教える少年工は小学校を卒業したくらいの子供で、雨が降っても傘は無く、周辺の山村から濡れて歩いてくる子供が殆どで、首すじをシラミがはい廻っていた。化学の方程式など教えても、どこまで分かるのかと首をかしげることが多かった。私は、餞別代わりに送られた千人針を腹巻きにしていたので、それにシラミの卵をビッシリと生み付けられて、悩まされることになった。入隊した軍隊でも,シラミは付いて廻った。

  毎朝七時に工場の広場で朝礼が行われた。北鮮の冬の朝七時はまだ夜が明けない。寮の玄関で朝五時に総務部長の打ち鳴らす太鼓の音で起されて、朝食もそこそこに工場にかけつけねばならなかった。寮から工場まで、歩いて四〇分かかった。生産現場は二交代制だったが、研究部は夕方六時まで仕事をした。日はもうとっぷり暮れて、帰りもまた星空であった。昭和を象徴する黒色の感覚そのものであった。

  朝礼では、社長の陣頭指揮のもと「皇国臣民ノ誓詞」を斉唱せねばならなかった。

 「一ツ、我等ハ皇国臣民ナリ
      忠誠以テ君国ニ報ゼン」
二ツ、我等皇国臣民ハ 互ニ信愛協力シ
      以テ団結ヲ固クセン
我等皇国臣民ハ 忍苦鍛錬力ヲ養ヒ
      以テ皇道ヲ宣揚セン」

  この「誓詞」を奉唱し、社長の訓示が終わる頃、漸く空が明けてくる。一番寒さのきびしい時である。北鮮は雪は少ないが、防寒帽から眼だけを出していると、寒気で涙がまつ毛に凍りついて、眼をしばたくとパリパリ音がする。零下二十度ぐらいであった。

  年末の二十八日、突貫工事で行われた作業により、やっと創業にこぎつけ、金属マグネシウムのインゴット(延べ棒)第一号が大型電化炉から出炉した。金の延べ棒と同じである。軍関係者などが参集して盛大な祝賀会が行われたが、その日は北鮮でも異例な零下二十八度という最悪の日であった。

  中国の米軍基地からのB29による空襲が、満州の鞍山・昭和製鋼所や、北九州の八幡製鉄所などに及び始めたことなどから、戦局は容易ならざるもののようであった。

 


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