『落葉松』「文芸評論」 ㉕ 「浜松詩歌事始 後編 大正歌人群 4」
私の手許に『アララギ』の昭和十九年九月、二十年十月(戦後復刊二号)、十一月、十二月、二十一年一月、二月の六冊がある。惜しむらくは復刊一号の二十年九月の見当たらぬことである。その復刊一号の編集所便(文献③)に文明が「十九年十二月号を二十年三月に発送したのち、本号(二十年九月)まで休刊の止むなきに至った」と言っている。
空襲による編集所、印刷屋、歌稿などの消失により、二十年一月号より八月号まで八冊欠号となったのである。世相の混乱している戦後の最中、たとえ仙花紙(編注②)とはいえ九月から発刊し得たということは、関係者の並々ならぬ努力があったと思う。文明は「アララギも相当古くなったから、会員諸君がこの辺で新しい方面を学び取る努力を怠れば、腐ってしまうかも知れない」と、戦後の出発に当たり、既にアララギの行末を見据えているかの如き発言をしていることは注目すべきである。
復刊二号の二十年十月号も仙花紙八頁であるが、「私案としては、地方のアララギ会というものが十分に文化的役割を果たし得るように地方会員が進んで勉強して欲しいことである。新しい任務があるのではあるまいか」と、従来エリート選者による中央集権的な感があったアララギとしては地方分散を考え「地方会員諸君が自ら研鑽の機会を多く持つようにされたい。連絡先としてさし当たり次の諸氏を煩わしたい」と画期的な提言をして、全国を十四の地区に分け静岡地方は張間(はりま)喜一(県静岡工業試験場長)を指名した。それに応えて張間は『静岡県アララギ月刊』を二十一年十月創刊した。
当地の戦後の動きを福男の日記に見る。
「(二十年十一月十日) 柳本先生ヨリ書信 新町通リニテ小生疎開先ヲ探シ中ノ紙谷庭太郎氏ニ会ス 犬蓼廻冊再興ニ就テオ話シアリ又柳本先生ノ書信モ当地ノ消息ヲ伝ヘ十五日マデニ歌稿送レトノ事ナリ
(二十一年四月三日)小松(編注③)ノ池谷(宗観)宅ニテ犬蓼短歌会。城西、紙谷、鈴木、寺田、太田進一、加山、野中みさを、池谷、素小生。
(二十一年八月九日)午後一時追分小学校ニテアララギ歌会。城西、庭太郎、大竹玄吾、加山、鈴木(旧上村)、池谷、斉田、松山夫人、井口、安中、中谷」
安中新平が追分の校長だった関係があるが、戦後初のアララギ短歌会だったのではないか。
『谷島屋タイムス』には年次不明の次のような記事がある。
「浜松アララギ歌会、中谷福男の尽力によって創立の運びに至る。十二月三日午後六時より元城町江見定則方(家康鎧掛松裏通り)にて開催す。連尺町博文舎内 中谷福男」
博文舎は谷島屋書店の古書部で谷島屋が改築する昭和十三年まで会ったから、十一、二年頃ではないかと思うが意外に遅かった。集った人達も不明である。
戦後の二回目は、翌二十二年の四月二十七日、同じく追分小学校で開かれた。
『アララギ』二十一年一月号になると、仙花紙ではあるが四十頁に増えて、岡麓が巻頭を飾り、茂吉、文明と続き投稿歌も載り始めた。同号で注目すべきは「写生論発表のために」(杉浦明平(編注③))の一文である。
「短歌は戦争中に国民の生活と感情とを比較的正しく表日した唯一のものであった。恐らく渡辺直己(なおき)の歌が文章として発表されたら直ちに発禁は免れぬ運命であったろう」
映画監督の小津安次郎が「お茶漬けの味」で、出征兵士をお茶漬けで送るとは何事かと不許可になった時代である。直己の歌は『支那事変歌集』(文献④、昭和十五年)に九十六首載っている。
黒部峡に召集受けし感動が
疲れし夜は浮び来るかも
涙拭ひて逆襲し来る敵兵は
髪長き江西(かんしい)学生軍なりき
編者の文明が「公表がはばかるものがあるので削った」という幾つかの歌がある。
命令を持ちゆかん心決すれど
軍の人間物品化に思ふ
憤ほろしき心わきくる夕暮に
反戦主義の語をおもひたり
なお、この歌集に城西としては異彩と思われる歌二首を見る。
旗の先にアイスカクテル括りつけ
過せる列車の兵にとらしむ
還りける小川部隊に君はなし
かなしきかもよその遺骨さへ
< 続く >