雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

『落葉松』「文芸評論」 ⑮ 「浜松詩歌事始 前編 雪膓と子規 2」

2017年09月04日 16時04分30秒 | 雨宮家の歴史

『落葉松』「文芸評論」 ⑮ 「浜松詩歌事始 前編 雪膓と子規 2」


 Ⅲ 4 雪膓と子規 ー浜松詩歌事始 前編 【その2】


 しかし芭蕉との出会いも並々ならぬものがあり、その敬愛の念は終生変わることはなかった。

 「五月雨ヲアツメテ早シ最上川 芭蕉

 此句俳句ヲ知ラヌ内ヨリ大キナ盛ンナ句のヨウニ思ウタノデ今日迄古今有数ノ句バカリ信ジテ居タ今日フト此ノ句ヲ思ヒ出シテツクヅクト考ヘテ見ルト「アツメテ」トイフ語ハタクミガアッテ甚ダ面白クナイソレカラ見ルト
  五月雨ヤ大河ヲ前ニ家二軒 蕪村
 トイフ句ハ遙カニ進歩シテ居ル」(注⑦)

 以下、両者の句を参考ながら並べて見る。
  閑さや岩にしみ入る蝉の声 芭蕉
蝉も寝る頃や衣の袖畳(そでだたみ)  蕪村
    (袖畳は和服のたたみ方)

  此道や行く人なしに秋の暮   芭蕉
  門を出れば我も行く人秋のくれ 蕪村

  旅に病で夢は枯野をかけ廻る  芭蕉
しら梅に明くる夜ばかりとなりにけり
蕪村

 三十年四月、雪膓が初めて子規庵を訪ねた時早速臨時句会が開かれ、鳴雪、碧梧桐、虚子、午体、黙語、紅緑たちを子規より紹介された。子規は雪膓を投稿句などから年輩者と思っていたが、以外に若いのに驚いた。

散る桜木の間に見ゆる羅生門 (雪膓)

 県内に生活の基盤が無かったので、殆んどその名を知られなかった池新田出身の墨水(本名ー梅沢代太郎)と号する雪膓と同年輩の子規門下の俳人がおった(注⑧)。初見は雪膓より早く二十七年九月九日子規主催の碧虚(仙台第二高等学校への)送別句会であった。

  五桐一葉落ちて声あり水の上 (墨水)

 蕪村忌句会の第一回が開かれたのは三十年十二月二十四日(この時既に子規は足が立たなかった)二十名程会し、墨水も参加し晩餐に蕪一皿、酒三杯が出された。

  蕪村忌の古硯あり埃払ひたり  (墨水)
  風呂吹をくふや蕪村の像の前 (子規)

 風呂吹というのは輪切りにした大根や蕪などをゆでて熱いうちにたれ味噌などにつけて食べる料理で、今のおでんであろうか。
 三十二年の第三回蕪村忌句会に雪膓は一泊招待されて上京し、浅草へ出かけて泊まり客は夜半三時頃まで雑談した。この時の参会者は四十六名に達し子規庵句会としては最大規模の会となった。選句二十句に対し出句九百句に達した。
 
  蕪村忌の人集まつり上根岸   (子規)

  蕪村句や蕪の句など奉る    (雪膓)
  蕪村去ってまた蕪村なし幾冬ぞ (雪膓)
  風呂吹の味噌残りけり黒き鉢  (雪膓)

  風呂吹や陶然として酒の酔   (墨水)

 墨水はこの年の二月、雪膓の「芙蓉会」の設立句会に参加しているから初対面ではない。深更まで話にはずんだことであろう。

 子規は二十八年から三十三年までに手許に送られてきた俳句を書き留めて置いて、これを「日本」などの俳句欄に掲載した。その原稿を元に昭和十二年、子規居士第三十六回忌記念として寒川鼠骨(そこつ)が巧芸社より出版したのが『承露盤』である。俳句七九四九句が収められていて、そのうち雪膓の句が七十五句ある。

二十八年秋  星一つ森に落ちたる夜寒かな
同冬  生き乍ら成仏したる海鼠(なまこ)哉
同冬  入相の鐘おもしろや冬籠(ふゆごもり)

 驚くべきことは、墨水の句が『承露盤』だけでも二百三十一句もあることである。

 二十八年冬 起きよ今朝初雪ふれる松見せん
 同冬    凩や何をののしる人のコエ
 同冬    書に臥して人の眠れる炬燵かな

 両人の投稿句数を下表に見てみる。

 子規が近代短歌革新の端緒となった「歌よみに与ふる書」を『日本』に十回に亘って発表したのは三十一年(一八九八年)の二月十二日から三月四日にかけてであった。今年平成二十年(二〇〇八年)丁度百十年になる。その間の短歌界の成長はすばらしいものがあるが、当時の歌詠みたちに与えた影響は絶大なものがあった。しかし子規の意図した所は一般歌人たちではなく、特定の人達を指していた。

 この年の二月七日付の『日本』に載った坂井久良伎(『日本』社員)編集の『新自讃歌』の第一回として当時の御歌所寄人・小出の論に対して、左千夫(後編)が万葉の古調を尊んで寄人派の歌風を非とする『非新自讃歌論』を「歌よみに…」が発表される二日前の二月十日に投稿掲載された。この論は子規の短歌革新の本質に合致するものであり、三月四日付の「十たび歌よみに…」の中で「御歌所長とて必ずしも第一流の人が座るにあらざるべく候」と批判し「歌は平等無差別なり、歌の上には老少も貴賤も無之候」と言っている。

 これより先、二十九年『日本』社長陸羯南は社員の阪井久良伎に「子規に日本の歌を教えに行ってくれろ」と頼み、久良伎は子規庵に連日通った。『古今集』『新古今集』すべて子規の気にいらないので、歌人の佐佐木信綱(『心の花』主宰)に相談した。信綱は「自分が少年の時、父(弘綱)に伴って福井へ行ってきた時貰ってきた橘曙覧(あけみ)の『志濃布廻舎(しのぶのや)歌集』がある。これはどうか」と(注⑩)。見た子規は驚嘆し、『日本』に「曙覧の歌」を「尋常に非ざるを知る」として紹介した。子規はその序文に「或人余に勧めて」と名を明かしていないが、久良伎は後に川柳作家となった。

 当初、子規は短歌は俳句の長いものだと考えていたが、その違いに気づく。「歌は全く空間的の趣向を詠まんよりは、少しく時間を含みたるを趣向を読むに適せるが如し」と『歌話』で述べている。(注⑪)

 子規を歌人として尋ねたのは岡麓(二十八才)と香取秀真(ほづま)(二十六才)の二人で、「歌よみに 」が発表された翌三十二年一月であった。二人が知り合ったのは、二十五年二月本郷弓町にあった私立「大八洲(おおやしま)学校」(国史国文学専攻)で、秀真は東京美術学校鋳金科の学生、麓は宝田通文に国漢和歌を学び、当代上代様仮名書の第一人者と言われた多田親愛に仮名書を学んでいた。書は後年、麓の生活の資となった。大八洲学校では佐佐木信綱より短歌の添削を受けていた。

 秀真は二十七年二月、佐佐木信綱の竹柏会の月例歌会に出て驚いた。上席に御歌所寄人の小出が悠然と構えていたからである。子規が後年「歌よみに 」で批判した本人であった。

 信綱主宰の『心の花』も『歌よみに 』の発表された同じ三十一年(一八九八年)の創刊で今年(二〇〇八年)で百十周年になる。その記念号が通巻千三百十七号として今年発売されたという。創刊時には、麓と秀真は編集委員となり、子規や左千夫の作品、論文、子規の病状などが創刊時に散見している。
 「心の花」より十年遅く四十一年(一九〇八年)十月に創刊された『アララギ』が、平成九年(一九九七年)十二月、第九〇巻十二号を以て九十年の幕を閉じたが、『心の花』と『アララギ』とのどこに相違があったのだろう。

 「十四日 オ昼スギヨリ 歌ヲヨミニ ワタシ内ヘ オイデ下サレ 上根岸八十二 正岡升(のぼる)」というハガキが本郷金助町一番地の岡麓三郎(麓)宅に届いた。升というのは子規の幼名で、家内では「升(のぼ)さん」と呼ばれていた。同じく香取秀真宅にも届いていて、根岸短歌会が活動し始めたのは二人が訪問した二ヶ月後の三十二年三月十四日であった。一年前の三十一年三月二十三日に第一回短歌会があったが、集まったのは、子規、虚子、碧梧桐ら俳人のみであったから、実質的には麓、秀真が参加した第二回からが「根岸短歌会」と言える。

 三十二年一月、二人が子規庵を訪ねた時、子規は寝ていた。やせてはいるが細い目の光が鋭く、白い顔、皮膚に血の気は無いが意志の強いきかん気が浮き上がっている。病人らしくないと麓は思った。(秋山加代『山々の雨』平成四年)。

 このきかん気が子規の俳句・短歌の革新運動の原動力となった。病いを克服して立ち向かった。

     【 その3へ続く 】

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