雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

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雨宮家の歴史 30 雨宮智彦の父の自分史「『落葉松』 第2部 在鮮記 1-29 回帰点、あとがき」

2014年06月23日 20時11分10秒 | 雨宮日誌

雨宮家の歴史 30 雨宮智彦の父の自分史「『落葉松』 第2部 在鮮記 1-29 回帰点、あとがき」

  I研究部長が内地に既に帰っていることは、釜山埠頭勤務中の二十一年一月頃、家からの手紙で知り安心したが、どうしてそんなに早く北鮮から帰れたのだろうという疑問はあった。その後、安養勤務隊で作業中に、私を知ったと連絡してきた岐陽工場の竹森氏と、京城の東本願寺であった彼の話と手紙により、部長の大体の動静が分かった(「27 安養勤務隊」)。

  「I氏は研究部長として、製品の分析あるいは優秀なる工員の育成に鋭意努力され、殊に六月以降はマグネ工場の一部に秘密工場を作られて、軍の作戦に寄与すべく着々準備中のところ、八月十五日の停戦となり、遂に身の危険を感ぜられ、翌十六日平壌より出発帰国されました。治安署(もと警察署のこと)においては部長を捜索されましたが、帰国後なりしため、八月二十九日夜、秘密工場建設に関与せし倉庫課のS氏を船橋里(せんきようり)治安署に留置し、峻烈なる取り調べをなしたる後、十月二十日までに無罪釈放いたしました」(原文)

  秘密工場といっても、完成したわけでもなく、塩素酸加里(爆弾の原料)を製造する装置を作るようであった。それに関与したS氏は二俣の人で、I研究部長よりの話で入社した関係より、とばっちりを食った訳であった。もし私に召集令状が来なければ、無論私がその第一人者となったであろうことは疑いない。建国妨害罪で逮捕される運命にあったことは明白であった。私が召集令状を受けたとき身の不運を嘆いたが、戦後正反対にその幸運を感謝したのはこのためである。工場の上層部は既に敗戦を予知して、社長・専務とも工場より京城本社へ引き揚げていた。

  私の入隊中、東京支社より留守宅に給料などを送って来ていたが、敗戦後は、現地の情勢を頻繁に書面で送ってくれた。その中に、I部長の帰国挨拶がある。 

  「(一部略)小生儀去ル八月二十一日終戦直後二於ケル岐陽工場ノ情況ヲ東京支社ヘ報告スルタメ出張ヲ命ジラレ、八月二十二日朝岐陽ヲ出発仕リ九月十二日漸ク東京ヘ帰着仕リ候次第ニ御座候(以下略)」

  朝鮮半島を縦貫している京義線が不通になったのは八月二十五日であるから、部長としては間一髪の脱出であった。それにしてもあの戦後の混乱期に、東京まで二十日余りで着けたということは驚くべき早さであった。部長は、君の洋傘を持って来たと言っていたが、杖か用心棒代わりにしたのであろう。竹森氏の言う八月十六日と部長の言う二十二日の違いは詮索しない。

  竹森氏は、中辻防衛課長と共に、十一月十九日自動車で平壌のゲ・ペ・ウ(編注①)本部に連行され、二十二日平壌部隊の野営演習場があった三合里(さんごうり)捕虜収容所へ入れられた。ここはソ連軍により武装解除された平壌周辺の日本兵が収容された所で、三千名の収容能力の所に、約三万四千名も入れられ、馬小屋やテント生活を強いられた。 

  ここから国共を超えた延吉やシベリアへ送られた。収容所は逃亡を防ぐため鉄条網を張りめぐらし、警戒が厳重だったが,竹森氏は成功した。朝鮮服に身をやつし,朝鮮語をしゃべれたからであろう。 

  ソ連軍は日本兵だけでなく、兵籍のない十八歳から四十五歳までの日本人男子を集めて延吉へ送った。その真意は不明であるが、十二月三十一日にソ連送りになる者以外の、北鮮関係者九百六十名、満州関係者五百名を釈放した。岐陽工場の関係者も含まれていた。厳寒期に金もなく、着のみ着のままであった。歩いたり汽車を乗り継いだりして岐陽まで帰った。引き揚げたのは二十三年である。

  藤原ていは『流れる星は生きている』の中で、延吉帰りの三名の男の実情を次のように書いている。

  「そこには見るも無惨な三人の男が雪の中をはっていた。三人は墓場から出てきた人の姿であった。どう見ても死人に近かった。耳は聞こえない、口はきけない、足は立たない。うつろな目だが、自身の身内をさがしてそれに焦点を合わせようとして、むなしくがくりと頭をたれる。着ている服の上のぼろぼろの軍隊毛布を三人ともしっかりと握っていた。土間にひきずり込んだらそこでたおれてしまった。」

  新町に引越したあと、私は東京支社ヘ帰国報告のため、上京した、I部長とは、その前に広沢の宗源院近くの自宅に伺って会っていた。会社は軍需工場だったから清算会社(会社を整理解散する)に指定され、日本橋のビルの二階の一室に居候していた。会社の寮に一泊して帰った。

  朝鮮より帰って来た年の二十一年元旦に、今上天皇は神格化を否定して人間天皇を宣言していた。五月三日には、東条元首相以下の戦争犯罪人の「極東軍事裁判」が始まった。

  私の記憶に残る幼い時の「真っ黒なかたまり」(「はじめに(記憶)」参照)は、ここにやっと取りはらわれて、暗い昭和は終わり、明るい昭和の後半が始まる。平和に戻った回帰点であった。

(編注①)「ゲ・ペ・ウ」 ソ連の国歌政治保安局の略称。裁判なしで逮捕・処刑する秘密警察。

 

 Ⅰ 戦前編 あとがき

 自分史とはいえ、祖父・父・私の三代に亘る、明治・大正・昭和前半までの中谷家の歴史を、二年間断片的に書き継いで来たが、それを一つの物語として纏めてみた。

 先生の言われる首尾一貫した信条が、果たして書かれているかどうか心配である。読む人に伝わってくれれば幸いであるが、甚だ心許ない。文章理解のため、歴史・地理的説明を多く使ったがご了承願いたい。

 平成十四年【2002年】十二月三十一日、大晦日恒例のベートーベンの「第九交響楽」の歓喜の合唱を聴きながら、筆を措く。

   (  「Ⅱ 戦後編 第4部山口県光市 Ⅱ-30 朝日延慶 」に続く )

 

 

 

 

 

 

 


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