雲は完璧な姿だと思う。。

いつの日か、愛する誰かが「アイツはこんな事考えて生きていたのか、、」と見つけてもらえたら。そんな思いで書き記してます。

維新と威信 5

2019-01-08 00:07:56 | 不思議...パワスポ寺社
次回は、その明神池の光景や、

松陰さんに届けた様々なグッズの本当の理由?とか、

そんなお話へと続いていきます(^^)

お餅食べるどーーーー!ダ━━━━(`∀´)ノ━━━━━━ッ!!




お雑煮にしちゃいまちて。

僕さん無類の雑煮好きなんですの。ええ。(●´ω`●)

と、そんな感じで昨年末からのお話の続きへと進みますの。ええ。ええ。

さて、無事にアチラ世界からの頼まれごとを全て果たすことが出来た僕は、
身も心も軽々しくなって、そのまま福岡空港へと帰ることにしたのですが、
その前に!
萩の地を守る龍神さんに一言!
今日一日の御礼とご挨拶をしようと「明神池」という所に向かいました。
再び降り出した冷たい雪の中、僕は池の近くに車を停め。外に出て。
池のほとりにある厳島神社さんへと続く、
池沿いの道をてくてくと歩いていくと.......



衝撃!のトンビ!?さんの整列が......カラスさんも......
しかも、鳥居に向かって伸びる参道的な道の手摺にズラリ.......
と、整列......その数は数えきれず。
百!?はいないかもしれませんが、何十羽と......
こんなの見たことない......というか、
神社の参道にこんなふうに綺麗に整然と並ばれたことや、
囲まれたこともなく。

「鳥居とはこのこと!?」

みたいな。
上空にもめちゃくちゃな数が集まって来ていて......





この集まり方と人への慣れ方は、もしかしたら、
この池の近所の人達が時折餌をあげたりすることがあるのでは?
とも思いましたが。経験的には、そんなことでもないと
民家が建ち並ぶ場所にこれほどの数のトンビが棲んでいたり、
集まることなどは無いように思われます。
しかし、そう思う中で僕がとても驚いたのは、
膨大な数のトンビさん達が、
参道と鳥居に向かって整列してとまっている!ということ。
その顔の向きや並び方は写真の通り全て揃っていて、
それがまた延々と鳥居のすぐ手前にまで続いているのです。
その光景はマサニ鳥肌もの!?で、
僕は少しの恐怖すら感じながら、しばしの間立ちすくんでしまいました。

「は!?はぁ、、すげぇ......
この中を?歩いていくの?......襲われる!?気配はないけど、、」

僕は止まってしまっていた足を、もう一度前に出し。
ズラリと並ぶトンビさんの目前を通り、
池のほとりにある厳島神社へと進んでいきました。
そして、拝殿に着き、賽銭を入れようとすると、今度は......



「は!?はぁぁ.......そーーー来るのですか......そーですかぁ......」

今度は鈴の真下、賽銭箱の真ん前に4匹のネコさんがいるのです。
知性ある目で?じーっと見られちゃってますけど。ええ。

「ん!?4匹!?って!?
松陰さんを中心に木戸さん、伊藤さんと......
せわしなく動く高杉さん......とか!?まさか、ね......」

と、そんな感じで終始驚かされるシメの本殿参拝を終え、
僕は池に架かる橋を渡り、
浮島に佇んでいる摂社(せっしゃ)にも寄りました。



そこでは周囲に誰もいなかったので、
最初に訪れた松陰神社の時と同様の祝詞も差し上げて。
また雪の空が割れ、陽が差し、
神々にその日一日のお礼を伝えさせていただき。
その後は池の奥の神体山の中腹にある
恵比寿さんの社(やしろ)にもお酒を届け......

「やっと、、(´・`*)ホッ......」

と。すると、僕さんは急にお腹が空いてきて、
空港に帰る前にイイ感じに和モダンしているカフェ
「晦事(ことこと)」さんに寄って。
「スパイシー萩カレー」なるものを食べちゃって。





萩焼のカップで飲むコーヒーもオツな感じで(^^)



そうして東京へお帰りマンボーとあいなったのですが、家に戻った後、
僕は改めて松陰さんのことをもっと深く勉強し直そうと、
萩の各所から持ち帰った色々なパンフレットや文献、
ネットにある様々な情報などを数日かけて読み込んでみました。

そして、そんな諸々の資料の中に、一つ、目を引かれたものがありました。

それは、倒幕運動を陽動している危険人物の一人とされていた松陰さんが、
幕府に睨まれ、萩の地で囚われの身となった時の獄中記録でした。
松陰さんは長く萩の牢獄に囚われていたようなのですが、
幕府からの直接尋問の命が下ったため、
とうとう江戸への移送が決まりました。
その時、もしかしたらこれが今生の別れになるかもしれない、と、
萩の牢獄に幾度も面会に来ていた人がいた......
という記録が残っているのです。
その、牢獄の松陰さんに幾度も面会に来ていた人とは、
他ならぬ......



松陰さんのお母さんでした。



そして、その時にお母さんが持ってきていたという物品の記録が、
長い文献の中に僅か一文だけ、こう記されていました。



「吊るし柿」



この文字を見たとき、
僕の目には何とも言えない複雑な感情の涙が溢れてきました。
あの、Mさんが読み取った「干し柿」とは、この、
お母さんが差し入れた吊るし柿のことだったのではないのか、と。
最後に吊るし紐がついたままの干し柿を買うことになったことにも
意味があったのか?と。
僕は、そんな想いに至りました。
そう言えば、松陰神社の境内にある資料館には、
松陰神社の御神体とされる、
墨で記された膨大な数の松陰さんの手紙や書物がありました。
死期を悟り、そこから意を決した様に、
獄中から肉親やお弟子さんたちに向けて、
ひたすら書き綴った沢山の筆書きの書。



「——————あれほどの量の文の墨は、筆は、紙は、
誰が差し入れていたのか.......

幾人かいるだろう。

お弟子さんや看取さんとかも、そうかもしれない。

あと、

もしかしたら.......

お母さんもその1人では.......

そうか!

裁縫セット!

そう言われたのも、

きっと、女性ならではの感性の差し入れではないか.......

それだって.......

きっと......

お母さん......

きっとそうだ。

お母さんの差し入れの品々。

それを、俺は持って行ったのか......

Mちゃんは、ちゃんと、その言葉を預かってくれたんだ。

松陰さんは、なによりもお母さんの差し入れがとても嬉しく。

ありがたく。

でも、だから一番悲しく。寂しく。そんな複雑な気持ちで......

きっと、あの品々はそういうものだったんだ.....

この世界に残ってしまっている思いを象徴する、
そんなモノモノであったのかも......

明治維新から150年。平成の終わり。

......もしかしたら、松陰さんは何かに区切りを!?......つけたくて......」



僕が萩で受け取った2019年のキーワード「維新」と「威信」は、
こんな出来事の中で、
数日が経つうちに徐々にその意味合いを表して来ました。
そして、それに合わせるかのように、
神々からの言葉も少し遅れて届けられて来ます
年をまたいで記している松陰さんと明治維新の志士達のお話は、
最後にもう一回だけ続きます(^^)


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コメント (8)
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