確かに僕は、
ある時期まで父のことがあまり好きではありませんでした。
世界で一番嫌い、というくらい、
憎しみの様な感情を持っていた時期もかなり長くありました。
その理由に関しては様々なことがあります、が、
そんな父への感情が変化してきたのはちょうど二十歳の頃だったでしょうか。
子供の頃から出たくて出たくて仕方なかった実家を出て、
大学に進み、
一人の暮らしを始めてちょうど一年が経った頃です。
ただ、そんな感情の変化も、
大嫌いだったものがすぐに好きになったり、
普通の?感情や感覚に変化したり......ということではなく。
流れてゆく時間の中で少しづつ、父のことを「認める」とか、
「理解する」という様な感情が湧き育っていったという感じで。
通常的な父と子の関係になるには、
そこから数年をかけて変化していったように自覚しています。
互いが健在なうちに、ごく真っ当な?
父と子の関係や感覚になれたということはとても幸運で幸福なことではないかと、
今ではそう思っています。
少し前の話になりますが、
日々メディアから流れてくる様々なニュースの中で、
ミュージシャンの内田裕也さんの葬儀の模様が伝えられていたことがありました。
妻であった故、樹木希林さんの後を追う様にして亡くなられた裕也さん。
僕個人としては、世代の違いなどもあり、
何か特別な思いを持っていた方というわけではなかったのですが。
その葬儀において、
喪主を務めていた裕也さんの長女の内田也哉子さんが
遺族代表として述べた謝辞には強く胸が詰まってしまいました。
正確には、
彼女が述べた言葉の見事なまでの表現力に感服してしまったということと、
その表現力と言葉の見事さ故に、
彼女と父との物語があまりに真っ直ぐに伝わってきてしまったからでしょうか。
彼女の中にある悲しい思いや遺恨。怒り。
なんとも言えない切なさ。
入り乱れる様々な感情。
そんな全てを凌駕する彼女の強さ。
そして、なぜか?
どこか「虚無感」の様なものを強く感じられたことが印象的だったのでしょうか......
以下には備忘録的な意味も含め、
その也哉子さんの謝辞を記し残しておきたく思います。
エッセイストの表現とは、かくも力のあるものなのか、と。
そんな敬意も込めて。
====================================
本日はお忙しいところ、
父、内田裕也のロックンロール葬にご参列いただきまして、
誠にありがとうございます。
親族代表として、ご挨拶をさせていただきます。
私は正直、父をあまりよく知りません。
「わかりえない」という言葉の方が正確かもしれません。けれどそこは、
ここまで共に過ごした時間の合計が数週間にも満たないからというだけではなく、
生前、母が口にしたように
「こんなにわかりにくくて、こんなにわかりやすい人はいない。
世の中の矛盾をすべて表しているのが内田裕也」
ということが根本にあるように思えます。
私の知りうる裕也は、いつ噴火をするかわからない火山であり、それと同時に、
溶岩の狭間で物ともせずに咲いた野花のように、
清々しく無垢な存在でもありました。
率直に言えば、父が息を引き取り、冷たくなり、棺に入れられ、熱い炎で焼かれ、
ひからびた骨と化してもなお、私の心は、涙でにじむことさえ戸惑っていました。
きっと、実感のない父と娘の物語が、
はじまりにも気付かないうちに幕を閉じたからでしょう。
けれども、今日、この瞬間、目の前に広がる光景は、
私にとっては単なるセレモニーではありません。
裕也を見届けようと集まられたお一人、お一人が持つ、父との交感の真実が、
目に見えぬ巨大な気配と化し、この会場を埋め尽くし、ほとばしっています。
父親という概念には、到底、おさまりきらなかった内田裕也という人間が叫び、
交わり、噛みつき、歓喜し、転び、沈黙し、
また転がり続けた震動を、皆さんは確かに感じ取っていた。
「これ以上、お前は何が知りたいんだ」
きっと、父もそう言うでしょう…。
そして、自問します。私が唯一、父から教わったことは、何だったのか?
それは、たぶん、大げさに言えば、
生きとし生けるものへの畏敬の念かもしれません。
彼は破天荒で、時に手に負えない人だったけど、ズルイ奴ではなかったこと。
地位も名誉もないけれど、
どんな嵐の中でも駆けつけてくれる友だけはいる。
「これ以上、生きる上で何を望むんだ」
そう、聞こえてきます。
母は晩年、自分は妻として名ばかりで、夫に何もしてこなかった、
と申し訳なさそうに呟くことがありました。
「こんな自分に捕まっちゃったばかりに…」
と遠い目をして言うのです。そして、半世紀近い婚姻関係の中、
折り折りに入れ替わる父の恋人たちに、あらゆる形で感謝をしてきました。
私はそんな綺麗事を言う母が嫌いでしたが、彼女はとんでもなく本気でした。
まるで、はなから夫は自分のもの、という概念がなかったかのように。
勿論、人は生まれもって誰のものでもなく個人です。
歴とした世間の道理は承知していても、
何かの縁で出会い、夫婦の取り決めを交わしただけで、
互いの一切合切の責任を取り合うというのも、どこか腑に落ちません。
けれども、真実は、母がその在り方を自由意志で選んだのです。
そして、父もひとりの女性にとらわれず心身共に自由な独立を選んだのです。
2人を取り巻く周囲に、これまで多大な迷惑をかけたことを謝罪しつつ、
今更ですが、このある種のカオスを私は受け入れることにしました。
まるで蜃気楼のように、でも確かに存在した2人。
私という2人の証がここに立ち、
また2人の遺伝子は次の時代へと流転していく...。
この自然の摂理に包まれたカオスも、なかなか面白いものです。
79年という永い間、父がほんとうにお世話になりました。
最後は、彼らしく送りたいと思います。
Fuckin’ Yuya Uchida, don’t rest in peace. Just Rock’n Roll !
2019年4月3日
喪主 内田也哉子
====================================
時々、自分の中に父の姿を見るときがあります。
それは決まってキライだった父の姿であったりします。
ただ、僕というちっぽけな個人のことで言えば、
人生を進んで行くに従って父の思いや努力に気付かされて来たのも事実で。
学生時代はコッピドク喧嘩をしていたのに、
社会人になってからは親子以上に?仲良くやっています。
不思議なものです。
父は鉄工業を営んでいたので、
実家には中庭を挟んで自宅より大きな工場があります。
幼い頃の僕にとってその工場は絶好の遊び場でもあり、そんな感覚は、
今でもガレージなどで工具を握るとよみがえってきます。
工具を使って何かをしている時の自分も、
もしかしたら父に似ている?のかもしれません。
ある時期まで父のことがあまり好きではありませんでした。
世界で一番嫌い、というくらい、
憎しみの様な感情を持っていた時期もかなり長くありました。
その理由に関しては様々なことがあります、が、
そんな父への感情が変化してきたのはちょうど二十歳の頃だったでしょうか。
子供の頃から出たくて出たくて仕方なかった実家を出て、
大学に進み、
一人の暮らしを始めてちょうど一年が経った頃です。
ただ、そんな感情の変化も、
大嫌いだったものがすぐに好きになったり、
普通の?感情や感覚に変化したり......ということではなく。
流れてゆく時間の中で少しづつ、父のことを「認める」とか、
「理解する」という様な感情が湧き育っていったという感じで。
通常的な父と子の関係になるには、
そこから数年をかけて変化していったように自覚しています。
互いが健在なうちに、ごく真っ当な?
父と子の関係や感覚になれたということはとても幸運で幸福なことではないかと、
今ではそう思っています。
少し前の話になりますが、
日々メディアから流れてくる様々なニュースの中で、
ミュージシャンの内田裕也さんの葬儀の模様が伝えられていたことがありました。
妻であった故、樹木希林さんの後を追う様にして亡くなられた裕也さん。
僕個人としては、世代の違いなどもあり、
何か特別な思いを持っていた方というわけではなかったのですが。
その葬儀において、
喪主を務めていた裕也さんの長女の内田也哉子さんが
遺族代表として述べた謝辞には強く胸が詰まってしまいました。
正確には、
彼女が述べた言葉の見事なまでの表現力に感服してしまったということと、
その表現力と言葉の見事さ故に、
彼女と父との物語があまりに真っ直ぐに伝わってきてしまったからでしょうか。
彼女の中にある悲しい思いや遺恨。怒り。
なんとも言えない切なさ。
入り乱れる様々な感情。
そんな全てを凌駕する彼女の強さ。
そして、なぜか?
どこか「虚無感」の様なものを強く感じられたことが印象的だったのでしょうか......
以下には備忘録的な意味も含め、
その也哉子さんの謝辞を記し残しておきたく思います。
エッセイストの表現とは、かくも力のあるものなのか、と。
そんな敬意も込めて。
====================================
本日はお忙しいところ、
父、内田裕也のロックンロール葬にご参列いただきまして、
誠にありがとうございます。
親族代表として、ご挨拶をさせていただきます。
私は正直、父をあまりよく知りません。
「わかりえない」という言葉の方が正確かもしれません。けれどそこは、
ここまで共に過ごした時間の合計が数週間にも満たないからというだけではなく、
生前、母が口にしたように
「こんなにわかりにくくて、こんなにわかりやすい人はいない。
世の中の矛盾をすべて表しているのが内田裕也」
ということが根本にあるように思えます。
私の知りうる裕也は、いつ噴火をするかわからない火山であり、それと同時に、
溶岩の狭間で物ともせずに咲いた野花のように、
清々しく無垢な存在でもありました。
率直に言えば、父が息を引き取り、冷たくなり、棺に入れられ、熱い炎で焼かれ、
ひからびた骨と化してもなお、私の心は、涙でにじむことさえ戸惑っていました。
きっと、実感のない父と娘の物語が、
はじまりにも気付かないうちに幕を閉じたからでしょう。
けれども、今日、この瞬間、目の前に広がる光景は、
私にとっては単なるセレモニーではありません。
裕也を見届けようと集まられたお一人、お一人が持つ、父との交感の真実が、
目に見えぬ巨大な気配と化し、この会場を埋め尽くし、ほとばしっています。
父親という概念には、到底、おさまりきらなかった内田裕也という人間が叫び、
交わり、噛みつき、歓喜し、転び、沈黙し、
また転がり続けた震動を、皆さんは確かに感じ取っていた。
「これ以上、お前は何が知りたいんだ」
きっと、父もそう言うでしょう…。
そして、自問します。私が唯一、父から教わったことは、何だったのか?
それは、たぶん、大げさに言えば、
生きとし生けるものへの畏敬の念かもしれません。
彼は破天荒で、時に手に負えない人だったけど、ズルイ奴ではなかったこと。
地位も名誉もないけれど、
どんな嵐の中でも駆けつけてくれる友だけはいる。
「これ以上、生きる上で何を望むんだ」
そう、聞こえてきます。
母は晩年、自分は妻として名ばかりで、夫に何もしてこなかった、
と申し訳なさそうに呟くことがありました。
「こんな自分に捕まっちゃったばかりに…」
と遠い目をして言うのです。そして、半世紀近い婚姻関係の中、
折り折りに入れ替わる父の恋人たちに、あらゆる形で感謝をしてきました。
私はそんな綺麗事を言う母が嫌いでしたが、彼女はとんでもなく本気でした。
まるで、はなから夫は自分のもの、という概念がなかったかのように。
勿論、人は生まれもって誰のものでもなく個人です。
歴とした世間の道理は承知していても、
何かの縁で出会い、夫婦の取り決めを交わしただけで、
互いの一切合切の責任を取り合うというのも、どこか腑に落ちません。
けれども、真実は、母がその在り方を自由意志で選んだのです。
そして、父もひとりの女性にとらわれず心身共に自由な独立を選んだのです。
2人を取り巻く周囲に、これまで多大な迷惑をかけたことを謝罪しつつ、
今更ですが、このある種のカオスを私は受け入れることにしました。
まるで蜃気楼のように、でも確かに存在した2人。
私という2人の証がここに立ち、
また2人の遺伝子は次の時代へと流転していく...。
この自然の摂理に包まれたカオスも、なかなか面白いものです。
79年という永い間、父がほんとうにお世話になりました。
最後は、彼らしく送りたいと思います。
Fuckin’ Yuya Uchida, don’t rest in peace. Just Rock’n Roll !
2019年4月3日
喪主 内田也哉子
====================================
時々、自分の中に父の姿を見るときがあります。
それは決まってキライだった父の姿であったりします。
ただ、僕というちっぽけな個人のことで言えば、
人生を進んで行くに従って父の思いや努力に気付かされて来たのも事実で。
学生時代はコッピドク喧嘩をしていたのに、
社会人になってからは親子以上に?仲良くやっています。
不思議なものです。
父は鉄工業を営んでいたので、
実家には中庭を挟んで自宅より大きな工場があります。
幼い頃の僕にとってその工場は絶好の遊び場でもあり、そんな感覚は、
今でもガレージなどで工具を握るとよみがえってきます。
工具を使って何かをしている時の自分も、
もしかしたら父に似ている?のかもしれません。