晦日の年
ART&CRAFT vol.13 1999年2月10日 発行
「時」
広辞苑によると晦日は「月の第三十番目の日。転じて、月の末日をいう。尽日。つごもり。」とある。すなわち一年最後の晦日は大晦日だが、さしずめ一日の終わりは小晦日、世紀末は大大晦日となるのであろう。世紀の半ばほどしか生きていない私だが晦日は晦日払も含めて月の区切りとしてなぜか特別な日であり、ましてや大晦日となると大掃除や新年の準備等で慌ただしい。月日が変わったり、正月を迎えたからといって別段変わった事などほとんど無いので、今年は大掃除などはやめにしょうかと毎年思うのであるが、やはり例年どおり日頃出来なかった箇所を中心に入念に掃除をしている。
人種や宗教等によって差わあるものの、人類は「時」を意識的に捉えることで生きるリズムや活力を得ており、わが国のように四季として認識できる自然現象が明確でない地域で生きてきた人々も太陽や月などの星の観測や人が生まれ、そして死するという流れ等で「時」を認識して生きてきたのである。陽が沈み、陽が上る。この毎日繰返される現象が睡眠そして起床というリズムを生み出し、一日の疲れを睡眠により解消し翌日の活力とする。これは人間だけでなく、自然現象に対応して生命を維持してきた全ての生物に共通することであり、独自のリズムを形成している。
そのような生物の中でも人が集団生活を始めた頃は「自然の一部として生きる」生き方を選択したが、以後近年までは「自然を知り、自然に対抗する」生き方に方向転換してきた。その結果、集団を繋ぐ知恵として民族や地域特有の「時」を生み出し、生活の中に定着させ、「時」を過去、現在、未来という流れで認知することで、過去への反省と未来への希望そして不安を人々が持つこととなり、世界各地で、多くの正と負の遺産を営々と生み出し、それは、地域・民族特有の文化を育むことになったのであろう。ところが20世紀になると民族、地域を越えて地球制覇の野望を抱く民族が台頭し前世紀迄には経験したことのないような事態を地球規模で生み出し、今日に至るのである。その最も象徴的な国家がアメリカで、良きにしても、悪しきにしても「20世紀はアメリカの時代」と言っても過言ではないように思う。
アメリカょサヨウナラ!
生物は命を守ることで種を存続させる。このことがすなわち生きることであるが、人間はどん欲で、種を存続させるという生存欲の他に多くの欲を求める生き方を選択した。生命を維持するので精一杯のうちは、他の生物と大きく変わらないが、それが無意識の領域になると他の欲が前面に出てくる。金銭欲、物欲、権力欲、名誉欲、等々、切りがない。このように多彩な欲の中でも20世紀を代表する欲は独占欲ではないだろうか。資本主義国家と共産主義国家との戦いとも言われた今世紀は資本主義(市場主義)の勝利だといえるかもしれないが、両者の独占・独裁主義が表面化したのも今世紀だ。「時」を数値化し地球上のほぼ全ての人々が共有する「時」として、個の微妙に異なるリズムを全世界のリズムに均一化することにより世界秩序を維持する、という大義名分を皮切りにして言語、通貨、思想心情、食物、工業製品、そして人種までもが優生思想の驕りによって均一化されようとしている。
1776年のアメリカ東部13州の独立から僅か220余年の国家が通貨で象徴される経済力や軍事力による世界支配の野望に一歩近付くなどとは今世紀初頭には予想だにしなかったに違いない。同じアングロ・サクソン系でもあるヨーロッパ各国に対しては近親感は抱くものの、歴史の浅さ(時のおもさ)などで大きなコンプレックスを抱いた国が、それをバネにしてヨーロッパとは違う国家の形成に国民一丸となって突き進み、今日の繁栄をもたらしたのである。その最大の目標は「いかなる分野でもアメリカはNO.1でなければならない」という異様なまでもの優生思想が広大な国土と豊富な資源を武器にして成長させたのであろう。だが、ようやく今世紀も末になった昨今、種々のホコロビが生まれてきた。経済は旺盛な国民消費によって安定してるかに見えるが、ロシアやアジア・中南米の経済危機を切っ掛けに実体経済に即していない金融商品による金融不安が発生した。又、アメリカで生まれ育った現代美術もコンセプトと実作品の遊離を鑑賞者は感じ始め一時のブームは去った。世界警察としての威信もベトナム戦争で初めて屈辱を味わい、以後、中近東、アジアなどでも相変わらず手詰まり感を拭いされない状況にある。こうしたジレンマは経済が好調な内は表面化しないのだが経済の閉塞感が生まれると、世界にとって深刻な状況を生み出すことになるかもしれない、。NO.1で在り続けるために。
くどくどと、すでにご承知のことを述べてきたが、アメリカの全てが悪なのではない。私が言いたいのは「自分達が一番で全て正しい、だから、あなたたちも私達と同様な生き方をしなさい。」という傲慢な姿勢と「富の一極集中志向」に問題があると思う。一方で平等という言葉を使いながら均一化を求め、大量の物資を供給することにより、多大な利益を獲得する資本主義の優等生に問題があるのだ。そのような優等生による今世紀最大の功績はインターネットの開発であると思う。まだまだ安全性などに多くの問題を抱えており、私は「現代の夢の島(旧東京都ゴミ最終処分場)」と言っているが、21世紀のコミュニケーション手段として定着することに疑問の余地はない。その利点は情報公開が進むこと、選挙や国民投票などで利用することが可能になれば少数意見が反映される可能性があること。又、均一なものを大量に生産し販売する企業だけでなく特徴ある小ロット生産の物品も世界市場を相手に販売が可能となり、ユニークな企業が生まれ多種多様な商品が登場することになる。このような社会が仮に存在するとすれば、人種や地域を越えて領土を有しない国家も生まれるかもしれない。
プロト・タイプ
日本は半世紀にわたりアメリカ・ジュニアとして経済を発展させ、物質的には豊かになったが、一方で大切な文化を失いつつある。バブル崩壊後方向性を見失った20世紀型企業は合理化を合言葉に業務の整理・統合、切捨て、そして人員整理をする一方、合併・提携等で資本の集積による巨大化への道を我も我もと突き進んでいる。そうした企業の中でも世界企業として生き残れる企業はトヨタ自動車など少数で、多くは世界企業のわく枠組みの中に吸収され独自性を失うのであろう。
20世紀型企業の代表でもあるダイエーが2兆6千億円の負債を抱えて苦しんでいるが、一方セブン・イレブンの親会社であるイトーヨーカ堂は安定した経営を続けている。ダイエーは中内オーナーを頂点にしたトップ・ダウンの経営方針に基づき大型店を全国に展開すると共に多くの企業を吸収・合併して多格化を推し進めていたが、行き詰った。イトー・ヨーカ堂は利益第一主義を当初より掲げ、セブン・イレブンを代表するような小型店を全国津々浦々までチェン展開し、その情報を中央に吸い上げ商品開発と販売手法に役立てている。この相反する経営方針が世紀末に答えを出したのではないだろうか。
量販企業の生き残り策として均一商品を、いかに消費者のニーズに答えるように開発し、販売する、このような手法はダイエーであれイトーヨーカ堂であれアメリカ方式の範疇を越えるものではない、逆に限定した消費者ニーズに即した商品をほとんど一品生産に近い数量しか生産しないプロトタイプ(原型)方式という生産手法がヨーロッパ特にイタリアではアメリカ方式とともに現存している。大量生産、大量販売を目的とせず、各種プロトタイプ別に世界のバイヤーから注文を受け、最低生産量をクリヤーすれば生産される、同じような顔をした商品が世界中の街に溢れている中で異彩を放っているのは、これらの製品である。こうした生産方式がとれるのは優れた職人が健在であることと、創作を重んじる風土によるのでなかろうか、たぶん歴史の浅いアメリカでは不可能な生産手法である。この手法は自動車から繊維製品などほとんど全ての製品に及び、芸術家が創作した一点物の作品と同様にオリジナリティを生産者も求め、消費者は厳しい判断で商品を購入する。このことは芸術などのように生命を維持するだけであれば特段必要でないものが一部の人達の為に存在するのでなく、広く一般市民の生活の中に自然に浸透し生活するにあたって欠かせない存在になつていることを窺い知らされる。最近になつて日本企業の中でもホンダやセイコーなどがプロトタイプ方式を取り入れた商品を発売した。このような動きは企業活動だけでなくスポーツの世界でも「横浜フリューゲルス」はマリノスに吸収されたが、一部のサポターが市民チームとして再興させる努力をしている他「特定非営利活動促進法」(NPO法)が成立して千葉県鴨川市には安房ビエンナーレ協会、福島県には奥会津書房が設立されるなど全国各地でユニークな市民活動が生まれている。大企業や政府・自治体、宗教やイデオロギーに依存しない自立した団体活動の芽は21世紀には小さいながらもスクスクと育つことであろう。
来年は「晦日の年」、私達一人一人の回りに積り積った今世紀の塵や埃を払い、来るべき元旦(21世紀)を穏やかに迎えようではありませんか。 三宅 哲雄