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「二つのあかり」 三宅哲雄

2010-11-25 19:21:06 | 三宅哲雄

◆藤城吉治「利USE」作品

◆藤城吉治 「利USE」作品


◆金井一郎「あかり」作品

二つのあかり           三宅哲雄


 ART&CRAFT vol.16  200021日 発行


 「造形とはいかなるとこから、いかなる方法でも生まれるものである」と常々思っているが、実感させてくれる個展やグループ展には、あまり出会えない。


 1025日~30日にワコール銀座アートスペースで開かれた『利USE(Bottle Reuse Product)』と1217日~19日に当研究所ギャラリーで開催された『かないいちろう-ひかり-のかたろぐ』の二つのあかり展は「そうだ!こういうものづくりもあるんだ!」という思いを抱かせてくれた展覧会であった。


 どのような展覧会であろうと展示された作品からは良きにしろ悪しきにしろ作家の制作姿勢や力量がありありと感じとれるものであるが、この二つの展覧会に展示された作品からは使っている素材や手法そして制作目的などは全く異なるものの、ある共通した新鮮さとあたたかさを感じとれた。


Bottle Reuse Product

 『利USE展』を開いた藤城吉治氏は建築設計を生業とし、主として大手住宅販売会社の販売センターの設計を年間に数多くこなしている。この不景気な時代に多忙で常々「疲れた疲れた」を口癖のように話していたが、昨年の春頃であったか、いつになく元気な様子なので「どうしたのだ。元気そうだね。」と問うと、ニッコリして「実はこんな物を作っているんだ。」と見せてもらったのがこれらの作品だった。その作品は彼の住むマンションの塵捨て場に集積されている清酒や焼酎そしてワインなどの空き瓶を利用し、彼の感性で一断面をカットする。その結果、当然の事ながら瓶の上部と下部に分離され、上部はペンダントやスタンドなどの照明器具に、下部は観葉植物の鉢物や灰皿などに生まれ変わる。飲料用の瓶は生産者が消費者に商品を届ける大切な使命を負っているが消費された後はほとんど回収され再利用されることもなく塵として廃棄される。塵としてしか扱われない美しい形と色を持った瓶に一断面だけのカットという思いを加えることにより瓶という用途から解放されるが元来持っている美しさを破棄することはなく照明器具や鉢物の他に呼び鈴、小皿、等々、多様なインテリアグッズに生まれ変わることが出来た。「何で、こんなことを始めたのか?」と問うと、永年、販売センターの仕事をしていて自分は何をしているのか、という問いの中から住宅の販売が終了すれば、その役割を終え全て塵とし処理される宿命を持った販売センターの設計に従事しながら自分に出来ることは何かを考えた末に見つけ出したものが、塵の集積場所に捨てられたボトルの再生であったのだと語ったのである。彼の奥さんは「土日になるとウィークデーより早起きして生き生きとガラスを切っているんですよ。」とガラス瓶で埋まった部屋に戸惑いながらも嬉しそうに話しをしてくれた。


  私はご承知のような人間なので「何だ、ガラス瓶をただ切っただけじゃないか」と言いいながら何故か心地良さを感じたのである。最近は環境に配慮した商品づくりをテーマにした様々なリサイクル商品が制作されているが、古紙やペットボトルで代表されるように、再び原料に戻して再度商品に生まれ変わらせるリサイクルが主流で、これらの商品化には多くのエネルギーが必要であることはすでに問題になっていることである。勿論リサイクルも必要であるが色付きガラス瓶などのように再び原料に戻して使用しにくい物もあり、これらの廃棄物をどう利用するかが議論されているが、これといって解決方法は見つかっていない。廃棄物対策は政治の問題で一市民が動いてもどうすることも出来やしない、という自己中心的な考えが大勢をしめている中で藤城吉治氏の自己主張をせず、自然に生活の中から生み出された思いを形に顕した作品は現代社会では新鮮に見え、鑑賞者を魅了するものを持っているように思える。


ひかりのかたろぐ

 1217日~19日、当研究所ギャラリーで「かないいちろう-ひかり-のかたろぐ」展を開催した。突然の企画なので多くの来場者は無理と思っていたが、予期に反して盛会であった。当研究所にギャラリーを設けて10年はたつが、来場者の全てと言っても過言でない程多くの人々が感動した展覧会は無い。金井一郎氏は当研究所講師の友人で、その講師の紹介で始めて彼の作品を目にした時、身近な植物の持つ魅力を改めて実感させてくれる作品だなあと思った。ほおづき、はす、ユーカリ、かがいも、ひょうたん等々、私共の身の回りに存在する植物であるが、あまり重宝されているとは思えないごく普通の植物。この植物の持つ色や形に手を加えることはなく、ただ、形状固定させ、豆球を内部に入れることで通常太陽光などによる外光の認識しか知らない私共に透過光で始めて見える植物の美しさを再認識させてくれた。


 金井一郎氏は影絵作家である。私は多くを知らないので、あくまでも推測であるが彼は「ひかり」を使って自己を表現することを目的にしているとは思えない。むしろ、自然の生物に対して優しいまなざしをおくっている人ではないだろうか。人類は自然をもコントロールして都合の良いものは残し、悪いものは駆逐するという近代化の波は衰えを知らない。きれいな花が咲いている状態は歓迎するが、花が枯れ、落ち葉が散乱すると掃除が大変なので切り倒す。人間のご都合主義で多くの生物が犠牲になり自然のサイクルを破壊し続けている。こうした時代で金井氏は失われようとする植物を写真で記録保存するという仕事を続ける傍ら、影絵の制作と身近な植物の持つ美しさを「ひかり」を使って表出させることで私共が見過した自然の美しさを認知してもらうことの役にたてばと考え制作しているのかも知れない。


 藤城吉治氏は用が終われば廃棄される工業製品のガラス瓶に金井一郎氏は通常では目にも止めてもらえない植物に注目し、最小の関わり方をすることで改めてこれらの持つ魅力を表出させた。現代造形の制作手法は自己表現が柱で素材や技法を駆使して鑑賞者に強要する傾向がある。だが鑑賞者の多くに果たして作家の思いは伝わっているのであろうか?造形は「いかなるところから、いかなる方法でも生まれるものである」が、マニュアル化された造形手法によって制作している作家が残念ながら多数を占める。表に現われる形や色が異なっても、ただ慣れ親しんだ素材や技法を使って漫然と制作していても技術は向上するかも知れないが、作家にとって楽しい仕事として生涯続けていけるとも思えない。


 政治や経済など全てにおいて出口の見えない闇の社会で画一的な電脳人間が個性を求めて蠢いている。小さな「あかり」が二つ、闇の中にともった。小さくても暖かく個性的な「あかり」が又一つ、又一つと燈っていけば希望が生まれ、方向性が見えてくる。21世紀はきつと暖かい社会が形成されるであろう。

三宅哲雄