2003年7月10日発行のART&CRAFT FORUM 29号に掲載した記事を改めて下記します。
「触れてくるもの」 榛葉莟子
五月晴れはどこにいってしまったのかぐずぐずした雨模様の空を見上げていると、走り梅雨だからじきに陽が差すよと顔見知りのおばあさんの声がした。よほど浮かない顔でわたしは空を睨んでいたのだろう。じきに気は晴れるよと言われたような……おばあさんの声が笑っている。ほんとうに、まもなく向こうから灰色の雲のふちをうすい光が動きはじめ、濡れている若い緑はいっそう色を濃くし輝きを増していく。それにしてもこの季節、梅雨にはちょっと間があるこの狭間にふる雨に、走り梅雨のことばが新鮮だった。いいと思わない?このことば、と友達に言う。ああ、それって俳句の季語よ夏のね。といとも簡単に言われた。決まりごとの地点から発信されたら、ことばの周辺のケバケバは通じない。
田園に満々と水が張られ、蛙の合唱の夜を迎える。あっという間に田植えを終えた澄んだ水面に支えられ、若い苗の行列の縞模様はそよそよ揺れている。ひとつひとつの苗の影はまるで誰かが黒い紙の切り絵を貼り付けたように、澄んだ水面にくっきりと静止している。なだらかな傾斜に沿った田園を見渡せば、どこまでも淡くみずみずしい草色の面は、ふわり天女の薄布を想わせる。草の土手や道端の縁に、黄金色をちりばめていたタンポポは透けた白銀の球体となって風を待っている。今を盛りとヒメジオンは白やピンクの煙ったい花をいっぱいつけて背を伸ばしている。じきに刈られてしまうなと思ったらもう手が伸びて、長く細い茎の根本から折りとった。これもこれもの欲が、一抱え程の花束になった。今時の畦道に見られる草や花は、この曇天の空や湿り気にも似た淡さが感じられる。一滴墨を溶かし含んだようなかげりのあるアカツメクサも摘む。それにしても植物はジブンの出番を心得ているかのように、季節の度合いによく似合っていると思うことがある。あるいは詩的に感じられる植物に自分の心が近づくだけにすぎないのかもしれないが、それにしても口の大きな硝子瓶に移ったヒメジオンの束はすでに土手の花ではない。土から切り放され限られた水を吸う煙ったいものに変わった。摘むんじゃなかったとつまらない後悔を恥じた。雨が降るごとに、黙々と緑は葉を広げ成長しふと窓の向こうに眼をやれば、雨の重みか緑の繁みがこちらに迫ってくる怖さがある。このあたりが広大な森であった頃の生き残りといっては変だけれど、伐採を免れた百年は悠に越す大木ミズナラが、部屋の窓から見えるところに立っている。裸の枝々をうめ尽くす芽吹きの春、萌黄色の若葉の満開は金色の花が輝いているかのような見事な変身を見せてくれた。またヒノタマのような赤く輝く球体がいままさに誕生するかのようにミズナラの木肌にくっきりと見た息をのむ神秘の夕暮れ時がある。まさかまさか……西の空を振り向くと、いましも山の向こうに沈もうとする大きな赤い球体がぎらぎらといた。まさかまさかの気狂いじみた瞬間の経験は大体が童話じみてくる事が間々あるけれど、まさかの手前に在るのは本気であり、本気が欠けていれば内、外のスイッチはつながらないからまさかを想像できない。まさかは何事か詩的な空間の創造への空色の種だ。
田舎に住み着いた頃は森や林の中を歩き回った。形や大きさはさまざまだけれども白い花が咲く木が多いのに驚いた。植物図鑑で覚えた名前もじきに忘れてしまう頭は、しゃくにさわるのだけれども、カイモドキという名前の白い花の咲く木は、これから先も多分忘れる事はない。「かいもどきの木のしげる丘がありました。かいもどきはいつも青青とした葉をつけやさしい白い花をさかせています。風がふくと白い花びらは海の波しぶきのようにまい、しげみはよせてはかえすさざ波のようにゆれ丘はしおさいのひびきでいっぱいになるのでした…」とはじまる小さな童話に登場する白い花の咲く木にかいもどきと名前をつけた。かいもどきでなくてはならない展開なのだけれども、森の中の白い花の咲く木々に触れた経験が、その頃の関心事生命の巡りとつながり心の花を想像した。植物図鑑をいくら探してもその木が見つからないと、読者から出版社に電話があったと聞いたとき、ダイヤルを回した好奇心の人に、口の中でお礼を言った。
ていねいに生きればいいのよと、ある日知人の母上がふと漏らした何気ないことばに触れた。身体への敬意が含まれていることばの力を思った。琴線に触れてくるひとことの重みは、どんな合理主義者の説教も尻込みするにちがいない。
「触れてくるもの」 榛葉莟子
五月晴れはどこにいってしまったのかぐずぐずした雨模様の空を見上げていると、走り梅雨だからじきに陽が差すよと顔見知りのおばあさんの声がした。よほど浮かない顔でわたしは空を睨んでいたのだろう。じきに気は晴れるよと言われたような……おばあさんの声が笑っている。ほんとうに、まもなく向こうから灰色の雲のふちをうすい光が動きはじめ、濡れている若い緑はいっそう色を濃くし輝きを増していく。それにしてもこの季節、梅雨にはちょっと間があるこの狭間にふる雨に、走り梅雨のことばが新鮮だった。いいと思わない?このことば、と友達に言う。ああ、それって俳句の季語よ夏のね。といとも簡単に言われた。決まりごとの地点から発信されたら、ことばの周辺のケバケバは通じない。
田園に満々と水が張られ、蛙の合唱の夜を迎える。あっという間に田植えを終えた澄んだ水面に支えられ、若い苗の行列の縞模様はそよそよ揺れている。ひとつひとつの苗の影はまるで誰かが黒い紙の切り絵を貼り付けたように、澄んだ水面にくっきりと静止している。なだらかな傾斜に沿った田園を見渡せば、どこまでも淡くみずみずしい草色の面は、ふわり天女の薄布を想わせる。草の土手や道端の縁に、黄金色をちりばめていたタンポポは透けた白銀の球体となって風を待っている。今を盛りとヒメジオンは白やピンクの煙ったい花をいっぱいつけて背を伸ばしている。じきに刈られてしまうなと思ったらもう手が伸びて、長く細い茎の根本から折りとった。これもこれもの欲が、一抱え程の花束になった。今時の畦道に見られる草や花は、この曇天の空や湿り気にも似た淡さが感じられる。一滴墨を溶かし含んだようなかげりのあるアカツメクサも摘む。それにしても植物はジブンの出番を心得ているかのように、季節の度合いによく似合っていると思うことがある。あるいは詩的に感じられる植物に自分の心が近づくだけにすぎないのかもしれないが、それにしても口の大きな硝子瓶に移ったヒメジオンの束はすでに土手の花ではない。土から切り放され限られた水を吸う煙ったいものに変わった。摘むんじゃなかったとつまらない後悔を恥じた。雨が降るごとに、黙々と緑は葉を広げ成長しふと窓の向こうに眼をやれば、雨の重みか緑の繁みがこちらに迫ってくる怖さがある。このあたりが広大な森であった頃の生き残りといっては変だけれど、伐採を免れた百年は悠に越す大木ミズナラが、部屋の窓から見えるところに立っている。裸の枝々をうめ尽くす芽吹きの春、萌黄色の若葉の満開は金色の花が輝いているかのような見事な変身を見せてくれた。またヒノタマのような赤く輝く球体がいままさに誕生するかのようにミズナラの木肌にくっきりと見た息をのむ神秘の夕暮れ時がある。まさかまさか……西の空を振り向くと、いましも山の向こうに沈もうとする大きな赤い球体がぎらぎらといた。まさかまさかの気狂いじみた瞬間の経験は大体が童話じみてくる事が間々あるけれど、まさかの手前に在るのは本気であり、本気が欠けていれば内、外のスイッチはつながらないからまさかを想像できない。まさかは何事か詩的な空間の創造への空色の種だ。
田舎に住み着いた頃は森や林の中を歩き回った。形や大きさはさまざまだけれども白い花が咲く木が多いのに驚いた。植物図鑑で覚えた名前もじきに忘れてしまう頭は、しゃくにさわるのだけれども、カイモドキという名前の白い花の咲く木は、これから先も多分忘れる事はない。「かいもどきの木のしげる丘がありました。かいもどきはいつも青青とした葉をつけやさしい白い花をさかせています。風がふくと白い花びらは海の波しぶきのようにまい、しげみはよせてはかえすさざ波のようにゆれ丘はしおさいのひびきでいっぱいになるのでした…」とはじまる小さな童話に登場する白い花の咲く木にかいもどきと名前をつけた。かいもどきでなくてはならない展開なのだけれども、森の中の白い花の咲く木々に触れた経験が、その頃の関心事生命の巡りとつながり心の花を想像した。植物図鑑をいくら探してもその木が見つからないと、読者から出版社に電話があったと聞いたとき、ダイヤルを回した好奇心の人に、口の中でお礼を言った。
ていねいに生きればいいのよと、ある日知人の母上がふと漏らした何気ないことばに触れた。身体への敬意が含まれていることばの力を思った。琴線に触れてくるひとことの重みは、どんな合理主義者の説教も尻込みするにちがいない。