1993年10月25日発行のTEXTILE FORUM NO.23に掲載した記事を改めて下記します。
今年の春、ハワイ大学で3月7日~4月16日まで行われたBASKETS:REDEFINING VOLUME AND MEANING と題されたバスケタリーの展覧会を見に行った。この展覧会は大学の付属ギャラリーが企画したもので、関島寿子氏、エド ロスバック、ジョン マックウィーンなど、バスケタリーの最初の頃から活躍している11人の作家で構成されていた。同大学のファイバーの教授であるパット ヒックマンはカタログの序文で、かごの方法で立体作品を作るようになった20年前をふり返り、今やバスケタリーの作品は、技術や素材というテーマの他に形や内容を重要視するアートになったと述べている。展示はそれぞれの作家の方向性を把握しやすいように、6点ずつの作品で構成され、またカタログには作家のコメントと履歴、過去の主だった展覧会やコレクションが紹介されていた。企画側の熱意を示すように、バスケタリーの作家によるワークショップやスライドレクチャーも行われ、関島氏もフランスからかけつけた。次に展示作品について簡単に紹介したい。
ジョアン シーガル ブランドフォードの作品は、染めた皮籐をスプラングやノットレスネッティングを使って組織したもので、組織体の弾力を生かした有機的な形はバランスの面白さや空間を感じさせる。彼女はカタログの中で人間と深く繋がるかごの伝統への関心について述べているが、それが伝統的な意味でのかごを作ることではないのは作品からも伺える。
ジョン マックウィーンも自然素材を使って彼独特の作品を作る。彼は木の幹を作品の型に使うなど、いろいろな方法で作品の形を作るが、今回のもそれぞれ独特の形をしていた。細い枝を結び合わせてアルファベットの文字の形にしたもの、また作品を作り終えてから全体を上からつぶしたような形のもの、樹皮で作られた形の表面に何枚もの木の葉を貼りつけ、外側からは中が見えないものもあった。
同じく自然素材を使う関島寿子はカタログのコメントの中で、素材からくる制限が作品作りの要因の一つになることを述べている。作品は直方体や球などの単純な形をしているが、素材や技法に対する個人的な発見が込められていて、見る者の楽しみがつまっていた。伝統的というより、個人的な手法で自然素材を扱う、ドロシー ギルバ-ンズやリリアンリオットらの作品には自然素材の新しい使い方が見られた。ギルバーンズの樹皮を所々むいた太い柳の枝を使った作品は、柳の枝の曲りくねった線でできた立体という感じであったし、エリオットの作品も様々な素材を線的に使って、作品の構造を面白く見せていた。
同じく個人的な手法を使うジョン ギャレットは、金属の板をリベットで止めたり組んだりして、かごに似た形の作品を作る、コーラのアルミ缶、または銅板をリベットで止めた作品は平面的な部分を合わせて立体を作る面白さがあるし、機械の部品のようなもので構成された作品は、所々に単語が刻まれている円盤をまわして全体の詩を読むことができた。
キャサリン ウェツパルの作品は、ラフィアの繊維に似せた人工的な糸をかぎ針編みで、壷やかごの形に編んだもので、色の構成が素材の美しさを感じさせる。作品の表面に別に編んだ部品をつけたり、恐竜のおもちゃを口から入れてみたり、思わずにっこりしてしまう楽しい作品である。
ノーマ ミンコウィッツもかぎ針編みを用いているが、ウェツパルと違って、人間の足や頭などの具体的な形を編んだもので組織が透けている。同じ組織を編んだ別の形を入れ子のように中に入れて、別々の形を重ねて見る作品である。パットが、彼女の作品には人間の感情が込められていて、ある作品からは孤独や絶望を感じるとカタログに書いているが、こういった感情は伝統的なかごからは受けることはないだろう。
リンダ ケリーの作品も人間の存在を感じさせるが、形はぐっと単純で、黒く染めた籐を組んだ2メートル位の高さの細長い円筒形をしている。このような作品が6点展示されていたが、作品がバランスを保って傾いている状態や、集団で並んでいる様子が印象深かった。
クラウディア スタフィンスキーの作品も組みの技法で足や胴体のような形に作ったものである。表面に赤や黒の色を塗ったり、切り込みをいれて重ねたりして作品を構成していた。有機的な形がテーマであると述べる彼女は、組織構造にそって、あるいは全く関係なく彩色して作品の周りの空間にも視線が及ぶ効果をねらっている。
エド ロスバックは最初から新しいアイデアを追及してきたいわば開拓者である。今回の作品は組みで作ったかごの周りに、歴史的題材の絵や模様が描かれた紙を貼ったもので、作品の周りをまわって全体の絵を見ることになる。紙を貼る前のかごも展示してあったが、これは全体のアイデアを示すヒントであろうか。
展示の名称には“BASKETS”という言葉があるが、作品は伝統のかごをそのまま作ったものではない。口は閉じられていたり、あるいはすでに中に物が入っていたり、かごとは思えないような形であったりする。始めてこれらの作品に出会う人は、どうしてこれが、かごなのか疑問を感じるかもしれない。パットは今回の作品について、かごというより彫刻という方が適切であると評しているが、このような考えも生まれて当然かもしれない。
このようなパットの意見の背景には、クラフトの作品が彫刻や絵画のようなアートからは低く見られているアメリカの現状への不満がある。クラフトがもともと女性の仕事であったこと、また生活の中で使われていたものであったということなどが原因であるが、実際クラフトの作家にとってみれば、展覧会の場所や待遇、作品に対する批評、値段、名声といったことが関係する切実な問題であるらしい。
しかし、これとは反対にクラフトの作品が彫刻に同化することに危惧を示す意見もある。1992年に発表されたBruce Metcalf の論文“Replacing the Myth of Modernism”、(American Craft.1993年2/3月号に掲載)は、クラフトはもともと人間の生活に結びついていたものを作る技術で、その技術は素材との関連で生まれたものであったと述べている。
つまりクラフトには歴史があり、近代アートとはその源が違うという。だが、昨今ではクラフトの存在理由が確認されないまま、一部の作品がアート、彫刻に同化している。だから、今こそクラフトはその伝統を指針とし、その現在、また将来の存在理由を探らなければ、今にアートの亜流になってしまうという意見である。
このメトキャフの意見に決定的な解決方法を見い出だせなかったのか、あるいはクラフトは伝統に帰るべきであるという内容と誤解したのか、アメリカン クラフトの紙面には今も“クラフトはアートか”という論争が続いている。一見これは、アメリカでの話で日本では事情が違ってくるようにみえる。しかし、メトキャフのいう伝統とどう関連していくかという問題は、かごの方法を使う作家にとっては、作品を制作する上での基本的な問題につながるのではないだろうか。
アメリカには、今回の展覧会に関わった11人の作家の他にも様々なファイバーの立体作品を作る作家がいる。どの作品も迫力があるし、独特のアイデアを持っていて、その層の厚さに驚かされる。しかし、この中の何人が1O年後、20年後まで、今のアイデアを発展させながら作品を作り続けていけるだろうか、という疑問がふとわいた。そういう意味では、この11人の作家はそれぞれのやり方でその方向を探りながら作り続けてきた先駆者であり、その作品の中に、かごの伝統との関連に対する様々な答えの可能性を示していたように思う。