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「産地の力」 絞りの里有松/竹田耕三と早川嘉英

2010-11-23 17:11:09 | 三宅哲雄

産地のカ  絞りの里・有松/竹田耕三と早川嘉英の活動 


 ART&CRAFT vol.9  19971025日 発行 


知多半島のつけねに位置する有松町は「絞りの里」として360余年の歴史を持つ。名古屋鉄道の有松駅を南に折れ旧東海道に出ると江戸時代の絞問屋のたたずまいを今にも残す居屋敷が立ち並び往時の姿を彿彿させる。


近年、炭鉱や鉄鋼の町として日本の繁栄を築いてきた企業城下町が数十年という短い命で滅びていく中で戦争や火災など幾多の困難を乗り越えながらも町並みを大きく変えることもなく生き続ける有松の力とはいかなるものなのだろうか ?


公的支援 


  有松の開村は尾張藩の施策で東海道の整備改修事業の一環として鳴海宿と桶狭間の中間地点に村落を設ける計画により慶長13(1608)移住をもとめる布告が発せられ、移住者には不役の免除を移住地は免租地とする特典を与えた。この布告に答えるように最初に移住したのは知多郡英比の庄緒川村の村長の娘を嫁に迎えた竹田庄九郎以下8名であったが、緒川村の村長が人選して派遣したといわれている。このように有松は公的主導で生れ、竹田庄九郎による九九利染の創案、三浦絞などの新技法の導入、絞商・紺屋・絞括り職人に分業するなど絞業としての基盤を構築し、尾張藩より絞染に対する独占的製造販売権を獲得して有松絞の全盛期となる。天明4(1784)大火災が発生し全村が焼失するが竹田藤兵衛直光(庄九郎家の六代当主)が代官所に窮状をうったえ、援助の要請をすると相当の資材官金が交付され、5年後には豪壮な商家がたちならび絞業は復興した。絞会所の設置、株仲間の確立などにより絞商は安定した専売事業として明治維新迄続くが明治4年の廃藩置県を契機に株仲間の制限の緩和などでより新しい時代の商法を取り入れた組織が誕生した。その第1号が竹田嘉平商店である。以降、公的擁護から自立した産業として幾多の困難を乗り越えながら今日迄歩むのである。


近代化と伝統の技

「絞りJは布を防染して模様をだす技法で3000年の歴史があるといわれている。わが国でも古代より行われ、法隆寺や正倉院に現存する屏風や衣服などでは纐纈と呼ばれ用いられていた。以後、室町から桃山時代には辻が花、江戸時代には鹿子絞として全盛期を迎え今日に至るまで数多くの技法が生み出されている。しかし、嵐絞を除けば全ての技法は手工芸として今日にまで継承されており、今、再び存続の危機が叫ばれている。


伝統工芸品の多くは一人の人間の積み上げられた技の結晶である。この生産システムの改革は有松に於いては正保から慶安年間(16441650)に前記したように絞商、紺屋、絞括り職人の分業が成立し、それぞれの職をわきまえ、商いや技術の向上に努力し、生産量を向上させ、商いにおける独占的販売権を獲得する。一方、与えられた仕事をただこなすという下職のシステムでなく、職人の創意工夫を啓発する制度を生み出し、その結果として幾多の新技法が開発された。その中でも特質すべきことは明治9(1876)鈴木金蔵が機械応用の新筋絞(のちの嵐絞)を発明したことで、当時、一人一日一反が限度の生産量を新筋絞では二人で一日二十反を仕上げることができ飛躍的に生産量は拡大した。だが、新筋絞は一夜にして完成したのでなく、嘉永6(1853)に発明した養老影絞を鈴木金蔵は23年かけて工夫改善した結果生まれたものである。又、明治12(1879)には竹田林二郎、鈴木金蔵、阿知葉助九郎などの同志が中心となって「新製社」を組織し、優れたデザインの多様な絞製品を絞屋に提供すると共に機械・器具を使用して量産することで価格を抑え需要に答えるように努力し、その技法等は地域の同業者に公開するなど今日でいう試験場のような機能を私的組織として生み出した。こうした新技法、新意匠の開発意欲は製造特許・意匠登録によって権利の侵害・濫用から保護され、江戸時代の独占権にかわり明治30年以降は特許・意匠の専有権を獲得し、今日の絞産地としての地位を確立した。以後、大正、昭和に於いては日清。日露。第1次・第2次世界大戦、関東大震災などの影響を受け衰退・復興の大きなうねりを幾度となく経験するなかで、協同組合の設立や化学染料の導入、輸出の振興、受請加工の推進、綿製品に加え絹製品の生産による販売金額の増大、編地への絞加工など絞商品の拡大に努めた。その一方、絞り技法は百数十種類と発明されたが、そのほとんどが手工芸的技法であるがため、この伝統ある技術の保存育成に昭和39年財団法人有松絞技術保存振興会を設立した。このように有松は近代化と伝統の技の保存という両輪を360余年にわたり営々と築き上げてきた文化であるがゆえに受け継がれることはあっても失うことはないであろう。


竹田耕三と早川嘉英

199211月に第1回国際絞り会議が有松を中心に名古屋・鳴海で開催され、世界20ケ国から476人が参加し、絞が日本だけのものでなく民族、国家を越えて世界共通の文化であることを確認した。又、199510月~11月にかけてアメリカ・ミシガン州オークライド大学ギャラリーにて「有松絞展Jが開催され、有松絞の全容が初めてアメリカで公開された。さらに、19961231日から今年1 4日迄インド・アーメダバードの国立デザイン大学で第2回国際絞り会議が開催され、世界20ケ国から436名が参加した。これらの会議や作品展の開催に尽力したのが竹田耕三で、彼は多くの友人と共に「有松の絞り」いや「日本の絞り」を「世界の絞り」に育て上げる文化活動に情熱をそそいでいる。 1992年の第一回国際絞り会議の成果としてワールド絞リネットワーク(略称WSN)が組織され、早川嘉英は事務局長として竹田耕三や数名の役員と共に第二回絞り会議や作品展を企画し実現させてきた。一方、国内では「シボリ・コミュニティJの活動がある。東京、名古屋、京都、広島に主体的な教室が設立され、各教室共毎月一回であるが早川嘉英は作品制作の傍ら、これらの街々を飛び回り、絞りの啓蒙活動に尽力している。


1984年、「早川嘉英SIBORIJがギャラリー・スペース21(東京)で開催された。一般的に「絞り」は布をしばる、縫う、畳むという防染技法を用いて紋様を表わしすものと理解されていたが、「SIBORI展」に出品された作品は染色されない布や紙で、おそらく当時の観賞者の多くは「これが絞りか?」という思いが強かったに違いない。早川は現在「染織&」に “新時代の絞り染技法-応用篇-"を連載中で、そこで早川が伝えたい事は形状を作り、これを絞りという防染方法で残して、そのほかの部分を染める、すなわち形を痕跡としてとらえること、すなわちシェイプド・レジスト・ダイという概念であろう。この考え方は名古屋で開かれた第一回国際絞り会議で確認された今日的概念であるが、早川は12年前にすでに形状を固定させる技法として絞りを用いた作品を発表していたのである。形状を固定し、痕跡を顕著に表わすのに染色は重要な表現手法であるが、早川はなにがなんでも染色しなければならないとは考えていない。むしろ絞る行為が生み出すシワによる表現で、布を絞る着物や服地などの衣服としての用途に止まらず紙や土そして鉄なども含めた多様な素材をも視野にいれた作品づくりに挑戦している。


竹田耕三は作品を制作し続けながら産地における「だんな」の仕事、「だんな」でなければ出来ない仕事に情熱を傾け、早川嘉英は作家としての仕事と次の時代を見据えた技術の開発そして教育を通して人材の育成に努力している。この二人の活動は明治時代の竹田林二郎と鈴木金蔵に重なり、120余年の時を経ても自然に受け継がれて行く人的エネルギーこそが「産地の力」だと実感した。

  三宅哲雄

参考資料

『有松しばり』()有松絞技術保存振興会

『染織 α』染織と生活社

アメリカ。オークランド大学『ARIMATSU SHIBORI』図録.. 


「棲界」-川村紗智子-

2010-11-23 15:36:39 | 三宅哲雄

棲界  -川村紗智子-        


ART&CRAFT vol.7   1997320日発行


西武池袋線で三つ目の江古田駅で降り、日本大学芸術学部と練馬病院の境界の前で左折、突き当たりが今回訪問した川村紗智子さんの自宅兼アトリエである。道順は川村さんに電話で教えていただき今回初めて訪問するのであるが、駅から川村宅迄慣れ親しんだ道のごとく、又、迷うこともなく訪れた。


実は、私は日本大学芸術学部の卒業で江古田に隣接する板橋区向原に下宿をし青春の4年間を過ごした思い出の残る地である。駅舎は当時のままで変わったことといえば自動改札だけで、駅から大学迄の道筋に於いても商店の業種は今様に変わっているが狭い道路を中心にした学生街独特の雰囲気は今も変わっていない。左折すると道の両側は住宅になり少し違和感を覚えたが緩やかな道の高低差は20数年前の広々とした畑を思いおこさせていた。このようなことは誰でも一度や二度経験したことがあると思われるが、風景が一変するような開発がされた地では感慨は湧かない。大地が削られ、その地で生きていた人間の営みや動植物が一掃されると環境が変わり空気が変わる。環境を構成する要素の一部が変わっても他の構成要素が不変なら、その環境はかつてその環境を構成していた人を迎え入れるが一変した環境はかっての住民もよそ者とみなすのでしよう。すなわち環境が受け入れる入れないという問題だけでなく人が環境を構成する要素に成り得ていたのか否かを自覚するのは大地の上で共棲する人と動植物を始めとして人間が造り出した建築物、肉眼では見えないがミクロの生物や物質、そして光や風など大宇宙の営みとどれだけ時間・空間を共有したかに掛かっているのだ。人は生を得て死するまで多様な環境の中で生きていく、意識下の範囲内でも家庭、学校、職場、旅行地、通勤や通学などに要する移動地などなど…これらの環境を構成する生物と物質は常に構成要素を変えながら動いている。又一人の人間が生涯刻々と変化しながら生み出す環境は決して他の人と同一でない。このような一人の人間の生涯を構成する環境を何と呼ぶのであろうか? 私は『棲界』と呼ぶことにした。


透過する世界

川村紗智子はこの地で豊かな趣味を持つ両親と自由な家庭環境の中で創作する楽しさを自然に学んだ結果として武蔵野美術大学短期大学部に入学した。大学では陶芸を専攻したが陶芸を志して入学したのではなく、むしろ硝子に興味を持っていたが今日のように硝子を学ぶ場がなく、やむなく陶芸を専攻し卒業後に岩田硝子に入社し念願の硝子の世界で仕事をすることになる。その後、栗田クラフト陶芸教室の講師となり再び陶芸の世界に戻り今日の陶芸家川村紗智子が存在するかのような経歴であるが、川村にとっては陶芸とか硝子というジャンルを選択しているのでなく透過する世界に興味を持ち続け、岩田硝子在職中はガラスデザイナーとして活躍し、栗田クラフトでは陶芸を指導する傍ら土も光を透過することを発見し「向こうの世界」を土で表現することに挑戦している。


当初は光を使用して土でも光を透過することを具現化した作品であったが、「密教曼陀羅」との出会いから自分が生きていく時空を問うこととなり、光だけでなく風や水や、そして時間や空間を透過する世界を表現できたらとの願いから「曼陀羅」の作品が生まれた。だが幼少の頃より持ち続けている「透過する世界」はたぶん今だ表現されていないのではないかと私は思う。川村が使用する素材は透過性を持つ硝子から一般には透過性を持たない土に変り、土でも光を透過することを発見したが満足しない。


「密教曼陀羅」の宇宙に触れ、求めているのは物理的透過性だけではないと気付いたが作品として表現出来たのは曼陀羅の形であって川村が表現したい豊かで大きな広がりを持つ宇宙を表現出来ているとは思えない。だが川村は臆することなく自分の求める世界が表現出来た作品との出会いを求めて創り続けている。一昨年当研究所ギヤラリーでの個展のテーマはたしか「創造と消滅」であつたと思うが川村は個展に先立ち「いつもは創ることばかり考えているが今回は創ることと消し去ることとを考えて作品をつくります。」と語り、ギヤラリーの中空に「巨大な船」を浮かべ、傍らには「破裂した球体」を配置した。展示日に川村はいつもの笑顔をみせながら「消し去ることは無理なので今回は諦めました」と自分の非力を感じながらも挑戦する意気込みを表したのは印象的でした。1994年、川村にとつて始めての野外制作の機会は「’94信楽・陶芸の森」であった。この経験から「自分は大きな作品を制作したと思っていたが山の上から見たら点でしかない。結局は大きさではなく、小さくても大きな作品もあり、大きくして驚かす必要はないということが確認できたのは収穫であった。」又「一ケ月展示され作品は太陽や雨や風にさらされ、水が浸み込み、苔が生え、作品に自然の営みが記憶された。作品を撤去する日になり陶板をめくると作品の下に隠されたもう一つの作品を見ることができた。」と語った。


川村紗智子は自由な家庭環境で育ち、素材には拘束されず、工芸の世界では日常的な師弟関係を持たず、作品も実用的な茶碗からオブジェまでこなす至って器用で恵まれた作家である。不器用で恵まれない作家は多いが川村のような作家は珍しい。器用貧乏という言葉があるように一般的に器用な人の作品はそつがないが軽い。私は川村の作品もその種であるのかと思っていたが、最近どうもそうではなさそうだという感がする。川村は家庭や学校そして職場などでの交友関係をとおして自分とは異なる人を知り、その人々から学ぶと共に人を排除せず受け入れる。この思想は人間だけでなく川村が生きてきた時空を形成する生物と物質にも適応されていて交流を持っている。このことを作品の制作姿勢が如実に語るようにチャレンジ精神が旺盛で作る前に考えるより自ら作つた作品を前にして多くを学んでいるのである。しかしながら理路整然としているわけではないが、何にでもフラフラと動くのではなく自分が求める世界すなわち「生命の本質を作品に取り入れたい」と願う方向性は確実に踏まえているように思われる。


私は川村紗智子の仕事ぶりを拝見することにより川村紗智子は「川村紗智子の棲界」で豊かに生きていることを実感した。                  三宅哲雄


「地の襞」 -磯辺晴美-

2010-11-23 13:01:29 | 三宅哲雄
◆礒辺晴美「大地に育まれるもの-Earth Born-」155×266cm

地の襞 -礒辺晴美-         三宅哲雄

ART&CRAFT vol.6 1996年12月20日発行

今年の4月から5月にかけて目黒区美術館に於いて「日本の染織・テキスタイル展」が開催された。展覧会の図録の巻頭挨拶に「(前文略)染織・テキスタイル造形に関する認識については、関西文化圏では多くの人にとって常識に近いと思われる最新の情報も、関東・東京では多くの人の耳に届く機会も少なく、大学院で専門に研究・調査・制作などに従事しているような人々だけが知り得る非常に高度な専門的知識になっているといえるでしょう。日本の誇るべき伝統と文化の一分野である「染織・テキスタイル」の現況に対する認識を関東圏の人びとと共有するためにも、こうした企画展は非常に有意義なものであると考えております。本展では、関西を中心として活躍している現代作家29人の作品93点を展示し紹介いたします。(後文略)」と記されております。私共、関東在住者にとって日頃見る機会のない作品を拝見する機会を与えられたことを感謝すべきなのか、考えさせられました。私の解釈が歪んでいるのかとも思いますが、言葉を変えるならば「関東では染織・テキスタイルは一部の人々だけ知り得るものであり、これではいけない、日本を代表する関西の作家の作品を是非ご覧になって、勉強しなさい。」というように聞こえました。たしかに歴史的にみても関西圏特に京都は常に日本の染織をリードする役割を担い、優れた作家を生み出すと共に高度な技を研鑽し継承してきた文化圏であることには依存はありません。又、1960年代から胎動を始めたファイバー,アートといわれる造形活動の中心的役割を果たした人々の多くが関西圏に居住していたことも事実でしょう。だからと言って何故に関東圏では染織・テキスタイルが一部の人々のものと断定できるのでしょうか?。しかしながら、ここで述べようとするのは文化圏に対する見解の相違を論じるつもりはなく、京都在住の磯辺晴美という一人の作家の仕事について私的な思いを記すことにより、関西や関東いや日本や欧米などというような枠組みの文化論ではなく、一人の作家の作品や制作姿勢等を通じて読者が染織・テキスタイルの現状を伺い知る機会になれば幸いだと思います。

地の襞

 駅迄迎えに来てくれた磯辺さんの運転する車に始めて乗せていただき滋賀県西大津のアトリエを訪問し、作品を拝見しながら話を伺った。磯辺は京都に生れ、スゥェーデンで織りを学び川島織物で工業織物のデザインを手掛ける傍ら織物作家として内外で活躍し、現在は教育と制作活動に多忙な日々を送っている。私は川島テキスタイル・スクールに在籍していた時からの知り合いで、今日でもタペストリーの作家といえば第一に磯辺晴美を挙げます。磯辺の仕事は経糸をキャンバスとし緯糸を絵の具として機のうえで自由に描くことだと言えるでしょう。磯辺が川島織物に在籍中に壁布のデザインをする様子を拝見する機会があったが、私には全く魅力に欠ける不燃の糸を10cm程度の幅で数種類経糸として機にかけ、同種の糸を多様な組織を使いながら緯糸として入れ、糸の状態では思いも拠らない魅力的な布に変身させたことは驚きでありました。机上で設計したうえで、機で試織するのが通常の織物デザインと思っていた私には磯辺の仕事ぶりは新鮮であると共に熟練したデザイナーでも机上ワークは限界があり機のうえでドゥローイングする必要性を実感しました。しかしながら誰でも機上での試織が旨くいくものではなく個々の糸の特性を瞬時に把握し、いかに使用すれば糸の持つ魅力を最大限に発揮させることが可能かを全身で判断し表現することができるかが問われるのです。工業染織の仕事に従事しながら自己表現の制作を続けている作家は少なくなく、多くの人は工業染織の仕事は生きる為の糧として割り切り、自らの仕事にエネルギーを集中させると語りますが、器用に自分を使い分けることが可能な人はそれほど多くないと思います。磯辺は工業染織や受注したタペストリーや個展の為の仕事などと使ぃ分けて仕事をすることが出来ない性格で、与えられた仕事か自ら望んだ仕事かの区別はあっても仕事への関わり方には変化がなく自然に対応することしか出来ないのです。このことが20数年磯辺の仕事を見てきて違和感を感じることがないのでしょう。たしかに初期の仕事、イギリス在住の仕事、昨今の仕事と鑑賞者にとっては大きな変化が見られますが、磯辺にとっては自らが生きていく風土や環境が変われば、その環境を素直に受入れ自然に表現する素地を身につけていると言えるのでしょう。昨年の個展で発表された「地の襞」のシリーズは制作の場所が滋賀県西大津に移り、自然林を背景にしたアトリエで草花を植え、猿や薙子との触れ合いを持ちながら、一方、乱開発で失われていく自然を目のあたりにして生まれたものです。私は技法のことは判りませんが、機幅一杯に掛けた布が1/3に縮み布が波打ち、大地が静かに躍動する姿を作品は語りかけます。磯辺はタペストリーを織ることについては、決して織物が自分にとって絶対の表現方法であると思ってなく、現在、一番自由で自然に自己を表現出来る手段で、もっと自然な表現方法や素材があれば、それを選ぶと、さわやかに語るのです。

織物は立体である

磯辺晴美の個展会場で当研究所の卒業生に偶然出会い、卒業生は作品に接近して、しげしげと眺めたあげくに、「どのようにして織っているのでしょうか?」と私に質問しました。私は冷たく「デイテールを見るのでなく全体を見なさい。」と答えました。磯辺の仕事は緯糸で表現する技法を主とするが、スゥェーデン織り特有の経糸も表面に現れる技法も多用され、組織も二重・三重織りなど多様な技法が使われています。素材はもとより織り密度、織り技法が最初に全て決定されているのでなく、試織段階で大枠を決め、あとは織りながら自由に糸や技法を使い分け、常に頭の中にある全体イメージにいかに近づくか目をとおして手と足が自然に動くのです。最初に技法ありきでなく、いかに表現したいかにより、ほぼ無意識といっていい状態で技法を選択し織っているのです。 磯辺は織物は立体であると言う。一般的に鑑賞者の視点が制約される織物は二次元で立体ではないと言われているが、それは絵画、彫刻、などという西欧美術理論から押し付けられた概念であり、その理論に従う必要はない。むしろ、今日、平面であると言われている物の多くは平均的人間のスケールや視覚力を基準にして判断されていると思う。織物は言うまでもなく経糸と緯糸との組み合わせであり、結果として立体を形成し、素材の持つ表情と先染めによる糸を使用することなどから、表面には直接現れない色や素材の質感が表面に滲み出て、一般的に言われる織物の重厚さが表れるのです。平面であるという認識に立ち織物を織ろうと立体と捉えて織ろうと制作者の自由であるが、この認識の差が結果として作品に表現されるのです。私は磯辺と同様に織物は立体であると認識しており、立体として認識するからこそ織物特有の表晴を現すことが可能になり全世界の人々は今日でも織物に愛着を覚えるのでしょう。 文化は上から与えられるのでなく日々の生活の中で育まれると私は信じています。磯辺晴美のような姿勢で作品を生みだす作家が増え、一人一人と語りかける作品に鑑賞者が出会い、結果として鑑賞者が豊かな生活を営むことに結びつけば作家としては、この上ない喜びでしょう。                            


「糸からの動き」 -加藤美子-

2010-11-23 12:16:49 | 三宅哲雄

三宅哲雄      

ART&CRAFT    vol.6     1996年12月20日発行

動くかたち

阪神大震災から二年になろうとしています。被災地での復興もようやく緒についた感がありますが、まだまだ時間がかかりそうです。このところ関東地域でも震災の影響を感じることを多く見聞きいたしますが最も顕著なのは首都高速道路の橋脚補修工事で高速道路の下のセンター寄りのレーンを通行止めにし、橋脚の基礎を補強すると共に橋脚に鉄板を巻き、橋脚の強度を高める工事です。たしか、アメリカのロサンゼルスの大地震の際、建設官僚や学識経験者と言われる人々は『日本の道路は安全です。関東大震災級の地震があっても倒壊しない設計がなされています。』と発言していたように記憶していますが何故この安全な道路を補強するのでしょうか。また、最近のマンションやプレハブ住宅の販売用チラシ等で目に付くのは耐震設計とか耐震工法・耐震構造という言葉です。国民の多くが阪神大震災の脅威をテレビ等で実感し、今日迄の道路やマンションそして住宅に不安を感じているので、より頑強な建築物に補修したり、地震に対する安全性を売り物にしているのでしょう。西欧の構築物の歴史は自然(人を含む)との戦いの歴史であり、今日迄ピラミッドを除けば全ての歴史的構築物は倒壊や廃墟と化し、自然との戦いに完敗したと思われます。しかしながら、この戦いの思想『より強く、より堅牢で』が都市計画から我々の身近な衣類まで物づくりの思想として今日でも顕在ですが、最近になり、戦う思想から生まれた耐震構造ではなく、受け入れる思想から生まれた免震構造の建築物が実際に建築されています。このような思想に基づいた人間の知恵は最近生まれたものなのでしょうか?。日本の伝統木造建築の研究を続けている日本大学芸術学部教授深谷基弘氏にご意見を伺いました。『日本の伝統木造建築における土、風、光、水、人とのかかわりについて教えてください。』という質問に『建築は自然に対抗するのではなく、自然を受け入れる、いや自然そのものである』という職人の知恵と工夫を教えていただいた。その中で特筆すべきことは各種の木組み(継手、組手)の仕口には、楔や太柄という部材が使用され、仕組まれている。柱は本来、円柱が原則であり、材の加工には、材を生かす道具が使用され、建築するとのことです。代表的な例として“槍鉤"等があげられます。こうして建てられた建築物は気候の変化や少々の地震のエネルギーを建物全体で吸収し、限度を越えたエネルギーを受けた場合はバラバラに倒壊するが、すぐに再構築可能な状態で倒壊するのだそうです。倒壊しないように造るのも人間の知恵ならは倒壊を予想して造るのも知恵なのです。少し視野を広げて見ると人間を含めた自然のエネルギーを受け入れ、固定した「かたち」でなく「動くかたち」の物づくりは伝統木造建築だけでなく私どもの身の回りに数多く現存していることに気付くでしょう。着物、折り紙、住居、流れ橋、南京玉すだれ、等々、自然の素材に人間の知恵と工夫を加え、一見固定した「かたち」を保持しながら自然や人的エネルギーを受けると「かたち」を変えるが、決して当初の「かたちJを失ったわけではなく、多くの「かたち」を保有しているのです。このようなものづくりは西欧文化から生まれたものでなく東洋の風土から生まれたものと思われますが、戦後の民主化と高度経済成長という西欧化の波により先に述べたような固定した物づくりや生活様式が一般化し、東洋の物と思想が失われる結果となりましたが一般にいうバブルの崩壊により「物を所有する豊かさJから「真の豊かさとは何か」を考えるようになり今日までの固定した政治、経済、教育等々に疑いの目を向けるようになったことは事実でしよう。しかしながら、幼少の頃から受けた家庭内外の教育や社会人となり生産性、効率制、利益第一主義の社会で生きていくすべを身に付けた人々にとって今日の社会変化を肌身で感じることはあっても、いかに対応したらいいのか判らないというのも現実ではないでしょうか。昨今のRV車ブームはその一つの捌け口として自然との接点を求めてはいるものの、自分の足で土を踏みしめ、全身で自然を感じるという方法を選ばず、車という動く個室を利用して普通車では入る事が不可能な山川に立ち入り人口環境とは異なる自然環境に都会と同様の快適さを維持しながら踏み込むことを可能にしたからでしょう。この現象は固定したものの考え方から一歩も前進したものでなく、ただ方向を少し変えたにすぎないと私は思います。都会の喧騒を自然に持ち込み、むしろ自然破壊を促進する結果となるでしょう。

加藤美子の仕事

この様な社会現象の中で一部の造形作家は「動くかたち」(作品)を見せてくれます。加藤美子は「布に糸を刺すJという単純な技法で多様な表情を見せる作品をこの十数年制作しています。一般的に布は糸で縫うわけで、縫い合わせることにより着物や洋服などのかたちを生み出すか、刺し子のように布を縫い合わせながら糸で紋様を現すなど布と糸との関わりに限定するだけでも多様です。布に糸を刺し糸を引くと布は縮み、動きます。当たり前のことですが、この単純な技法で布全体にステッチしながら作者の求める表情と形に一針一針刺し、引く、気の遠くなる仕事です。柔らかい布ならば刺すことも、糸を引くことも、あまり困難さを伴うものでありませんが、硬い布(酒袋)を刺し、糸を引くことは男でも相当きつい仕事だと思います。刺すエネルギーと糸を引くエネルギーが布を一層硬い表清に変貌させ観賞者は陶器か鉄だと錯覚するほどで、支持体がなければ自立しない布にエネルギーを注入することにより布は立ち上がります。加藤美子は糸を刺すという技を通して酒袋を動かし作品にするのです。一方で加藤はこの数年、人との関わり特に子供との関わりのある仕事にも精力的に取り組み、1994年に石川県能都町真脇遺跡公園の子供の遊び場縄遊具として綱渡り、つり輪、登り棒、土器型ネットを制作しました。円形の窪地を横断しユサユサと揺れる綱はポリエステル繊維で直径55mmと24mmのロープを縫い合わせた繊維のかけ橋です。手摺もない橋を歩く感触はソフトで沈み揺れる、平衡感覚と緊張感を生み出します。丸太から無数に垂れ下がった長さの異なる吊り輪。側壁の石積の上から輪にめがけて飛び移り、ブラブラ身体を揺すりながら次に移る輪を探す、もちろん力つきて落下する場合もあります。竪穴式住居を連想させる丸太の中心に高さ6m上部口径5mの土器型ネットが吊り下げられ、子供は下部の穴からロープを掴み、よじ登るのです。主として18mmの強い燃りを掛けたロープを使い、編むことにより土器の形にしたもので、子供が登っていない時は土器の形をしているが、一人二人と子供が増えることにより当然のことながら形は幾様に歪むが子供が去ると、又、元の土器型に戻る。編物特有の伸縮性と強い撚りを掛けたロープに含有されたエネルギーが作用して「動くかたちJを生み出します。このようなスリルと危険を伴う遊びは私どもが幼少の頃、野山で自然の樹木や岩等で遊んだことなのですが遊び場が限定され、公園にはブランコ、スベリ台、砂場、という定番が全国一律に設置されている今日、ようやく遊び手の創意工夫が可能な遊具が求められ実現したものです。通常、不特定多数の子供が遊ぶ遊具は金属やプラスチックなどの耐蝕性のある素材を使用し、道具の使用方法も危険のないように一定の遊びに限定された設計で、遊び手(子供)の立場でなく管理者の立場で設置されてきました。この常識を覆したのは1979年に国営沖縄海洋博記念公園に制作された堀内紀子の「集団ハンモック」でしよう。子供の自由な遊びを許容するネットは耐久性が弱いとされてきた繊維素材を使い、1969年から保育園や子供とともに実験を重ね独自のテンション構造として完成させたもので、他の人に真似のできる作品ではありません。仮に「かたち」だけ似た物を制作した場合は大変危険で事故を伴うことが予想されます。加藤美子は堀内紀子の仕事を手伝うことにより「かたち」ではなく堀内紀子が切り開いた思想を受け継いで自分の仕事として展開しているのです。すなわち、①遊具としての機能を持ちながらも、その場特有の環境に適応し作品としての完成度を有する。 ②遊び手や遊び方は規定しない。③自然や人の多様なエネルギーを受け入れるだけの構造や耐久性を持つ④不特定多数の人を受け入れた状態でも作品として成立する。以上のことは私が勝手に定義したものですが堀内紀子や加藤美子が制作した遊具は、この条件を全で満たしていると思います。今日、多くの人々が多様なものづくりに従事していますが、この「遊具」という言葉を他に置き換えて各人各様に自然や人間との交流を有する「物づくり」を考えてほしいと願うものです。                    三宅哲雄