ART&CRAFT forum

子供の造形教室/蓼科工房/テキスタイル作品展/イギリス手紡ぎ研修旅行/季刊美術誌「工芸」/他

造形論のために『方法の理路・素材との運動⑥』橋本真之

2017-01-15 11:42:38 | 橋本真之
◆橋本真之. 作品122「連鎖運動膜(真昼の星々)」(内部) 1981年7月~ 
 photo:高橋孝一 

◆橋本真之   作品111「運動膜」(内部)   1976年9月~1977年5月制作

◆橋本真之      (奥) 作品111「運動膜」 (中)  作品123 「運動膜」(真昼の星々) 1981年11月~1982年制作  (手前) 作品114「運動膜」(二層の水面) 1978年2月~8月制作

◆橋本真之  作品125「重層運動膜」 1982年3月~5月制作


2002年7月10日発行のART&CRAFT FORUM 25号に掲載した記事を改めて下記します。

 造形論のために『方法の理路・素材との運動⑥』橋本真之

 世に行なわれることが作品制作の第一義ではないにしても、揮身の作品発表が黙殺されるということは苦しい。ことに自らの力を明確に自覚していれば、なおのこと苦い。脆弱なデッチあげ仕事や、模倣作家がもてはやされている中で、沈黙する他ないのは苦しい。全くの黙殺。今も志す者の十中八九がこの憂き目に会っているはずである。

 概念芸術の席捲する中で、私の発表は新人の時代錯誤と受け取られていたに違いない。本質のところで、『造形芸術がなおも可能であるか?』が問われていたのである。中国では文化大革命が吹き荒れて、旧体制は破壊しつくされていた。60年代末から70年代にかけての学生運動と反芸術、そして概念芸術の過熱の中で、私の造形思考は殆ど無意味と思えたのに違いない。絵画も彫刻も、無効の存在と化していた。まして、工芸世界は体制べったりの仕事か、あるいは、いまだにモダニズムの残滓に追従しているに過ぎなかった。この時代に、欺瞞なしになおも造形行為が可能か?私に突きつけられていた論調の最たるものは、アドルノに代表されるような言論の風だった。

 『文化批判は、文化と野蛮の弁証法の最終幕に直面している。アウシュヴィッツのあとで詩を書くことは野蛮である。しかもこのことが、なぜ今日では詩を書くことが不可能になってしまったかを教える認識さえ触んでいるのだ。‥‥』(テオドール・W・アドルノ)

 現実にこれらの文章が、正確に私のまわりで流通していた訳ではなかった。けれども、当時を思い返えす時、アドルノの一文ほど、私を圧迫していた状況を鮮明に要約するものはないのである。

 1976年夏、個展会場から搬出して来た「運動膜」で、仕事場の中はいっぱいだった。搬送用に作った鉄のフレームごと仕事場に積み上げて、ようやく次の仕事を始める空間を作った。鉄は屋外に出せば、すぐに錆が来て腐蝕に耐え得ない。いかなる塗装も、いずれ腐蝕する。私は後先を考えずに、小さな仕事場で大きな作品を作ってしまったのである。苦い黙殺の壁の前で、私には鉄という素材は限界だった。この先、鉄で作品を造り続けていれば、次々と倉庫が必要だ。私の意気沮喪は、怒りと裏腹に、深く自らの感情を押し殺さねばならなかった。かって造った大きな鉄の林檎と、「凝着」二点は外に出した。

 内部から外部へと、ひとつながりの金属の膜状組織で成り立っていて、外部を造ることが、即、内部を造ることになる作品の、根本の構造の意味は、全く理解されなかった。あるいは、無効な造形上の探求と見なされたのであろう。私はこの「運動膜」という六っの独立した部分で成立している全体を、ひとつひとつ造り替えながら、制作を続けて展開する考えに至っていたのだが、鉄を放棄せざるを得なかったことで、振り出しに戻らねばならなかった。(注1)

 仕事を続けるには、雨風にさらして保管できる素材でなければならない。このままでは黙殺のままに、作品は消滅することは明らかだ。私の時代は甘くない、と覚悟したのである。かってアルミニウムも真鍮も叩いたことがあったが、いずれも、その腐蝕状態が私を気乗りさせなかった。金や銀は素材として高価に過ぎて、はなから私の手におえるものではなかったし、ステンレスも叩いて見たが、私には硬過ぎて肘に響き過ぎた。どう考えても、永く叩き続けられる素材ではなかったのである。銅の魅力は、その柔らかな抵抗感と、保存状態の経緯を現わす多様な錆にある。その錆色は「水中古」の青、「土中古」の緑、「伝世古」の黒褐色と言われるように、(注2)その色によって、どのような経緯で伝えられたのかが様々に推察できるのである。また、望むならば、薬品で錆を意図的に発生させることも可能である。金敷の上で銅板を叩くと、鉄の場合は金槌をはね上げるのとは対称的に、金槌が銅に喰い付く感じになって、次の一撃を打ち降ろすためには、力を入れて引き上げねばならない。それは沼地に足を踏み入れて、足を取られるような感触だった。私は手元にあった厚さ1mmの銅板を叩いて、制作を再開した。銅の熔接は、自己流だが小さな作品で何度か経験している。ただし、小さな作品を扱ってはいたが、大きな作品にも、そのままで通用するとは思えなかった。酸素とアセチレンガスの混合による火力と銅板への熱伝導を考慮した火加減と、作業速度の習熟が必要であるが、とりあえずの接合のための役にはたった。私は「運動膜」六点をひとつの作品に凝縮した形態として造るつもりだった。厚さ1mmの銅板は、鉄の強度と違って、大きくなるにつれて衝撃と自重で歪み始めた。これらのことが、強度を求めて、構造を複雑にして行くきっかけとなったのである。鉄と違って、銅は一度火を入れた部分は、必ず徹底的に叩きしめねばならない。さもなければ、銅の柔らかさは外的な衝撃に歪む。このことは、叩きしめるために、作品に当て盤を持った左手が入る穴を開けることの、有効性を考えるきっかけになったのでもある。鉄から銅に替わることが、必然的に作品空間のあり方を根本から変化させたのである。穴を開けずに制作することも可能だが、そのことに執着し続けていたら、おそらく、作品世界の仕組は別な方角を目ざすことになったのに違いない。穴を開けることで、銅板は外展し内展し、そして、重層化した作品の内部と外部とを、同時に見ることができるものになって行った。そのことによって観照者は、中心部から外へ外へと展開する制作の経緯を、追認することができるのである。

 この一作に丸々八ヶ月かかった。屋外に出して雨水を溜めた。かって我が家にあった、狭い中庭の泉水が持っていた空間と湿度が、そこに在った。雨水が溜まり、蒸発し、また雨水が溜まる。水面と銅膜とが接する内壁が、一番先に酸化して緑青を発生させる。いわゆる「水中古」である。永い間に水面が上下することで、緑青が小きざみに震えた線状の層となって現われる。自然の循環が、私の仕事の内に浸入して来たのである。最終的な錆色を見たくて、薬品で緑青を出しても見た。銅板が重層化すると共に、水面もまた重なる形となった。この事は、次の仕事での構造として、意識的な出発となった。厚さ1mmの銅板は、屋外の作品としては、あまりにひよわな感じがする。強度を求めて、厚さ1.8mmの銅板に替えた。別の作品では1.2mmに替えた。1.6mm、1.5mmと試みたが、0.1mmの厚さの違いが熔接に影響するのである。そして作品は中庭の空間を、さらに強く意識したものになり、再びふたつの部分を分散させるものとなった。作品の軸性はあるが、アンバランスな形態を持ち始めた。中心軸を持った小さな動きだったものが、一方に大きく動きを取り始めたのである。そして、作品の軸が動きを持ち始めて、シンメトリカルな軸構造による均衡は、芝々破られることになった。中心軸の垂直性が持つ、動きのない安定感が、重苦しさとして私の感覚を圧迫し始めたのである。おそらく、この感覚の揺れこそが、私の造形思考の基底で動いていて、貝の成長文様のように、環境からの刺激と生理的反応として、私の造形の様態を動かしているのである。私が作品を自らの惑星と呼ぶのも、この内的な感覚の揺れの反映としてなのであり、そのことが思考展開に揺れをもたらして、再び作品構造を動かすものとしてなのである。

 工芸的造形物の多くが、回転体の軸構造を基本としている。私が鍛金技術によって造形的出発をしたことの重い意味は、ここにある。西欧近代に発生した抽象彫刻の造形の成り立ちと、私の造形が根本的に異なるところは、実のところ、ここにある。石彫とブロンズ彫刻の技術上の展開が産んだ彫刻と、近代技術の産んだ鉄鋼彫刻の構成主義の埓外にあった工芸技術。その鍛金技術の中から発生した、私の造形の方法の理路が、これまでの造形世界と別種の世界構造を持ち始めるのは、当然といえば当然の成り行きなのである。

 私は絵画・彫刻が主導して来た造形上の習慣を、因習として放棄した。「林檎」を突き抜けた時、私はこの仕事が何に成り得るのか解らなかった。運動する膜状組織「運動膜」概念の発見とは、作品世界の構造としての定義であった。この仕事が造形の問題であることに間違いはないと思ってはいたが、私にとっての造形が何であり得るかを、美術・工芸という枠を突きくずした上で、自ら立ち上げねばならなかったのである。

 闇雲な探求は、一方で重層構造をことさらに展開して、ドリルの穴を無数に開ける方向に向かい始めた。それは、これ以上の穴が開けば、あるいはこれ以上の大きな穴になれば、膜状組織の崩壊をもたらす限度まで進めざるを得なかった。構成をあふれて、過剰な展開となったが、それは望むところだった。運動膜にひとつのドリルの穴が開けられる瞬間、それは内部から見ていると、光の噴出である。そして空気が流通しはじめる。私は銅の膜状組織を流通する風の音を聞いた時、そこに風の形を見る思いがした。かって「林檎」にドリルで穴を開けたが、同じドリルで穴を開ける行為が、かってとは意味が異なっていた。かっては、表現行為の自己否定としてのドリルの穴であったり、ふたつの林檎の空間的関係を見い出そうとする方位としての穴であったが、ここにあるのは膜状組織の全面的肯定としての意識化である。内部も外部も、表も裏も、等価な存在として顕在化させるための無数の穴なのである。ひとつひとつの穴の関係をどうすべきか?迷い迷いドリルの穴を開けるのだが、次第に穴を開ける行為が自動運動と化して行く。そして、無数に開けた穴は、内部を、すなわち幾層もの膜状組織を透視させることをもたらした。

 ある日、日食が起きた。作品に開けた穴を通して、内部空間に無数の光点が射し込んでいる。そのひとつひとつの光点が日食を起こしていた。すなわち、このひとつひとつの光点は、それぞれが光源の太陽の形だったのである。内部の銅膜や、溜った雨水の底に、日食している太陽が散乱していた。けれども、穴から光点を結ぶまでの距離が短かければ、それはドリルの穴の形が光点となっているのであり、ある焦点距離を超えると、光源の形がそこに結像しているのである。木立の木もれ陽が地上に落ちていて、それらもまた日食していることに気付いた時、揺れ動く太陽の形の散乱に、めまいを覚えた。

 私は空を振りあおいで、そこにあるひとつの三日月形の太陽の形を見た。そして、太陽光におおわれた青空が、そこにあるはずの真昼の星々を打ち消していた。作品の内面には、星空が拡がっていた。この入り組んだ空間の構造を見出した時、私は詩をも呼び寄せたのであって、自ら詩を唄ったのではない。これは、いわゆる私の表現ではあるまい。私の作品構造が、存在間の感応のエネルギーを物理的に呼び込んでいるのである。この現象のひとつひとつを読み取るのは、観照者の力次第なのである。私もまた、「運動膜」の前で一人の特殊な観照者なのでもある。

(注1)この作品構造の考えは、「作品変換」として、後の「果樹園―果実の中の木もれ陽、木もれ陽の中の果実」に受けつがれることになる。
(注2)中国古銅器の錆色に対する呼称である。中国の戦乱の中で先祖から伝えられた銅器を持って避難することができない時、井戸の中に沈めて避難したり、湿地に埋めたり、乾燥した畑に埋めたりされていたものの、緑青の色が、それぞれ異なるところから、水中古、土中古、と呼ばれ、伝世されて緑青のふいていない黒褐色のものと区別された。

『手法』について/寺田武弘《鑿空》 藤井 匡

2017-01-12 10:28:39 | 藤井 匡
◆寺田武弘《鑿空》 250×162×835cm/花崗岩/1986年

2002年7月10日発行のART&CRAFT FORUM 25号に掲載した記事を改めて下記します。

『手法』について/寺田武弘《鑿空》 藤井 匡


 寺田武弘《鑿空(さっくう)》には重量約14トンの花崗岩が使用される。作者にとっての地元である岡山市・万成山の採石場から切り出された、直方体に近い塊。この表面に削岩機で穴を空け、ハンマーでピックを打ち込んで順次割っていく。こうして生まれた七個の石塊が、展示場所に即して配置されている。
 個々の石の配置は、物理法則にしたがい、倒れて散らばった様子を思わせる。例えば、写真正面から見て、左手の大きな塊同士は分断された面を合わせたまま平行にずらした状態に置かれる。また、右手の小さな塊同士では分割した際に転がっていったような距離と向きに置かれている。このため、原石が上空から落下し、個々の石が各々の重量に応じて散乱したように見える。つまり、作品の配置は新たな意味を与えるものではなく、物理法則に規定される物質の存在を顕わにするのである。
 実際、後の作品になると――《鑿空》のような――作品背後の意味を想像させるタイトルは使用されなくなる。「パカッ」「ポコッ」「ストン」などの擬態語が用いられ、石の分割を即物的に提示することが明確に意識化されてくる。現在の姿は、石に内在する力によって自然発生したように思わせるものとなる。
 こうした志向には、時間的な連続性に対する意識が深く関与する。最も左手の地面に倒れた板状の石と次の内部を四角く刳り抜いた石は原石の大きさと形状を示す。一方、右手の小さな石には多くの面に削岩機の穴の跡が残っており、幾つかの加工を経た後に出現したのを知ることができる。ここでは、左から右へと制作順序が目で追えるよう意図されており、制作後の姿の中に制作中と制作前の姿も見えることになる。
 また、時間的な連続性を提示するのには、割り跡自体も重要な役割を担う。各々の痕跡は視覚的に呼応する配置が仕組まれており、分割面は見る者の頭の中で容易に一致する。作品の表面もまた、現在の姿の中に制作中と制作前の状態を内包する。《鑿空》の石は切り出された時から現在まで同じ本質を有したままに、現象的な変化を見せるのである。

 こうした作品のあり方は、作者の個人史上での作品展開の結果として生じている。遡ると、物質が変化する様態そのものを作品化するのは、石より前の木を扱った作品の中に見ることができる。これらは、展覧会の期間中に木が次々と変化していく様子を見せる、パフォーマンス要素の強い作品である。
 最初に発表されたのは、1969年の《変位Ⅰ》(秋山画廊での個展)で、木の板に次々と手回しドリルで穴を空け、そこから生じた木屑と穴だらけの板とを一緒に展示した作品である。1970年の「現代美術の動向」(京都国立近代美術館)には、丸太をまさかりではつり続け、木屑が段々と増えるのに反比例して丸太が段々減少していく様子を見せる《変位6》を出品。そして、長さ10mの丸太を端から5cm間隔で下側に僅かを残して順次輪切りにしていく、1971年の《樹・人》(第10回現代日本美術展)に至る。(註 1)この時期には、こうした作品が集中的に制作されている。
 これらは、開始時点と終了時点では形態が極端に異なってはいるが、どの時点で見ても一つの作品の全体像を示している。彫る技法(carving)では、彫られる対象は大きな塊から小さな塊へと不可逆的に移行する。その移行の過程で生じた木屑や断片も全て一緒に展示するならば、見る者は過去の姿(現在よりも大きい)も未来の姿(現在よりも小さい)も現在の姿から想像することができる。そのために、形態の変化に関わらずに同一性をもった作品として意識されることになる。
 ここから派生して、作品の移動が念頭に置かれないようになる。例えば、《樹・人》では周囲に拡がった大鋸屑までが作品の構成要素と見なされているが、両者の関係は移動の際には失われてしまい、作品としての同一性を保持できなくなる。また、下側の皮一枚で繋がった大木をそのままの状態で運搬することも、構造的な強度を考えれば不可能である。この系列の作品は、徐々に展示場所に対する言及を強くしていくことになる。

 《樹・人》の直後からは石が用いられるようになり、展示場所の固有性を開示することを意図した、野外でのコミッション・ワークが制作の中心となっていく。1973~77年に岡山・蒜山高原で、20,000㎡のスペースに1,000トン近い花崗岩を持ち込んで一つの景観をつくりだした《石の森》を初出として、単体としての作品の枠を外した大規模な仕事が展開されていく。
 作者の言葉では〈ランドスケープ〉と呼ばれるように、それらは展示場所と展示作品との区分を持たない。作品とその延長としての空間という、近代彫刻の二元論が無効化されるのである。石という最も風化に強い(変化の少ない)物質を扱いながら、作品以前の石の原初の状態と遙かな時を隔てた未来の姿という、途切れることのない壮大な時間性を喚起することになる。
 パフォーマンス要素の強い木屑作品から石を用いたランドスケープへと展開していく問題意識――このラインの上に《鑿空》は位置する。ここでは、作品の形態ではなく、それが同一の石であることが作品の同一性を保証する。作品は、時間に沿った変化を包括する存在となるのである。
 本作は第10回神戸須磨離宮公園現代彫刻展(1986年)――野外という場ではありながら展覧会形式を採る――に出品されたものである。ここでは、会期が限定されている以上、作品は終了後の移動を想定して構想されることになる。このため、場所の固有性を開示することは困難になる。一方で、作品は展覧会の開始時点で完成した姿を見せなければならない。結果的に、物質への身体関与は痕跡としてのみ提示されることになる。
 こうした制約の中で――あるいは逆説的に制約の中だからこそ――《鑿空》は作者の身体と石との関係を明示する。展覧会という形式は現実上の様々な要素を反映させるよりも、それ自体で完結する方向へと作品を規定する。ここでは、物質に関与する作者の身振りが直接的に浮かび上がることになる。

 寺田武弘の用いる石は、制作前-制作中-制作後のどの時点であっても、その意味を変化させない。つまり、形態や表面の質感などによる表現を表現に加味することで作品が成立するのではなく、石そのものとして扱われるだけである。
 この場合の加工とは、〈手の跡を残す〉(註 2)という作者の言葉に集約される行為である。形態や表面処理は〈手の跡を残す〉ことを前景化するために従事する副次的なものと見なされる。
 石は何万年という時間の中で形成されるもので、人間の手でつくることの不可能な存在である。ここから、石とは〈手でふれることのできるもっとも深い自然〉(註 3)という認識が生じる。〈手の跡を残す〉という言葉は自然と人間の関係として読むことができる。
 しかし、そこには人間を超越した存在としての自然があるのではない。寺田武弘にとっての自然とはロマンティックなものではなく、実践的に関与する相手である。ここには、人間と自然とのむき出しになった関係のみが存在する。(註 4)重く・硬く・意のままにならない――石を扱う時には、そのことを嫌というほど経験させられる。物質は作者がどのような理念をもっていようとも、その全てを弾き返すような現実性を有している。
 そうした意識は、日々採石場に通い、職人的に石と関わる経験から得られるものである。現場では常に身体的な危険がつきまとう以上、石は受動的に観照する対象ではなく、自ら能動的に関与するより他はない相手である。私的な思いを吐露したものではない、物質との関係を直接的に提示する作品の根底には、こうした経験がある。
 そして、同じ眼差しは作品と見る者の関係にも向けられる。〈それ(作品)は一つの風景のようなもの、人はそこに何を見るか見ないか、それはその人の自由〉(註 5)という発言は、見る者を無視して制作ことを意味しない。作者がどう考えようとも、相手はその中に収まる保証がないという現実に対する自覚を意味するのである。
 ここには、主体的な行為からのみ出発できる思考がある。〈手の跡を残す〉という単純な言葉の中には、『手法』と呼び得る洞察が存在すると思われる。


註 1 《樹・人》は「アートラビリンスⅡ」(1997年・岡山県立美術館)で、《変位6》は
   「ガーデン」(2000年・岡山後楽園)で再制作が行われた際に実見する機会を得た。
  2 寺田武弘「石には季節がない」『高瀬川』38号 1981年11月10日
  3 コメント『寺田武弘展』図録 愛宕山画廊 1992年
  4 柄谷行人「『日本文化私観』論」『文藝』1975年5・7月号
  5 前掲 2


「巻き重ねる」高宮紀子

2017-01-10 10:13:06 | 高宮紀子
◆高宮紀子「Revolving basket of sixelements」(ケント紙・直径15cm・2002年)

◆えび結び

2002年7月10日発行のART&CRAFT FORUM 25号に掲載した記事を改めて下記します。

民具のかご・作品としてのかご11 
 「巻き重ねる」 高宮紀子

 以前、静岡の友人が変わったものを持ってきてくれました。茶つみのびくを腰にしばる時に使うということで、長い1本の縄をえび結びでまとめたものです。解く時は、下を引っ張って、上の輪を引き抜けば、簡単に1本の縄に戻ります。名前が「えび結び」という以外、詳しいことはわかりませんが、ボーイスカウトや海で働く人の間では必須の結びのようです。珍しいので、一緒にもらった作り方を見てやってみましたが、なかなかきれいにいきませんでした。
 えび結びの作り方は、最初に縄の端で8の字形の大きなループを一つ作ります。残りの縄を最初に作った8の字の真ん中に、同じ8の字形に巻いていきます。巻いた縄が上に重なってたまらないよう、きれいに外側に並べて巻きます。すると襟が重なったように見えます。えび結びは長い縄を絡まないようにまとめて、持ち運ぶためのすぐれた方法ですが、きれいに巻くためにはこつがいるようです。縄をしっかり引っ張って巻いてしまうと、縄が横に並ばないし、またゆるゆるに巻くと全体がまとまりません。力の入れ具合がむつかしく、縄の素材や太さが違うと、また試行錯誤の繰り返しとなります。

 えび結びとは形も機能も違うのですが、リブタイプのかごを作るとき、似た操作で作る組織があります。手になる輪とかごの縁になる輪の接点に作る蜘蛛の巣状の組織がそれです。えび結びの8の字の核は真ん中に置いた縄ですから、廻る所は上下に2ヶ所ですが、リブタイプの蜘蛛の巣状の組織は、4ヶ所にかけながら作ります。ですから、できた組織は四角い形になります。これ自体はかごの本体を作る編みの部分ではなく、後で数本のリブ(かごの肋骨にあたる材)をひっかけて、それにかご本体の編みの部分を編みます。”蜘蛛の巣“はリブを受けとめ、編みと構造体をつなぐということができると思います。かごを作る技術の中には、編んだり組んだりする以外のいろいろな方法があるわけです。

 写真の作品はケント紙で作った最近の作品です。以前、作っていたチョマの繊維を重ねた作品を作っている時、やりたいことがあって、それを紙におきかえてみたものです。えび結びからヒントを得たものではありませんが、ただ、原稿を書くのに当たり、関連する民具を探していた時、たまたま見かけたものです。あまり直接的な関連というのは無いのですが、なんとなく目にとまり、気になりました。

 この作品は以前にご覧頂いた作品の続きですが、前作と同じように、厚いケント紙を半分に割いています。形ができるプロセスも以前のものと同じですが、4本で四角い形を組んで始めています。その後、単純に巻いて重ねながら組むことを繰りかえして層を作っています。

 写真でご覧になるように、一部の構造は組みの組織と同じなのですが、それぞれの材は従来の組みとは違う動かし方をします。普通、平面的な組みの組織を作るときは、同じグループの材は同じ方向に進みます。それに対してこの作品の材は隣同士がそれぞれ反対の方向に動いています。だから、組むところでしっかりお互いの材を反対方向に引くことができます。組むというよりは、糸を玉に巻くような操作と同じですが、違うのは玉に巻く時、巻いた所がほどけないように移動しながら巻くのに対して、この作品では四角の角がストッパーになります。そういうわけで、巻き重ねていくと、どんどん角の所から材がずれて真ん中に集まっていきます。材のゆるみが出ないよう、ひっぱって作っているので、始終、材のテンションに気をつかいます。気をぬくと、その部分がゆるんでうまく重なりません。

 四角形の組み方や本数もこの作品の大事な要素です。組み組織ができる一番少ない4本で組みますが、斜めに組んでいるのではなく、縦横に材を置いて組んでいます。斜めで組むと自分で出したい形になりませんでした。また材の本数を6本にしてやってみたのですが、あまりその必要はないように思いました。理由は簡単です。つまり両方とも予想できる形になり、変化が少なかったからでした。だから形を作るという上ではあまり自由はないのですが、でもそれについて不自由だとは思いません。今のところ、4本の組みの形が周りに層を増やすことで、どんどん形が変わっていくのを楽しんで作っている、という感じがしています。勿論、自分で作業しているのですが、自分の意思で作っているというより、“え~こんな形が出てきたのか”、という感動がありました。このことは今までの形の作り方とは少し違うもので、なんとなく有機体の形を避けたい私にとって、有機体ではない新鮮な形、そんな気がしています。

「爪を切る」 榛葉莟子

2017-01-08 10:37:32 | 榛葉莟子
◆榛葉莟子「物語のおくへ」 2002年

2002年7月10日発行のART&CRAFT FORUM 25号に掲載した記事を改めて下記します。

「爪を切る」  榛葉莟子


 指先が重いような気がして、見るとみにくく爪がのびている。爪を切る。つい先日爪切りをしたばかりのはずがもうのびすぎている。爪ののびが早いと感じるのは、たいがい両手が四六時中働いているときだ。爪を切ればつまんだり、めくったり、引っ掻いたりいろいろと指先を使う段になって、切らなければよかったと必ず悔やむ。けれども数日で具合良くのびてくるので不便はなくなる。そういえば生まれてこの間、身体の部位でのびては切るを繰り返しているものといえば、爪と毛だけではないかしら。どちらにしてものび放題にしておくわけもいかず、普通は切ったり刈ったり手入れをする。表皮が堅くなったものだというこの弾力のある指先の堅さは、尖らせたりぎざぎざにしたり、さまざまな繊細な仕事の最良の道具でもある。それに爪を切るというのは、指先に多少なりとも突き出た不要な突起物を切り離すということだから、指先を包む空間はわずかに広がる。爪を切ったあとの指先に感じる軽やかさはそれかもしれない。身体から離れた爪の欠片は、もともとの乳白のカルシュウム色。

 爪を切っている時はそのこと一点に集中するもので、パチンパチンと爪きり片手に小さなカーブを作っていく。右利きは左手を意識する。左利きは右手を意識する。身体の一部がパチンの音と共に切り離されていくのだから深遠な一瞬なわけだ。深夜、アパートの壁の向こうからパチンパチンと何かを切る音がかすかに聞こえてきて、ふと眼を覚ました若い頃のある夜がふと浮かんだ。こんな深夜に何を切っているのかわからないパチンパチンという音は不気味に不思議な音だった。あの音は爪きりだったのかと今判明した。

 桜貝のような薄桃色の初々しい爪の色とはいかないが、生まれてこの間いったいどれほどのびては切るを繰り返したことか。じっと手を見るではなくじっと爪を見る。この半透明の爪を通して見るほのあかるさを何色と表現できるだろう。指先のこの堅くつるつるした丸みの小さなスペースのほのあかるさは奥底でちろちろと燃えている炎のかげの色とでも。その色を何色と絵の具の名前で言えない色はたくさんある。爪の色もそうだし、夕暮れ時のせつないような稲田の色もそうだし、回りを見渡せば何もかもほんとうは言い切ることなどできない。それにしても爪の先の空間などなぜ見てしまうのだろう。じっと見ていると身体中が顕微鏡を覗いている感覚に押されてくる。爪からつながる何やら意識が生まれてきて、その意識の流れについていくと、流れは枝葉にわかれては結ばれを繰り返しとてつもない遠いところにつれていかれる。気がつけば陽が暮れている。長旅をしたような、とめどもなく長いおしゃべりをしたような妙な疲れを眼の奥に感じる。

 爪の先の空間から眼を離すと、窓の向こうから蔓ばらの赤い花が覗いていた。想うがままに蔓をのばし大きな束の様な蔓ばらに赤い花というよりも鮮やかなマゼンダ色の花がいっぱい咲いている。射しこむ夕陽が一重の花弁の花々や緑をいっそう透明に濃くしている。外に出る。ずっと曇り日や雨続きで久しぶりに見た夕陽は、あまりにも真赤に大きく眩しい。顔を眩しさに向けると身体中に眩しさが注入されていく熱を感じる。夕陽色が降り注いだそこいら中、ほんのいっときあたりは郷愁の色彩に包まれる。薄暗がりの神社の杉木立ちの一角に夕陽が射し込むと、下草の緑は苔を敷きつめたかのような柔らかい光の緑地に変貌する。そこに杉木立ちの影の柱がくっきり写し出された荘厳な空間、ただ無言で魅入る大地のスクリーン。刻々と影は移動しつつ薄くなりいつしか見慣れた薄暗がりの杉木立ちの一角に戻っていく。刻々と変化するあたりをぼーっと見ていると、「ねえ、露草が増えすぎて今抜いたところなんだけれどいる?」と近くに住む友達が声をかけてきた。「あっ、西洋露草でしょ。ほしい」と早速自転車を引く。庭の片隅に群生する青紫の絵が浮かんでいた。友達の庭は花盛りだ。夕陽射す植え込みの陰影のあちこちから鮮やかな色が眼に飛び込んでくる。「ほらね、こんなに増えちゃって、ここを歩くと洗濯物にぽつぽつ青い色が染まってなかなか落ちないのよと」と言いながら友達はつぼみがいっぱいついている西洋露草の一抱えを袋に入れてくれた。はかなさの気配を漂わせる日本古来の露草の名とはほど遠い西洋露草の束を眺めながら、その名にはうなずけないものが残るなと思った。

「FEEL・FELT・FELT-デザインとアート(点・展・転)ー」 田中美沙子

2017-01-06 10:42:53 | 田中美沙子
◆田中美沙子 「浮遊するフェルト」 1999年 巷房個展

◆田中美沙子「WORK」  1996年   W 80× H 45cm

◆“フェルト・フェスティバル”   2000年  ノルウェー・ベルゲン

2002年7月10日発行のART&CRAFT FORUM 25号に掲載した記事を改めて下記します。


「FEEL・FELT・FELT-デザインとアート(点・展・転)-」 田中美沙子

 ●表現すること
 デザイン、アートにかかわらず創り出す喜びは共通しているでしょう。私がフェルトに興味を持ちはじめた頃は今ほどフェルトの表現が一般化されていなかつたので材料、技法など手探りで試みました。それは思い返すとフェルトを自由に扱いたいと思う気持ちからの努力で幸せな時間であったと思います。誰でも新しい事へのチャレンジは胸が踊り心騒ぐものです。継続は力なりと言われるように、続ける事でいろいろな方法を発見してきました。フェルトによる表現がある水準に達した時にまた新たな疑問が始まります。独創性のある表現はどうしたらいいのだろうか。材料の特徴をどのように生かしたらいいのだろうかなどです。自分の表現したい物は、アートなのかデザインなのかという表現の本質について考えることになりました。
 身に纏うフェルトが盛んなノルウェーの作家の衣服を見る機会がありました。衣服のポケットを蛇腹で作り物を入れると膨らむアイディアはユーモアのセンスとウールの特徴を十分に生かした独創性のあるデザインは大変魅力的で考えさせられました。また生活空間を彩るタピストリーや敷物など生活に潤いを与えデザイン、アート両面から表現する事が出来ます。

 ●翻点・翻転・翻展(岡村吉右衛門著/デザインの歴史/講談社)が語る造形の世界
 彼はこの著書のなかで次のように述べています。「よく、芸術はロゴスが先かイメージが先かと言う事が言われる。しかし、実際には初めに光があるとか、衝動から始まるといったほうが適当ではないであろうか。その光が文学者や哲学者では言葉となり、画家、彫刻家、デザイナーには形、色彩になるのである。発想は光や衝動であって、表現経過はロゴスであり、イメージであるといえば、なおよいことになろう。」
 私なりに彼の考え方を咀嚼してフェルト表現に応用しているのですが、その本質へ迫る事はなかなか難しい事なのです。しかしインスピレーションを光りに例えることから始まり経験、知識などから新たな展開へと試みる事が出来ます。また観察、描写など基本のことがらですが、独創的な表現には既成概念を破る事が必要でしょう。私はこの点、転、展の広がりある考え方は、デザインやアートに限らず物事を前向きにとらえる魅力ある考え方だと思っています。

 ●デザインと工芸
 <工芸>という言葉は、中国の唐の時代すでに使われ振るい歴史を持ちます。技芸一般を刺して使われており、絵を描く乗馬や射的にいたるまでの技術を含んでいました。現在の工芸の言葉にはそれまで広い意味は含まれていません。19世紀に入り芸術を”Fine Art ”と ”Applied Art” に分けて考えるようになり、絵画、彫刻、を純粋美術と工芸を応用美術と呼ぶようになりました。イギリスで起きたウィリアム・モリスの美術工芸運動は<Art and Craft >西欧の近代工芸を進め工業の発展により工業デザインがその分野を確立していきました。アメリカにおいては第2時大戦後この工業力を平和産業に切り替えID(インダストリアルデザイン)として開花してきました。
 ドイツのバウハウス教育もその時代の重要な役割を果たしています。基礎教育に重点を置き学習の後すべての学生は、工場実習、建築、美術などの専門分野に進みました。例えば形態教育を担当する芸術家と実際的な工作実習を担当する職人という二人の教師から学生は学んだのです。ヨハネスイッテンの色彩論やマテリアル(素材)の学習としての表面感、質感、構造、集群などがあります。現代のアートとデザインの融合の基盤がバウハウスで行われていた事は驚きです。

 ●ファイバーアート
 ファイバーアートの言葉が使われ久しくなります。繊維は身体との関わりのなかで主に発展し日本では染め、織りとして伝統的な世界を創りだしました。しかし繊維素材の構築性を考える時、素材が生み出す平面や立体、環境への可能性が引きだされてきました。それらの背景には、絵画の世界からの影響があります。シュールリアリズムの人達の展覧会では、オルテンバークによるハンバーグやタイプライターを繊維で表現した柔らかな彫刻(ソフトスカルプチュア)が現れ、テキスタイルアーチストのマクダカーレアバカノピッチはタピストリーの二次元から立体表現へ移行し美術の分野へ広がっていきました。ヨーロッパのタピストリー展では、スイスのローザンヌで1961~1992まで15回にわたり開催され平面、立体、環境をテーマに繊維造形による表現がなされそこでは、素材=技術の関係をみなおし素材の持つ生命力を独自に考えた造形表現へと進んで行きました。現在では絵画、彫刻の分野に限らずアートとしての表現は多方面で行われています。

●フェルトの表現 (布フェルト.組織.コラージュ)
 フェルトのイメージを変えた、布とウールをジョイントし薄手でしなやかな雰囲気の布フェルトは布と一体化して面白い表情を作ることが出来ます。身に纏うものからインテリアの布まで一枚の布が加わり表現するする可能性は大きく広がりました。布フェルトを制作する時使う布は薄く隙間のあるもが適切です。布の張りや透ける効果は多重にして雰囲気を盛り上げます。また柔らかな綿布はウールにひっぱられ凹凸が生まれ起伏のある表情をみせます。できるだけ細いメリノを使うと布と一体化して行きます。 また織りや編み組織を後からフェルト化してその材質感を変化させる方法は、あま撚りの糸を使い密度や編み目の大きさを決めて行きます。圧力の方法に強弱をつけると変化がより効果的です。編み目を増やしたり減らして形態の変化や隙間の疎密により柔軟性の違いを出せます。
 絵画的な表現として、いろいろな材質を組み合わせ画面を作りだすコラージュの方法をフェルトに取り入れてみました。普段から雑誌の切り抜き、好きなもの気になるものを集めスケッチブックに貼りドローイングなどを加え、イメージの世界を広げて楽しんでみるとフェルトの展開もスムースにいきます。色彩、形態、素材を通して変化する表現はコラージュの特質でもあり、加えたり削ったりの試行錯誤を心ゆくまで行う事が出来ます。
 このようにフェルトのアート、デザインの表現は多様で魅力ある世界なのです。感動する気持を持ちつづけイメージを形に膨らませたとき無から有への表現が新たに生まれるのでしょう。