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「日本の木版画:イギリスからの視点」 ロバート・ハドルストン

2017-01-03 11:36:26 | ロバート・ハドルスト...
◆ロバート・ハドルストン 「東京の壁」(多摩美術大学で制作した版画にも反映されている風景)

◆ロバート・ハドルストン「版画部分」(黒の上に白を刷ったもの)

◆ロバート・ハドルストン「多色刷りの版画」

◆ロバート・ハドルストン「Uyki」(バレン)

2002年7月10日発行のART&CRAFT FORUM 25号に掲載した記事を改めて下記します。

 「日本の木版画:イギリスからの視点」 ロバート・ハドルストン

 ロンドンにあるヴィクトリア・アンド・アルバート美術館(V&A)は大規模な浮世絵コレクションでよく知られています。1973年、V&Aは『浮遊する世界:日本の大衆版画1700-1900』という展覧会を開催しました。私がロンドンのロイヤル・カレッジ・オヴ・アート絵画科の一年生だった頃です。絵画科のスタジオはV&Aとつながっており、私はこの展覧会を繰り返し見に行きました。そのデッサン力と大胆な構図に感動したのです。この一見単純でありながら複雑さを持ち合わせ、長く視線を捉えて放さない構図をよく観察して、この構図がたった一つの反応ではなく、様々な反応を引き起こすことに気付きました。

 昨年、多摩美術大学の版画科で日本の木版画の制作過程を見学する機会を得ました。この時、木版画を現代的な表現の媒体として用いるのを見て、日本の版画をより深く知りたいと思うようになりました。また版画における日本とイギリスの差異や日本の専門技術についても考えさせられました。

 今年の四月、多摩美術大学で研究プログラムに従事する機会を得ることができました。この記事では多摩美術大学の版画の専門家や日本のテキスタイルの専門家たちとの出会いが、私の作品にどのような影響を与えたか、そして伝統的な技法とコンピュータを用いたテキスタイル・プリンティングの関係をどのように見ているか、お話させていただきたいと思います。

 日本とイギリスの美術教育の主要な違いには、日本はイギリスと比べて一つの分野を長く専攻するということがあります。版画教育も例外ではありません。日本では一つの版画技法を最長で六年ほど専攻するのに対してイギリスでは普通、三年間しか専攻しません。またイギリスでは木版画は版画という大きな枠の中の一つの技法に過ぎず、それ自体を専門とするという考え方もあまりないように思います。日本が専門化ということに重きを置いていることは、一つの領域の中に多様な技術が存在するということを意味します。この春の留学では、大学院生たちとともに制作しましたが、彼らも技術的な水準が高く、素材に対する知識も豊富でした。一人一人が特定の工程に関する知識に基づいて、独自の精巧なスタイルを発展させていました。

 私が木版画をテキスタイルとどのように関係付けられるか考え始めたのも、この多様な技術の可能性や素材の美を昨年の多摩美術大学訪問で目の当たりにしたことがきっかけでした。これほどの多様性を包含し洗練されたニュアンスを表現できる技法である木版画が、産業用テキスタイルのデジタル・プリントにどのような影響を与えることができるか見てみたいと思ったのです。

 木版画とコンピュータによるテキスタイルデザインは、技法としても視覚的な表現形式としても一見正反対です。日本の木版画は物質的ですが、デジタル・プリンティングは本質的にはかないものです。私はこの二者を並置することに興味を持ちました。また木版画が一点ずつ個性を持ちながら、一組として制作するという二つの性質を併せ持っている点にも興味を持ちました。

 伝統的な技法の物質性とデジタル・プリンティングの非物質性、そして個性と一組として制作することの並置は、テキスタイルの伝統的なプリントの将来、そして今後新たに生まれてくるプリントの将来にとって重要であると私は考えています。

 伝統的な技法から学ぶことはデジタル・プリンティングの新たな表現を生み出すことにつながり、同時にその技法を再発見することにもつながります。例えば、テキスタイルの表面加工にコンピュータを利用することを木版画によるプリントに応用することもできるでしょう。私はクラフトと産業モデルを関係付けることで、ある技法(それが伝統的なものであれ、新しいものであれ)を用いてある製品を作ったときに、その技法がその製品に活力や多様性をもたらせれば、と考えています。

 日本には木版画の原案となるドローイングを持って来ていました。これらのドローイングの大部分はワークブックに考えやイメージをまとめたもので、テキスタイル・プリントか版画にしようと考えていたものでした。これらのドローイングの多くは異なる考え方や観察結果を重ねて作ったものです。この方が既知のものを突き詰めていくより、制作過程で未知のものが現れやすくなるのです。私は単純な形体が何か複雑なものとして知覚され、緊張感の中に様々な知覚を得られるようなものを好んでいます。

 この例としては、単色で塗った平面上に粉末状のグラファイトを施したものがあります。これは浮世絵で雲母を使うテクニックと近い方法です。この方法を使うと、視線が表面に集中し、色彩が持つ奥行きを打ち消すということを発見しました。これは人の知覚が色彩の持つ奥行きと表面の質の間で振れるということです。

 伝達の媒体として非常に直接的なドローイングに対して、版画はその技法と素材のため、より発展した媒体となりました。木版画は、版に直接切り込むため、彫り跡は非常にはっきりでますが、刷りの技法や素材によって彫り跡は様々に変化します。木版画に取り組もうと考えたのは、この彫った跡の明瞭さと素材によって変化することの関係のためです。

 来日前、私は日本の版画の複雑さと豊かな歴史に培われた木版画の技法について、いくつか考えていることがありました。見当をあわせることと多色刷りの発展や色を重ねることで深みを出すことの関係、多層の構造を持つ建築と日本の版画の豊かさや繊細さの関係、日本美術の精巧さと優雅さ、日本の自然や有機的な素材と技巧の関係などが私の頭の中にはありました。また日本の文化が実に様々な国外からの影響と鎖国を通じて発展してきたものである点も忘れてはなりません。しかし日本の文化や歴史を離れたところから学ぶことと現代の日本の現実に触れることはまったく異なるものでした。

 今回の留学では、何らかの意義ある仕事をするために明確な枠組みが必要でした。木版画と今回の研究テーマの複雑さ、昨年多摩美術大学で木版画の制作を見学したことからそう考えてきたのです。そこで今回はごく単純な版画を展開させていくことにしました。まずドライポイント(版に切り込んだ線の溝に絵の具を詰めていく過程がエッチングと共通している技法)を学びました。ここではグリッド、地図、幾何学的な東京の風景を直接反映して単純な線のドローイングを作りました。

 版画を制作するときには、紙の湿度を保つためにぬれた新聞紙を利用します。私のような日本語の読めない西洋人にとっては、日本の新聞は幾何学模様として見えてきます。つまり私は常に幾何学的なパターンに囲まれていたのです。

 私はまず、直線で構成した版画とフリーハンドで描いた線で構成した版画を制作しました。版に彫りこまれた線は、木目と平行か直角か、彫った方向によって異なってきました。木村教授にご指導いただきましたが、非常に優れた知識と技術を持っている方でした。おかげで素材や日本の細やかな感性についてより深く知ることができました。

 この線に取り組んだ版画を通して、刷りの微妙な効果に気付きました。彫るときの圧力、紙の湿度、絵の具の濃さ、摺るときの圧力をごくわずかに変えることでしか得られない精錬やニュアンスがあることも理解し始めました。

 私は木版画の非凡な美しさとその技法の難しさが相互に繋がっていることを知りました。素材の状態を鋭敏に判断し、そのバランスを取ること、これが非常に難しく、作品の結果を左右します。そしてそれら全ての要素の調和が保たれると、美が生まれます。それは木版画固有の技法しか生み出しえない美なのです。

 この他に感じたことは、この媒体の美への反動とこの美をもっと複雑なものにしてみたいということです。日本の木版画の重要な特性は絵の具と紙の相互作用です。日本の紙は絵の具を吸収しますが、よくできた版画というのは紙に載っている絵の具と紙が吸った絵の具のバランスがいいのです。今回の作品では単純な線がこの相互作用を際立たせてくれましたが、この美をより複雑にしていくことで、見る者の視線を長くとどめ、様々な反応を引き出したいと考えるようになりました。

 今回の訪日の目的は、木版画と産業用テキスタイル・プリンティングの関係を探ることで、特に伝統的な技法とコンピュータ・テクノロジーを用いたプリントの違いに着目していました。このテーマをさらに発展させるため、イタリア、コモのデザイン・スタジオで仕事をする予定です。ここでは今回の発見をプリント生地の試作品へと展開させます。木版画とテキスタイルの相互作用については何かを限定せずに、今後も互いが影響しあえるものにしたいと思っています。多摩美術大学版画科の研究を通して、版画や東京での展覧会などさらに発展させたいテーマもできました。日本の専門家や院生たちとの研究する機会を得ることができたことを、大変ありがたく感じています。今後もこのような交流を継続できることを願っています。

 最後にこの場をお借りして今回お世話になった方々に感謝申し上げたいと思います。小林教授、バーナード教授、多摩美術大学の田村様、布社の須藤玲子様、東京テキスタイル研究所の三宅哲雄様、吉田未亜様、多摩美術大学の助手の方々、誠にありがとうございました。(ロバート・ハドルストン、吉田未亜 訳)

造形論のために『方法の理路・素材との運動⑤』橋本真之

2017-01-01 10:43:52 | 橋本真之
◆橋本真之 作品105~110「運動膜」、鉄、1973-1976年制作

◆橋本真之  
左「扇状運動」 鉄  1972~1973年制作
右「上昇運動」 鉄  1973年制作

◆橋本真之  作品101「外展運動(Ⅱ)」 銅   1973年制作

◆橋本真之  作品102「内展運動」  銅   1973年制作

2002年4月10日発行のART&CRAFT FORUM 24号に掲載した記事を改めて下記します。


造形論のために『方法の理路・素材との運動⑤』 橋本真之
 鉄をなめると血の味がした。少年にとって、鉄はずっしりとした手ごたえが愛着を誘う存在である。少年時代の感覚は、知識よりも先に奇妙なものを嗅ぎ取る。子供の頃遊んだ、床の抜けた祖父の仕事場は、鉄と機械油の臭いに充ちていたが、かっての私の仕事場は湿気を帯びた鉄の酸化する臭いがした。雨の日の仕事場は鬱々として、仕事をするより他にない場処である。まるで少年の憂鬱のような場処だ。

 鉄を叩く鍛金の仕事にとって、季節がかなり体調に影響する。そして、明らかに体調は持続力に影響する。日々の温度や湿度、陽の差し具合といった――天候に左右される自らの感情の変化を知るのも、毎日同じ鉄を相手に集中し続けるからである。常識の人は、そういう揺れ動く感情の持ち主を、「お天気屋」と言うけれども、鍛金家がそれを自覚するのは、シンプルで拒傲な鉄を相手にし続ければこそである。一人の仕事場で仕事をするということは、自らの存在を経験するということだ。

 鉄を全力で叩き続けて、三十分か四十分もすると、硬直した筋肉をささえている骨が軋むようで、不安を覚えるようになる。実際、伸び過ぎた爪は振動で割れる。休憩は軋む骨を休ませるために取るようなものである。激しいスポーツをする人は、このあたりの事情を良く良く心得ていることだろうが、子供の頃病気をして虚弱体質だった私にとって、重労働がもたらす肉体的変調や変化には全く経験が浅かったので、私はいつも驚きと不安を感じていた。――そう言えば、昔から「骨休め」とは良く言ったものだ。夏の熱気の中での重労働や、底冷えのする冬に鉄を叩き続ける力を養うには、二十代の若々しい回復力のある肉体の内に、充分に慣れ親しんでおかねば難しい。凡そいかなる仕事にも言えることには違いないが、ことに鍛金の仕事には、――あるいは、繰り返えす日々が造形に転化する「工芸的造形」の仕事には、三年の季節の経めぐりに耐えることが、まず必要なのだろう。三度の夏、三度の冬を経験することで、季節の肉体におよぼす苦痛が、おおよそ見えて来ると同時に、その仕事に耐えるための肉体が訓育されるのである。日本で古くから言われる「石の上にも三年」というのは、人にとって異物である素材や技術に接して、肉体が慣じむための時間なのである。その肉体感覚の変化を自覚していれば、無闇と焦って身体をこわすこともなく、自らの肉体を育てることができるだろう。おそらく、繰り返される単調な労働の積み重なりや、試行錯誤の三年の時間に耐えられぬ資質もあるに違いない。鍛金の技術自体は、それ程難しい技術ではない。むしろ、鍾乳石をつくる滴くが無限のごとく落ち続けるような、それぞれの根気の問題であるようだ。その根気で何を求めるかに問題がある訳だ。熱気の中での二ヶ月の後で、極上の秋の空気が不意にやって来る。その感触の悦楽は二ヶ月の耐え難い汗みずくを経験してこそである。そんな悦楽の一日には、次から次へと新しい考えが湧き出て、応対に忙しい。真夏ののびきった脳への、不意の冷気が与える刺激効果なのである。けれども噎せ返るように生い茂った夏草が、やがて力を失なって枯れる晩秋の夕暮に、自分はこんな仕事を一生続けられるのだろうか?と、誰しも背中に冷えびえとしたものが襲って来る。繰り返される冬の季節に、一人で仕事を続ける歓びを知るためには、仕事場に成るべく長い時間日溜りができるように工夫することだ。それは必ず落ちついた冬の日溜りの歓びを与えてくれる。そして、必ず春の芽吹きの季節がやって来て、雑念さえ避けられれば、身体はのびのびとして、誰しも仕事がはかどるはずだ。初夏の若葉の煌きの前では、あえて他に何を望むのか?と自問したくなる程だ。自らの皮膚の毛穴を全て開放するような、空間感覚の充足の時である。その極々あたりまえな事々を身につけることなしに、この仕事を長く続けられることはあるまい。

 自らの場処で物事を考えるということは、漠然たる政治論や経済論や抽象的思考よりも、自らの場処の時の変化に肉体が感応して、思考が感覚化しているところで、あえて物事を考え始めるということだろう。自らを取り巻く環境のおおもとの変化を知悉せずに、世界の歴史もないものだ。部分も全体も等価値に世界を認識するのでなければ、世界も自己も認識したことにはなるまい。すでに自分自身が何者であるのか?と問うことではなかった。どうせやわな存在である私の内の不思儀に対する関心よりも、人間である私は何者たり得るのか?の自己変革の問題が私を強く急きたてた。

 出口のない、あてどもない制作の日々が続いていた。様々な訓練を試みた。様々な素材も試みた。例えば「坑道」の二点間の距離を結ぶための、扇状の動きをつくろうとしていたと言えば良いだろうか?あるいは「歩道」の一点一点を結ぶための形態を求めたと言うべきだろうか?円筒状の鉄を絞ったり拡げたりすることによって、波状の形態が引き出されて来た。一見「林檎」から離れたようにも見えるが、それでも、林檎の五出の構造の成長の手がかりから離れることができなかった。

 八月の暑いさなか、長いこと鉄を叩く仕事に疲れ果てて、今一度後戻りをして小さな「林檎」を銅で作るつもりだった。試みに、林檎に具体的な芯を作るつもりだった。円筒を叩き絞って、その円周を縮めようとしていて、逆に円筒の縁がひるがえるのを見た時、その反転する展開が私を掴えた。空間の二重化、――ひとつながりの銅板の膜状組織による二重の空間の形成の端初を、そこに見出すことになったのである。私は銅板の張力構造である膜状組織の重層化によって、無形の中心軸を形成していることに自覚的になった。同時に内側と外側が反転して、等価な構造となる作品世界がそこに顕われた。すなわち『外展運動』であり、『内展運動』である。この時、私の作品が成立し、運動展開するための根本の構造を発見した訳である。

 重層構造を鉄を用いて試みた。あるいは、球体状の一部分から垂直方向に立ち上がって行く展開を試みた。その仕事によって、鉄で次第に大きなものを作るはずみとなった。

 当て盤で制作することにも慣れて来た。皮手袋二枚が一枚になり、その内に皮手袋も必要なくなって、左手に軍手一枚で充分になって来た。熔接と当て盤絞りは次第に自在を得て来た。

 1973年-「運動する膜状組織」すなわち「運動膜」と自らの作品世界を呼んだ。それは、私にとって「彫刻」や「絵画」と同格の概念として考え出された概念だった。最初の「運動膜」が出来た時、その軸性を持った形態は、五出の展開によって、他に中心に向かう四つの形態を次々と呼ぶことになった。最初の「運動膜」を含めて五つの形態が出来た時、おのずと中心の形態が定まった。その最後の要の形態が出来た時、最初の「運動膜」の始まりから、すでに二年半経っていた。二十代の青年にとって、二年半という自己集中の時間が何を意味するか?ひとつの物質と徹底して接触する二年半は、私に半年以上の単位でひとつながりの膜状組織を展開する、制作の時間を恒常化させた。それをひと呼吸の形態として扱い得るという、言わば「思考の呼吸法」の訓練を自分自身に強いたのである。当時、私はそのことを「一本の線を半年かけて引く鍛錬」と呼んでいた。

 日々の仕事の刻む時間が、思考の一歩と同じ歩幅を持ち得るとは限らない。仕事の刻む時間は、身体と物質が軋み合いながら、そして、精神が統御し、あるいは引きずりまわされながら刻み発する時間でもある。そうした造形思考は一歩一歩展開するが、時として跳躍する。その跳躍こそが何度もなぞられた前例を超えることである。それがなければ、造形思考は言葉の論理構造に搦め捕とられたままであろう。