ART&CRAFT forum

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造形論のために『方法的限界と絶対運動②』 橋本真之

2017-03-17 13:35:04 | 橋本真之
◆橋本真之 初期発表の「果樹園-果実の中の木もれ陽、木もれ陽の中の果実」(淡路町画廊、斎鹿逸郎・橋本真之展) 1985年

◆仕事場での制作中断状態の「果樹園-果実の中の木もれ陽、木もれ陽の中の果実」 (1978年~制作)

◆初期発表の「果樹園-果実の中の木もれ陽、木もれ陽の中の果実」の内部
(上尾市コミュニティセンター、上尾市美術家協会展)  1984年

◆初期発表の「果樹園-果実の中の木もれ陽、木もれ陽の中の果実」の内部
(現代美術の祭典、埼玉県立美術館)  1984年

2003年4月10日発行のART&CRAFT FORUM 28号に掲載した記事を改めて下記します。

造形論のために『方法的限界と絶対運動②』 橋本真之

 「果樹園-果実の中の木もれ陽、木もれ陽の中の果実」
 筋道をたどり易くするためには、話しを少し前に戻さねばならない。1978年10月20日に始めた作品117「運動膜」は、10坪の仕事場の中で、その占める空間量を次第に拡大しつつあった。この「運動膜」が後に「果樹園-果実の中の木もれ陽、木もれ陽の中の果実」へと発展する作品である。こうして制作を開始した日を特別に記録したのは、私に決するところあって、銅板に最初の一撃を加えたからだつた。この作品では当初、厚さ1.6mmと1.8mmの銅板を併用して制作していた。屋外に作品を置けば、いずれ手荒に扱われる予感がそうさせたのであったが、後々には表から溶接する火が、裏側にまで通る最も有効な厚さを選択すると、厚さ1.5mmになった。五出の方向に拡がっては反転して重層化する展開が、幾重にも折り畳まれて行くと、隠れてしまった空間やフォルムの連なりのリズムが読み切れなくなって来る。その度に発端の中心構造から読み直して、行きづまった先を発展させようとするのである。さもなければ、ぶつ切れになった呼吸のフォルムはできたとしても、強靭に連なるフォルムの展開は困難である。五出構造であるということは、中心から拡がる五つの方向軸によって展開するということであり、それは同じ質のフォルムを形成する仕事が五回ずつ繰り返し続くことになる。この繰り返しが、制作する私に仕事の時間を耐え難い緊張の長さとして感じさせるのだった。どうにも展開の先が見えなくなると、中断して別の作品を並行して制作したが、時に絶望的に長い中断を繰り返した。とうとう、このまま続行することが不可能になるのではないかと不安を覚えるほどに、手がつけられない状態に極まった。
 女房に子供が産まれた。女の子だった。その年、展覧会(注)に出品する予定で、他に早目に作品ができていたのに、いざ赤ん坊が産まれて見ると、私は搬入日を忘れてしまうほどあわてた。気がつくと、すでに展覧会は何日か始まっていて、その年私は不出品になった。女房は働いていたので、子供を保育園に預けることができる一歳になるまで、昼間の自由がきく私が子供を見ていた。何ヶ月か私設の家庭保育室に預けたが、ずさんな保育状態に不安を覚えて、私が一時制作を中断して見ることにしたのである。一日中赤ん坊の世話をした。かって林檎を見ていたように、私はただただ日がな赤ん坊を見ていた。
 赤ん坊は一日の内に様々な顔に変化する。まだ顔が定まらない状態にあって、その成長の速さを見ていると、私の中断した仕事の記憶が何とも重苦しかった。目醒めがちな赤ん坊が眠っている間だけの細切れの時間を継いで、色鉛筆による一枚のドローイングを描くのが精一杯だった。一歳になった子供を保育所に預けることができるようになって、私の仕事は再開できたものの、朝、保育所に連れて行くと泣いて私を追いかけるし、夕方迎えに行くと、他の子供が皆帰った後に、一人保母さんに抱かれて泣いて待っていた。どんな母親も経験する、子供を育てることの怒哀楽を、私も経験したのであって、ことさらな経験をした訳ではない。けれども私にとって、この経験は自らの作品制作の軽重を計りにかける重い経験だった。一人の子供の成長の前で、作品とは何か?実のところ「一個の林檎の前で造形作品とは何か?」の問いによって、すでに私はその意味を充分に自覚すべきだったのである。私は、無数の人々がこうした問いの前で、吹き出物のような作品制作を自ら放棄して来たのだと実感した。
 実際、目の前で育っている赤ん坊の隣りで、作品の価値は限りなく希薄なものに見えて来る。この切ない程の頼りなさに耐え得ぬ者は、再び真に制作に戻ることはできないのに違いない。ひとは死者の顔貌と赤ん坊の顔貌の変化とを、即ち生と死の顔貌を真に見ることで、作品世界の存在の軽重を明確に経験することができるのだろう。人の世のあたり前な経験が、私には真に制作する場をあきらかに開示したのだった。作品世界は生の凡庸な連なりの中にあって、自らの生でありながら超越する存在世界でなければ、ついに気まぐれな遊戯に終わるのだと自覚した。他者が心底深く動く程に、その存在が隆起するのでなければ、この仕事は為されるべきではない。そのように自覚した。
 けれども、この仕事において、私はいかなる展開の方途を持っているのか?幾度も幾度も最初の手がかりに戻る熟考を強いられた。この仕事は私の生の全てをかけるに値するのか?そして、この先に何が必要で、何が待っているのか?かって鉄による「運動膜」六点組みの一巡を経験していたが、その隣接する個々の作品の関係は、繰り返す形態のリズムと、それぞれの方向軸にのみ頼っていた。それはそれで中心構造を成立させることができたのだが、私にはもっと緊密な展開の結接力が必要だった。さもなければ、私は私自身の生の脆弱さに負けて、展開を放棄してしまうのではないかと怖れたのである。私は作品の内部空間に見入っていたが、この徹底的な充実こそが、後の展開への強いバネになるはずだと確信していた。そこに私は「絶対運動」の成立を願望した。
 疲れ切って、仕事場でぼんやりとしていた。私は白昼夢を見たようだ。草むらで輪になって踊っている14・5歳の少女達を、遥か遠くに見おろしている自分自身に気付いた。緑の中のその生の軽やかな輪に光が射していた。私は瞬時に覚醒したが、手をつなぎあって回っている輪の、その鮮かな充ち足りた光景の幻想がいつまでも私を捉えていて、おのずと「運動膜」の弱点を指摘しているように思えた。作品は、彼女達が手をつなぐように連らなり、結接するのでなければならない。私はそのように考えた。
 貝が成長するように、私は私自身を育てねばならぬ。その成長痛によって、自己の成長を知る程に、私は制作の中で作品同志の関節を形成しながら軋むのである。発端となる中心部は遅々として進まなかったが、その剥き出しの多重構造は仕事場の空間を圧迫していた。その傍らで新たな制作を始めた。中心部にいずれ結接してつながる内部ができた時、その部分の展開ごとに次々と発表して行った。この展開がいかにして進んで行ったのか、今では思い出すことが困難な程、紆余曲折して形態の筋道を捜して行った。ドローイングを描きながら想像する。現に目の前にある形態の展開の切先を見て想像する。夕暮れの仕事場で、明日の仕事はこうなるはずだと思い定めて家に帰るのだが、朝の仕事場に戻ると、再び途方に暮れることが度重なった。それでも、まず叩いて見る。ひと打ちごとの銅板の形の定まらない揺れ動きを前にして、私は綱渡りをしているような心もとなさ、呼吸の苦しさを覚える。一週間もそんな状態が続いた後に、ようやく形の方位に納得して、次の一歩を踏み出しては、再び一週間も二週間も宙に足がかりがないままの思考が続くのだった。いかなる形状に行き着くのか?事前に知ることはできなかった。ほんのちよっとした銅板のひとくねりが、内部と外部とがせめぎ合う展開を大きく揺さぶるのである。けれども、昨日までの仕事が確実でありさえすれば、いかに迷っても、昨日の仕事の場処から再び考えることが出来る。この仕事がいかに困難な展開の筋道に迷い込んだとしても、私にとって心強かったのは、思考の遅疑逡巡をゆっくりと待ってくれる金属の抵抗感を相手にしていることだった。さもなければ、私はあの長い中断に、再び考え始めることは出来なかったに違いない。鍛金という方法が真に私の思考力になっているのを感じたのは、実に、この経験によってではなかっただろうか?
 1985年、淡路町画廊での発表の「果樹園-果実の中の木もれ陽、木もれ陽の中の果実」の部分を見て京都国立近代美術館の学芸員F氏から電話がかかって来て、これまでの作品の写真をあるだけ見せて欲しい、雑誌で紹介したいというのである。きちんとしたポートフォリオというものを作っていなかった私は、写真の焼き増しに手間どっている内に、じれったそうに再び電話がかかって来て、東京に出るので会いたいということだった。
 ビアホールのテーブルについて、ひと通り受け取った作品写真を見た後で、「あなたの仕事は彫刻なのですか?」というのがF氏の開口一番の質問だった。「私の仕事は鍛金による立体です。」同じ質問が二度繰り返された。質問に答えていないと受け取ったのだろうか?私の答えは同じだった。F氏は同じ答えを聞いて、納得したように次々と質問を始めた。私は、今ではその内容をほとんど覚えていない。話しながら、二人共ビールを大ジョッキで三杯も飲んだ。ひととおりの話が終わって、別れ際に少し危険な酔いを感じながら、私はF氏に話した。「今日、私はケンカになるかも知れないと思って来ました。」「いえ、そんなことはあり得ません。私は最初からシャッポを脱いでしまっていますから。いずれ私が美術館を辞める前に、あなたの作品を収蔵することになりますよ。一度京都でも展覧会をしませんか?どこかあなたの作品が展示できる画廊を紹介しますから。」
 お堀端の柳の風に吹かれて、東京駅までひとりで歩いた。私は軽い酔いに浮き足立った。

(注)1978年の「埼玉、美術の祭典」

『手法』について/前田哲明《Untitled2003》 藤井 匡

2017-03-11 14:26:32 | 藤井 匡
◆ 前田哲明《Untitled2003》鉄、(Mixed media) 355×519×300cm
撮影:桜井 ただひさ

2003年4月10日発行のART&CRAFT FORUM 28号に掲載した記事を改めて下記します。

『手法』について/前田哲明《Untitled2003》 藤井 匡


 かつて、前田哲明の作品は〈制作に向き合う作家本人の〈身体〉性がまずあり、その〈手〉という機能的なツールを通してこそ、物と空間〈場〉がはじめて結び合う〉(註 1)と評されたことがある。それは、作品と展示空間とが密接に結びつきながらも、作品と空間とが同義ではないことを指示している。制作と展示とは分離されており、完結性をもつ作品を核とする空間が構築されることを意味するのである。
 この場合、見る者にとっては、作品世界が受容すべきものとして、作者から一方的に与えられるのではない。〈作者-作品〉の繋がりと〈作品-鑑賞者〉の繋がりは分離されており、二つの体系の連続性は保証されない。見る者は〈作者-作品〉の外部に位置し、見る行為に主体性を発揮する存在としてあり続ける。
 だた、最新作の《Untitled2003》では、この事情は多少異なる。それは、作者が〈私が最近の制作の中で、常に念頭に置いていることに、「空間」へのはたらきかけがあります。〉(註 2)と言うように、制作現場から展示現場での作業により重きが置かれることから派生する。ここでは、見る者と作品との関係が作者によって予め織り込まれるため、作者にとっての作品と見る者にとっての作品が一致する方向へと進む。つまり、〈作者―作品―見る者〉と連続する関係を生み出していくようになるのである。
 だが、それでもなお前田哲明の作品は、作者と見る者が同一の作品世界を共有する予定調和性からズレている。見る者は、作者が描く世界像を一律に体験することはないのである。それは、作者側からすれば、主体的な意志によって作品との関係形成を試みるような見る者を受容することを示す。ここに、作者の一貫した志向を見ることができる。

 《Untitled2003》は、八本の鉄柱を立てた間に、天井から瓦の破片を天蚕糸で吊した作品である。柱の形態は、四~五枚を重ねた薄い鉄板を焙りながら、円筒形の型に巻きつけて成形される。このとき、斜めに巻かれていくことから、表面には螺旋状の運動感が表出される。そして、瓦片がその間を埋めるため、八本の柱は一体のもの(相互に関係づけられたもの)として捉えられ、柱の運動感は空間全体で体現されることになる。
 この柱の表面には全て、熔接棒を熔かした痕跡が残される。こうした手作業から生み出される表面には機械的な規則性は発生しない。そのため、各々の箇所の全てに固有性が開示され、見る者は表面を逐一目で追うように導かれるのである。
 さらに、表面の中にも二種類の制作方法が使用されており、体験される事象はさらに複雑化される。入口側の四本では、熔接跡がそのまま残される凸状の表面であり、内から外へ向かうボリューム(量)をもつ。対照的に、奥側の四本は熔接を行った後にそれを研磨することで凹状の表面をつくり、外から内へ向かう方向性を把握させるマッス(塊)となる。量と塊という、部分と全体とが即応する彫刻上の基本認識に則ることで、作者の仕事に通底する、空間の核として存在する求心性が獲得されるのである。
 しかし、この作品では表面と空間との関係が前景化されるため、作品は閉じられた表面による完結体ではなく、遠心的に周囲と繋がるものになる。この場合、見る者に対して、作品は世界像を受動させる在り方を開示することになる。
 それは第一に、表面と空間との分節箇所を反復的に提示して、作品と空間との関係を強化することによる。鉄板は螺旋形に加工される際に、複数枚が完全に一致せずに隙間が生じるため、板材の四方(表面の限界)が多数出現するのである。ここから、彫刻→空間という成立順序の前後関係は解消され、両者が接する場所が意識されることになる。
 第二に、柱の長さを展示空間の床面から天井までの高さに一致させることで、展示空間への従属性をもたらす。第三に、柱の内部に入れられた足場用のジャッキベースに表面を支持させ、視覚的には自立するための垂直性から解放する。第四に、重力に対して自らを支えるに不安を抱かせる薄い鉄板が使用されることで他律的な性格を付加する。
 こうして、空間との関わりにおいて、作品の自己完結性は解体されていくことになる。併せて、螺旋形に連続する表面が、必然的に見る者の位置を移動させる。このため、作品は瞬時に即物的に把握されるのではなく、複数の体験を総合することで出現するのである。

 《Untitled2003》では彫刻的な要素が存在する一方、インスタレーション的な要素も見受けられる。この二つが背反せずに存在する両義性によって、作品は特徴づけられる。これは、作品が観念的に組み立てられたのではなく、作者の経験を基に生じたことを示している。
 前田哲明は以前から展示空間を占有する大型の彫刻を制作してきた。ただし、それは〈私の中で「もの」というものが「空間」以上にウエートを占めていました〉(註 3)と言うように、単体あるいは単体の組み合わせで成立するもので、空間の方が従属的に扱われてきた。《Untitled2003》は、この点においては、大きく性格を変えている。
 例えば、この約一年前に制作された《Untitled 01-B》は、歪みをもつ多数のアクリル板をH鋼で繋ぎとめた、強い一体性を所有する作品である。見る者は単体としてある作品の外側に位置するため、作品世界に対して客観的な視点を想定することができる。このとき、作品と見る者とは分離されている(個と個とが対峙する)ゆえに、作品を他者として扱い得る。
 しかし一方で、二つの作品で不変の性格も見受けられる。四方の壁に対しての距離は《Untitled 01-B》と同様であり、この点からは同様の体験がもたらされる。底面積も高さも展示空間のほとんどを占有する大きさゆえに、見る者には壁沿いに歩く幅が残されるのみであり、作品と距離を置くことはできない。そのため、単体としての彫刻でありながらも空間にも意識が向かうのである。このとき、身体的な受動性が強く与えられるため、自己と対象とを完全に分離して把握することは難しくなる。
 こうした作品を視野に入れるならば、《Untitled2003》の彫刻的要素とインスタレーション的要素は以前から多少のウエートを変えただけのものであることが分かる。「もの」から「空間」への移行は明確なシフトチェンジではなく、むしろ連続した展開として了解されるのである。
 《Untitled2003》では、空間への比重が加算されるとしても、空間自体が彫刻に先行するのではない。以前の作品と同様、〈手〉を経た作品を通して空間が確認されるのである。

 《Untitled 2003》は床面と天井面とを取り込む――単体の彫刻でも通常この方向に視点は設定されない――ものの、側面の四方までを統制することはない。それは、柱の螺旋運動が垂直方向だけに制限されることと軌を一にし、見る者を作品世界の外側に留まり続けるように規定する。ここには、作品と見る者の関係を作者サイドから静的に固定するのではなく、両者共を主体として扱おうとする志向が存在する。
 この志向が一貫したものであることは、作者が初期から作品タイトルとして「Untitled(無題)」を使用してきたことにも窺われる。作品世界と見る者とを一義的に繋ぐことを願うならば、これほど不適当な名称はないだろう。ここでは、両者が共有すべきイメージを作者が事前に方向づけることが回避されるのである。
 作者が提示するのは、作品とは見る者に対自的に見出される存在であり、それを通して見る者自身が対自存在であることの自覚を促す関係の形成である。それは、作者の自我と見る者とが、あるいは見る者の自我と作品世界とが一致する保証が何もないようなコミュニケーションを生み出す。
 この作品が発表された個展はRESONANCE(共鳴)と名づけられたものである。それは、作者が規定する作品世界から、見る者を演繹する態度からは生じない。そうした観念的な「見る者」は自分に擬した表象でしかないのだから。共有すべきものが予め想定されていない場所にいる「見る者」によって、作品世界が基礎づけられることから可能となるものである。それは、自己と世界とが想像的に同一視される自己中心性とは無縁なものである。
 共有すべきイメージが前提とされない以上、両者が繋がることに根拠はない。その上で交感が生じた時にこそ、それはRESONANCEと呼ばれるものとなる。

註 1 高島直之「〈モノ〉の同一性と〈場〉の非同一性―前田哲明の仕事―」ときわ画廊個展パンフレット 1998年
  2 作者コメント「前田哲明展」チラシ ギャラリーGAN 2003年
  3 前掲 2


『螺旋の組織』 高宮紀子

2017-03-08 13:18:59 | 高宮紀子
◆高宮紀子 無題 紙バンド 25×40cm 2003年

◆髪どめ

2003年4月10日発行のART&CRAFT FORUM 28号に掲載した記事を改めて下記します。

民具としてのかご・作品としてのかご 14
 『螺旋の組織』 高宮紀子

 民具を売っているお店だけでなく、いろいろな場所で、造形的な面白さにあふれた物を見つけると楽しくなります。かごでなくてもいいのです。大きい物なら写真に撮ったり、買える物ならば、しばらく迷うこともありますが、たいていの場合衝動的に買ってしまいます。組織構造に興味を持つ人は、たいていこういう傾向があるのかもしれません。

 最近見つけた面白い構造は、写真の100円ショップで買った髪どめです。一見すると、どうなっているのか、わかりませんでしたが、正体はバネ性のワイヤーを螺旋状に巻いた物です。ワイヤーの端と端を繋げ、コイル状に細かく巻かれていますが、バネ性のため、長く伸ばしても元に戻ります。コイルを伸ばせば、どういう構造になっているのかがはっきりわかりますが、一見するとこの不思議な力関係が謎に思え、気になって買ってしまいました。

 この髪どめの螺旋状の輪は、1本のワイヤーによるコイルで編んだり組んだりはしていません。このような構造、つまりお互いの材同士が繋がる点が極端に少ないか、ただ接するだけということで、自立した立体を繊維で作ろうとすると、ばらばらになるか、柔らかすぎて全体の形が定まらないかになってしまいます。

 ただ、組織を螺旋状に編むことは可能です。自然に螺旋状の組織を作るのには、組織自体の力関係に歪みが必要ですが、これにはいくつかの方法があると思います。一番シンプルな方法が材をずらして編むことだと思います。延びる組織ということであれば、沖縄の玩具や南アメリカのこし器のように、斜めに組むプレイティングの民具で組織が伸びて元に戻るものがありますが、繊維による螺旋状の組織では伸ばせても、直ぐに元の形に戻るというのは難しいのでは、と思っていました。

 ところが、最近になって螺旋状の組織で面白い物を見つけました。前回に、ハワイ島に行ったお話をしましたが、その時、いろいろなレイを首にかけてもらいました。たいてい美しい花をつなげたレイが多かったのですが、植物の実や小さな貝を螺旋状につなげたレイが珍しく美しいものでした。この螺旋状のレイをリボンで編んで物がお店で売られていました。細いリボンで編んだレイで、やや平面的な組織がぐるぐると螺旋状になっています。リボンは化繊でできていて、素材自体に伸びる性質はありませんが、組織構造が螺旋状になっており、ぐんと伸ばすことができ、直ぐに元に戻ります。これは今までに見たことのない性質でした。リボンという薄い柔らかい素材、それ自身では自立しない素材でも螺旋状の立体構造になっているので、初めて見た時はこのバネはどこから来ているのか、不思議でした。

 このレイの組織構造は、折りたたんで組む組織で作られたものと同じだということがわかりました。みかけは違うのですが、材の動きは同じでした。この組織方法はあまり見ないかもしれませんが、昔から使われてきた方法です。紙などを薄い素材を使って箱を作ったり、タバコなどの空き箱で鍋敷きを作ったりする方法と同じです。

 同じ組織方法でできた物で、やはり不思議に思っていた物があります。数年前、NGOのフェアーで買ったブレスレットです。螺旋ではなく、同じ組織方法でまっすぐに編んだものですが、平べったく固い素材で折らないで組まれているため、組織の間に隙間があいています。初めて見た時は、いったいどんな組織なのかわかりませんでしたが、知っている組織方法で作られていて、素材が違うだけだと分かった時は驚きました。以後、気になっていたのですが、レイを見た時に、みかけの構造が似ていると思いました。

 レイの組織はこのブレスレットと同じ組織方法で、2本と6本の材を直角に交差させて、長方形でスタートしています。ただし、なんで螺旋状になっているかといいますと、2本の所の材だけ、毎回ずらして編んでいるのです。毎回、ずらして編むので、毎回重なっていく組織の場所がずれてはっきりとした螺旋状の組織ができています。レイのバネについては、リボンが薄くて表面が滑る性質の素材であることが、螺旋状の組織で伸び縮みする要因ではないかと思いました。

 先日、紙バンドで折りたたんで組む方法を使って何か作ってみようと思った時、ふとレイのことを思い出し、ずらして編むことを違う方法で作れないか、と考えました。そこで、4本と4本を交差してスタートし、縦、横の両方をずらしてみようと思い、作ってみたのがこの作品です。縦、横ともずらして組むので、結果は螺旋という感じは弱く、したがって組織も伸びたりはしません。がっちりしていて、動かない構造ができました。まっすぐに折りたたんで組んだ物と比べると、柔軟性があり、曲げることができます。二箇所を強く曲げて繋げました。

 民具だけでなく、面白いと思って集めておいた物が、それから長く忘れ去れても、ある時、何かのきっかけで再び互いにリンクすることがよくあります。そうすると、日頃、当たり前のように見えていた物が輝きだしたり、当たり前に思っていた方法が、一つのきっかけで、まだまだ可能性があるということに気付くこともあります。このことが楽しく、だから今まで続けてこられたんだと思います。まだまだ、地方や外国の面白い物に出会う時、へえー、こんな面白い方法があるんだ、と感激することがあります。ひょっとしたら、この作品で行った組織方法は、世界のどこかで既に民具や飾り物などを作る方法として使われているかもしれません。保存のスペースが残る限り、これからも物集めを続けることと思います。

「冬の色彩」 榛葉莟子

2017-03-03 13:16:18 | 榛葉莟子
2003年4月10日発行のART&CRAFT FORUM 28号に掲載した記事を改めて下記します。

「冬の色彩」 榛葉莟子


 散歩の帰り境内の木立ちに入った時だった。わんわんと頭の上から犬の吠える大きな声がした。はっとして見上げると一羽の大きな鳥が杉の枝にいる。あの鳥だ。犬のなき真似上手の鳥。わんわんまたないた。その様子は庭にいるはずの犬を呼んでいるように思えたし、私の帰りを待っていたようにも思えた。私は小さい声で鳥に言った。「リッキーはね、もういないの。死んじゃった」すると鳥は大きく翼を広げた。それから私の目の前をゆっくりとカーブを描きながら高く高く飛んでいった。鳥は境内で一番大きなホオの木のてっぺんに静かにとまった。

 仕事部屋にいることが苦痛の冬の日々が続いた。登校拒否ならぬ登室拒否。寒いからなどと自分にいいわけを繰り返しても、おさまらないものが自分の内部に渦巻いているのはわかっている。尻をたたいて部屋にこもってみても、どこか定まらぬ宙をぼんやり眺めて空っぽの一日が終わる逃避の冬の日々。「自分の感受性くらい」という茨木のり子の詩のおわり頃の行に「駄目なことの一切を時代のせいにするな、わずかに光る尊厳の放棄、自分の感受性くらい、自分で守れ、ばかものよ」と。ばかものよと自分を叱っているうちに春近しである。薄曇りの空をバックに見る向こう岸の裸の黒い雑木林、几帳面に描く友達の絵に似た細い小枝の重なりを美しいと思えた。その中にちらちら萌えはじめた宿り木の球体ふたつと眼があう。

 気まぐれに本棚の掃除をする。もともとこの本棚は廃校になっていた裏の小学校のプールの脱衣室にあったもので、ブルトーザーが来る前に譲ってもらったものだ。木製のそれは25センチ四方の桝型が50個口を開けている。寒冷地の短い夏の日々、キャッキャと子供たちが歓声をあげながらシャッやらパンツやらを投げこんでいたそこに、いまは本が並んだり積んであったりする。思い立ってはじめた掃除は処分できずに、はじっこの暗がりで埃をかぶった本との再会になったりもする。それはずっと口をつぐんだきり積んだままの森茉莉の木であった。二十代半ばの頃、ふと手にした銀色のカバーに包まれた一冊の本の中身から、漂ってくるぎらぎらした光線とは無縁な頽廃的な気配の匂いに魅かれた。洒落た漢字の魅力や懐かしさを含んだ香りや音、色、光の匂い、それら物の質感が自分の感覚と触れあうなにか共通を感じた。かげりの気配が感じられるものになぜか魅かれる自分が、どこか不自然なのだろうかとの自分への引っかかりが払拭された若い時期に出会えた恩ある本でもあった。好きにやっていいとの安心の雫がぽとりと滲みた解放感を覚えている。若いその時期、森茉莉の散歩の街下北沢にながく暮らしはじめたきっかけでもあったミーハーである。けれども自分の興味関心に結びつく物事に関してはと前置きがつく。

 そういえば匂いとの再会もある。いっだったか本棚のそんな暗がりにあった汚れた一冊の文庫本をふと手にとり頁をぱらぱらめくると、薄荷の匂いが本の中から漂ってきて驚いた事があった。記憶の奥底に滲みていた薄荷の匂い。本のサインが遠い日の人の筆跡であるのが、いっそう不思議だった。本の中に閉じ込められていたそれは、自分だけが知っている埋もれていた薄荷の匂いであった。忘れていた人を思い出すきっかけは、時に思いがけない所から顔を出す。いま、誰もが毎日のニユースに映る画像に胸を詰まらせる日々であると思う。海の向こうに帰国する兄弟を、さようならと笑顔で見送ったずっと遠い日があった。ある日突然、忘れていた遠い日の懐かしい人を思い出すきっかけは、あまりにもつらいニュースからだった。学生相手の素人下宿屋でもあった十七歳の頃、大学生の兄さん、私と同い年の高校生の弟が下宿していた。神田の本屋に一緒に行くときカンダにカンダと笑って国の言葉を教えてもらったりした(記憶に間違いがなければ行くはカンダという)ことなどが、あの頃の顔のまま昨日のことのように次々と思い出される。どうしているだろうか。そればかり。

 陽が傾きはじめた時刻に、急な用事があって路地裏の上り道を歩いていくと、前方の曲り角寸前の日陰の道のそこだけ妙なほの白さが浮いているように見えた。何だろうと思って小走りに近ずいた。たったいまアスファルトの表皮を剥がしてもしたかのような楕円形が、ほの白いオブラートにも似た神秘的な透明を醸し出していた。不意に高い空を見上げた。いまここに何事か起きていると思った。それから周りをみまわした。道の縁に満月のようにミラーが立っていた。かすかな夕暮れの陽を受けミラーはうっすらと光りを染め、つかぬまの楕円を日陰の道に映していたのだ。ああ、そういうことかと頭ではわかったつもりでいたが、なにか地下深い奥からの光りが漏れ出ているかのような、幻想を誘う楕円の空間の色に魅かれて立ち去りがたく動けなかった。そうしているうち楕円の空間は水面に変身した。一歩足を踏み入れたなら此の世でない世界に吸い込まれてしまいそうに静まりかえっている。耳の奥でポチャンと音がしたような。おそるおそる覗いたならば自分がそこに映っていて、さらに自分とよく似た者がぞろぞろ果てしなくつながっているのではないだろうか。ふと、そんな気がした。

「ファイバー界のパイオニア 島貫昭子先生」  中野恵美子 

2017-03-01 15:57:21 | 中野恵美子
◆嶋貫昭子「Ply Split」個展作品 34×48cm 絹着物地・麻糸 2000

◆嶋貫昭子「Jardin inconnu」(第7回国際タペストリービエンナーレ展・ローザンヌ)  285×328cm  原毛・綿・ウール糸  1975

◆嶋貫昭子「Reflection」(第8回国際タペストリービエンナーレ展・ローザンヌ)  180×300cm  アクリル板・テトロン糸  1977

◆嶋貫昭子「Extension」(第3回ロンドンミニアチュール展・ロンドン)
20×20×9cm  和紙・化学繊維  1978

◆嶋貫昭子「Corduroy」 個展作品 
25×25cm  綿糸・テトロン糸   1984年

◆嶋貫昭子「Sprang 展」(現代、織の表現展・東京)
100×100×10cm 麻糸  1989

◆嶋貫昭子「Double Weave」個展作品
30×30cm  綿・麻糸   1992

◆嶋貫昭子「Ply-Split」 個展作品
30×30cm  着物地・綿コード  2002
 

2003年4月10日発行のART&CRAFT FORUM 28号に掲載した記事を改めて下記します。

「ファイバー界のパイオニア 島貫昭子先生」  中野恵美子 
「テキスタイル・アート」、「ファイバーワーク」、「ファイバー・アート」といったことばが続く新しい染織を戦後の日本に上陸させた先駆者として、「島貫昭子」の名は燦然と輝く。しかも研究をたゆまず続けられ、その成果を現在でも個展の場で発表されているがその内容は後追いを辞さない。今回は本誌24号の藤本経子先生に続いてやはり東京造形大学でお世話になった島貫昭子先生について記述させて頂く。(以下敬称略す。)

人は様々な人、そして本との出会いで道が開かれてゆく。島貫昭子の場合も然りである。「織」の世界というものを身近に知ったのは戦後2期目の女子学生として入学した東京芸術大学で、「綴織り」を習っているという後輩からであった。授業の課題で提出したバッグのデザインが、「織物みたい」と評されたことから染織に興味をもち始めた時に「綴織り」という世界の存在を知ったことが次の世界を開くことになる。しかし「織物ではすぐに食べられない」ということで美術教師の道に進み、中学、高校、そして幼稚園でも教える。芸大卒業後しばらくは絵を描いていたが、描くことに違和感を感じ始め、人から譲り受けた古い織機で独学で実用品を織り始める。材料は、糸といっても残糸だが尾張一の宮へ夜汽車で買い求めに行ったという。そして生活工芸展(朝日新聞社主催)にウールの帽子や羽織を出品し、従来のものとは異なるデザインが評価され受賞する。その後1956年に結成された日本デザイナークラフトマン協会(後、1976年に日本クラフト・デザイン協会に改称)に発表の場を移す。丁度その頃クランブルック美術大学院(米)で学び帰国して間もない藤本経子氏や、スウェーデンで織物を学んだ水町真砂子氏に出会い、織の内容の広さ、深さを知る。
60年代後半の日本は北欧デザインやクラフトの全盛期で、デパートの催し等を通じ紹介される北欧にあこがれを抱いていた島貫は水町氏の帰国談により留学願望をより強くした。1969年勤務先の短大より私学研修費を得て初めての海外研修に半年間旅立つことになり、研修先としてまず籍をおいたのがストックホルムのハンドアルベテッツベンネル(手工芸友の会)であった。そこにはタピストリー工房の他に織物教室やニードルワーク等の部門もあり多様な北欧テキスタイルに触れるよい機会となった。
タピストリー部門は当時スエーデンテキスタイル界の第一人者といわれたエドナ・マルティン女史が主任で、丁度完成したばかりのタピストリー(著名なスエーデン画家の下絵による作品)が展示されており、同年スイス、ローザンヌで開催される第4回国際タピストリービエンナーレ展に出品されるものであった。1ヶ月余のスエーデン滞在で美しい北欧の風土やデザインに食傷気味の島貫にとり、日本では耳にしたこともなかった国際タピストリー展やその他の情報は未知の世界であるだけに魅力的であり、広くヨーロッパ各地の作家や作品に触れたい思いにかられ、北欧を離れることになる。
最初に訪ねたポーランドは、心地よく生活ができた北欧とは異なり全てが不自由であったが、それにも拘わらず、アートの世界は活気に満ちていた。繊維工場が改装されたウージ・テキスタイルミュージアムは今日でも国際タピストリー・トリエンナーレが開催されるが、当時は壁面も照明がままならず薄暗かった。しかしそこに吊り下げられていた多様な作品群はパワーに満ちており島貫は圧倒される。それらがマリヤ・ワーシケヴィッチ(マグダレーナ・アバカノヴィッチ(註1)の師)始め、その後のローザンヌで活躍する作家達の作品であったことを後日知る。続いてワルシャワのヨランタ・オヴィツカ(註2)の工房やパリのドウムール(註3)等で興味深い作品に接しながら、待望のローザンヌにたどりつく。元は宮殿であった美術館の各部屋の高い天井と広い空間には、平面から脱皮したものや可能性を求める自由な作品が繰り広げられていた。それらを目の当たりにして衝撃を受け、帰国してからはそれまでの実用的な織物とは異なる制作に取り組み、1975年の第7回展、77年の第8回展国際タピストリー展に出品する。水町氏との出会いが北欧へ、そしてエドナとの出会いがスイスへ、さらに最終的には自身のローザンヌ出品へとつながって行った。初めての海外の旅が太い1本の線となった。その後も国際展の出品を重ねる一方、海外情報をもとに織の研究を地道に続ける。
1973年頃だったと思う。筆者が造形大の学生の時に一冊の英語で書かれた技法書“THE TECHNIQUES OF RUG WEAVING (1968)”を授業で島貫先生から紹介された。技法書の少なかった当時、それはさながら織の世界のバイブルのようであった。我々もその分厚い本に感動し、むさぼるように訳したりサンプルを作ったりしたものである。著者のピーター・コリンウッド(Peter Collingwood)(註4)は1922年英国に生まれ、長じて医学を学ぶ。1947年軍部の仕事で英国南部にいた時に織物に興味を持ち始めたが、さらに1949年ヨルダンに従軍した折、現地の染織品に接しとりことなり、1950年には医学をやめ織物の道に進む。織物スタジオで働いた後1952年に工房を構え、床敷のカーペット、マクロゴーゼの壁掛けを中心に制作する。エリザベス女王より‘Sir’の称号を受ける。織の技法書の出筆に際し、医学を学んだその科学者としての姿勢が遺憾なく発揮され、合理的かつ適格な分析、記述となっている。しかもその本は藤本経子氏に紹介されたという。人のつながりをあらためて感じる。
「技法の展開」を作品制作の中心におく島貫にとり、コリンウッドはまさにピッタリの師となる。“THE TECHNIQUES OF RUG WEAVING”には敷物を中心に綴れ織、スマック織、パイル織、ブロック織等の技法について細部に至る迄詳しく記述されているがそれらのサンプルを実際に制作し、1984年にはパイル織の一種である「コーデュロイ技法」に基づく作品を個展で発表する。続いて1989年には“THE TECHNIQUES OF SPRANG- Plaiting on Stretched Threads-(1974)をもとに「スプラング技法」の作品を発表する。スプラングとは平行に張られた糸を緯糸なしに組み、面にする技法のことであるが、はじめはスエーデン製のリネンの色糸を使用していたが、後には骨董市で入手した古い絣布をスプラング作品に用い始める。布を用いるということは既に織られた布の表情を作品に取り込むことで別の表情が生まれることが面白いという。布裂の変容に惹かれ、1994年から98年の個展には「布によるスプラング」、「スプラングによるレリーフ」を発表する。
ピーター・コリンウッドは上記に続いて次の4冊を出版する。
◆“THE TECHNIQUES OF TABLET WEAVING”(1982)(カード織。数枚の8cm角位のカードの四隅の穴に糸を通し重ねて持ち、回転させて杼口を開口させ緯糸を入れていく技法でベルトを織るのによい技法)
◆“THE MAKER'S HAND A Close Look at Textile Structures ”(1987)(糸状の要素が機能的な構造を有すものを中心に作り方を分析、図式化したもの)
◆“RUG WEAVING TECHNIQUES BEYOND THE BASICS”(1990)(THE TECHNIQUES OF RUG WEAVINGの続編)
◆“The Techniques of PLY-SPLIT BRAIDING”(1998)(プライスプリットという技法はヨーロッパでもあまり知られていないが、遊牧民の間でラクダのベルト等を作るのに用いられる技法)
 いずれも具体的な資料に基づいた綿密な研究と解明がなされているが、島貫を最も惹き付けたのがプライスプリットの技法である。以前、アメリカを旅行した折にワシントンDC市にあるテキスタイルミュージアムで“Ply-split Camel Girths of West India”という本を入手して以来気になっていたというベルトの組み方がコリンウッドの本には克明に研究され、図解されていた。撚りあわせた糸を操作しながら面にする最も初原的なものである。以来とりつかれるようにサンプル制作を始め1998年の個展で作品を発表する。
 作品はいずれの技法であっても、それぞれの技法から様々な様相が導きだされ、彼女特有の素敵な色遣いで展開されている。一つの技法を展開し、発表し、ゆきつくところまでいったかと思う頃にコリンウッドの次の本が出版され、それにつられてまた次の目標が始まったという。現在では国内でもそれらの技法に関する本が出版されているが、コリンウッドの本には本の厚み分の内容があり、積み重ねの上で理解ができるし、また、きちんとサンプルを制作することでファイバーの組み立ての可能性が広がるという。じっくりと根のところから物事を始めることの重要さが伝わる。
 プライスプリットは素材に下撚りと上撚りをかけ、コード状の材料を作ることが作業の3分の1を占めるが、それだけに作品のサイズ、形体に適切な素材の選択が重要であり、これは試作を重ねながら自分の手と目で確かめることが求められその工程を省くことはできない。島貫はその魅力について「織機は用いないが織からつながり、織とは切り離せない。制約が少なくシンプルな分、異なった視点からの発想でアイディアが広がる。遊牧民が必要に迫られて作り出したものだが、より美しいものにしたいという欲望が機能だけの帯ではないものにしている。人間の手技が如何に素晴らしいかあらためて感動させられる。ピーターさんの情熱で解明されたその技法を広め伝えたい。実際に手を動かしながら見えてくる形を大切にしたい。」と語る。全ての図版にそって作られたサンプルの量が彼女の時間と情熱を物語る。「今、こうしていられるのはやめなかったから、というよりやめられなかったから。続けていればたまには謎が解けることもあり、行き詰まったようでもそれを乗り越えた時の喜びはたとえようもない。」と目を輝かす。
かつてMary Meigs Atwater による“BY WAYS IN HANDWEAVING”という本を先生が紹介して下さった。「手織りのわき道」ということであろうか。
織機を用いない織物に当初から関心をいだいていらした先生は、今ではわき道どころではなく、その奥深く入られ、逍遥し遊びの境地にあるようである。
人との出会い、本との出会いに導かれ、そしてご自身のあくなき探究心と好奇心によりなお前進を続けられる先生に少しでも近づけたらと思う。
なかの えみこ(東京造形大学教授)

(註1) マグダレーナ・アバカノヴィッチ  ファイバーアートの先駆者。
始めは平面のタピストリーであったが、繊維による立体作品へ、さらに金属素材へと作品が展開した世界的なポーランドのアーチスト。
(註2) ヨランタ・オヴィツカ  ポーランドの代表的な織作家。スケールの大きな作品を発表する。
(註3) ドウムール  パリの現代タピストリー専門のギャラリー。
 (註4) ピーター・コリンウッドは1984年に来日。東京テキスタイル研究所主催の「マクロゴーゼ展」が西武百貨店・渋谷店で開催され、「カードウィービング」のワークショップも行われた。