・・・・・・あわぞうの覗き穴・・・・・・

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きれいごととはどういうことか

2014年12月20日 | つぶやきの壺焼

よその国での過去の八百長疑惑を、日本代表チームの外国人監督がぐずぐず言われていました。
問題はそんな疑惑にあるのではなく、どこか、何かが、誰かの気に入られていないのでしょう。
それが何なのかは、もちろんだれにも知らされません。

別に理由はないのかも知れません。
仮にあっても、子供が駄々をこねるのに似て、何だそんなことと、鼻にもかけられそうにないことかもしれません。

その八百長の話も、だいじな試合で相手に点を入れさせて負けてやったのなら、まだ罪が重そうですが、勝った試合だったようです。
どうしても勝たせたい人がいて、競技の当事者が何も知らない間に、相手チームに利益が供与されたようなのです。
その試合の勝敗は、相手チームの成績には何も響かない、どうでもよい試合であったらしいのです。

たとえは下品ですが、立ち小便の経験者は悪人でしょうか。
このたとえの行為には、ぎりぎりの生理的切迫状態にあったか、酔った勢いで連れにつられてのことだったのか、いずれにせよ、自分の意思は働いています。
自分のまったくはかり知らないうちに、勝ち点を得ないゲームを相手がしていたという、過去の話を責め立てられてもどうにもなりません。

理想に近い何かを言い出されたとき、それが面倒なことであると、「きれいごと」と言って相手にしない手はよく使われます。
「きれいごと」が嫌か「汚れごと」ならよいのか、そんなことを言い出せば泥仕合になりますから、たいがいの人はそこで黙ります。

興行のためのスポーツの世界では、ないないと言われながらどこにでもありそうな、愚にもつかない話なのですが、それがあってはならないこととして、有能な人を貶めるのに使われるとき、そういうことこそ「きれいごと」と呼ぶにふさわしいのではないかと思います。

任命責任やなんやかやと、マイナス印をベタベタつけられるのが嫌であれば、外国人監督を呼ばなくても、立派に世界中のチームと試合のできる自国人の監督を養成すればよいのです。
ゲームの出来なくなった年齢になって、それならばどうぞというような花道稼業では、大人の事情の解りあえる狭い国の中でしか監督の仕事はつとまらないでしょう。
「きれいごと」を報道の材料にしているうちは、グローバルに通用するチームを作り上げる監督は、この国には生まれないと思うのですが、いかがでしょうか。

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