自由のありがたさは、束縛から解放されたときに味わえるものです。
束縛にもいろいろあって、解放が人々の幸福に結びつかないこともあります。
常識と言われることがらのなかにも、束縛感があってそれが成り立つ場合もあります。
世界の常識と呼ばれることには、習俗の束縛をゆるめなければ融合のできないこともあります。
大声で不満を訴えれば、それが多少無法なことであっても、カネが回ってきて、恵まれながら不満を抱えその不満がまた恵みをもたらすという状況が、長年続いている特異な地方があります。
その地方で、なかば担ぎ出され、なかば権威欲に浮かされて首長に選ばれてしまった中途半端な自由人が、自由バンザイとばかりに世界の常識という束縛を破ってみようと、外国に出かけて発信を試みたことがあります。
その地方では、住民の安全のために、国内で環境改善の方針が決まって、すでにプロジェクトが進められていました。
着手した工事でも、民意の看板を掲げて邪魔立てすれば、恵みはまた膨らむという計算なのでしょうか。
数が頼りのお邪魔ムシは、群れが広がるほど力を増します。
力の広がり場所を国外にまで求めれば、ムシの繁殖がいや増すということもあるでしょう。
ただ、ムシの餌が国内にしかないものを、海外でも集められるという錯覚が、あの常識破りに走らせたようです。
外国の政治中枢に地方の首長が乗り込むという放埓な行動は、やはり世界の常識の前に通用するはずもなく、支援者の力で開いてもらった小規模な会場での講演会で発信終了となったようです。
表現行動の自由ということが、地球上のどこでも無条件に受けいられれるという錯覚が、自分個人の恥はともかく、首長の行動ともなれば国の恥にもなっているということに気付こうとしないのでしょうか。
どうやらあのことは、錯覚が多重に錯綜したややこしいことになったまま、ムシも居どころを失ってしまっているようです。
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