・・・・・・あわぞうの覗き穴・・・・・・

気が向いたときに、覗いてご覧ください。
何が見えるかは、覗く方々のお眼め次第です。

かたち

2010年06月30日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)
砂浜の砂粒はいつも同じところにはないそうである。(「生物と無生物のあいだ」福岡伸一)
絶えず波に洗われ、風に当たり、雨に流されるのだから当たり前の話なのだが、砂浜で砂を見るとき、一粒ずつがどうしているかという見かたをしないから、粒つぶの位置が絶えず入れ替わっていることには気づかない。
砂粒が同じところにとどまっていなくても、砂浜の大きな形は変わらない。
大きな形を保つために砂粒が移動を続けているという見かたもできる。
どこかが壊れながら全体の秩序が守られている。

砂浜の散歩から帰って足を洗い鏡を見て気づく。
ひげの伸び方は髪の毛よりもずっとばらばらで、急に倍ぐらいの長さに伸びるのがある。
人の能力も皆そろって伸びるものではない。

ひげを顔の飾りにする人と、顔の隠蔽に使う人の二通りある。
飾りにも二通り、縁取りのような境界型と、飾りつけのような装飾型がある。
砂浜に意識があるとすれば、砂粒の置き方は飾りだろうか隠蔽だろうか。
形が大きく崩れずに保たれているところを見ると、飾りの要素のほうが勝っているとみておきたい。

緊急放送

2010年06月29日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)
インターネットでラジオが聞ける。
音質良好、選局簡単、マンション住まいにはまことにありがたい。

「ただ今から、緊急警報放送の試験信号を放送します。緊急警報受信機をお持ちの方は、信号を正しく受信するかどうか確かめてください。」

しばらく待つ。無音。
インターネットで緊急放送は聞こえないのだった。

適者生存

2010年06月28日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)
「種の起源」の訳文にあらわれる適者生存という言葉はテキトウな訳語だと知った。
テキトウにはやや不正確という意味をこめている。
原語を尊重するなら最適者生存が正しいのだそうである。(進化論の時代 新妻昭夫)

正確な言葉は、ある場合には使い勝手が悪く、死語になってしまうことがある。
最適者生存もその仲間のようである。

適者生存は、弱肉強食を正当化する論理に用いられやすい。
こうなるとテキトウを通り越しゴーマンの域に足を踏み入れてしまう。
テキトウな訳文は読み方までテキトウになり、その影響が重なり合って強まれば、思想の転換に至ることもありそうだ。
巷の個人の思想が転換したところでさしあたりどうということもないが、民族の思想の転換になると一大事だ。

政治、教育にたずさわる人は、適者では不十分、最適者でなければならない。

テロ

2010年06月27日 | Weblog
ものごとに定義を与えれば、良否正邪は別にしてその存在を肯定することになる。
だから、テロという始末に終えないものをわざわざ定義するのはよくないと思っていた。
Wikipedia には、「テロリズムとは、恐怖心を引き起こすことにより特定の政治的目的を達成しようとする組織的暴力の行使、およびそれを容認する主義のことであって、テロリズムに則った行為・手段、およびそれらによって敵対者を威嚇する事をテロルと呼ぶ。日本では一般にテロリズムとテロルの双方を指してテロと略す」と書かれている。

この「特定の政治的目的を達成しようとする」がまずひっかかる。
テロは目的とか達成などという概念の埒外にあるのではないか。

「生物と無生物のあいだ(福岡伸一)」で、生命の定義の基準は、自己複製と動的秩序だとしているのを読んだ。
自己複製と動的秩序、この逆は自己破壊と動的無秩序だ。
これこそテロではないか。
自分を壊してしまうのだからもちろん他人のことなどという意識はそこにない。
無秩序の前には政治的目的もその達成もありえない。

テロとは生命の否定なのだ。

助ける

2010年06月26日 | つながりを楽しむ
「できることはすべてやった」ドラマによく出てくるせりふである。
多くの場合、手は尽くしたがうまくいかなかったという状況の前に、言い訳の先取りにする。

できることどころか、普通ではできそうもないことを、自分がすべきこととしてやりとげた話がある。

2羽の子つばめの命を助けた話がブログに載った。
つばめの子を救急救命したばかりか、親つばめを呼び寄せて返してやった。

 http://blog.livedoor.jp/yamato_onoko/

TVのやらせルポなどとは質の違う、頭の下がる話である。

分類

2010年06月25日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)
私たちの身の回りにあるものはすべて生物と無生物に分類できる、○か×か。
答えは×。

生物でも無生物でもないものがある。
ウイルスがそれだという。(生物と無生物のあいだ 福岡伸一)
生物と無生物以外に、ものは存在しないと堅く信じてきた人には理解しにくいことだろう。

ウイルスは、大小個性のないまったく同じ形をしていて、生き物ではないが、細胞に寄生すると増殖できるという。
生き物とかかわりをもつことで生きているような働きをしている。

病原になるものにも、生物とそうでないものがあるらしい。
肺炎球菌も単細胞微生物でウイルスではない。

上の写真はインフルエンザ菌だが、これはインフルエンザの病原体である、○か×か。
答えは×。
インフルエンザ菌と呼ばれながらインフルエンザの病原ではない菌なのだ。
ではインフルエンザの病原になるのは何か、インフルエンザウイルスである。
ややこしい話だが、細菌とウイルスは、生物であることと生物でないという違いがあるのだ。

分類という手段は、ものごとを整理するのに有効なのだが、整理しきれないものごとがこの世にはたくさんある。
正邪、善悪という分類も、そう簡単なものではない。
それを簡単に分けたがると聖戦などというおかしな呼び名を発明しなければならなくなってくる。
分類へのこだわりが、ある場合に大きな危険を招くことさえある

鬼は外

2010年06月24日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)
節分から八十八夜もふた周り近くになろうといういまごろの表題にはおかしいが、来年書こうでは鬼に蹴飛ばされそうだから、時節はずれを承知で書くことにする。

内部の内部は外部という、ややこしくておもしろい言葉がある。
「生物と無生物のあいだ」(福岡伸一)で読んだ。

細胞が外部から何かを取り込んで細胞の一部のようにしたとき、その一部分の内部は元の細胞からみれば外部だという論法である。

あるものの居場所が内か外かのどちらかということならば、内から境界を越えればそこは外でしかない。
内の内だからうちうちなどというだじゃれは通用しない。

いったんからだに吸い込んだものを、貯め込む場所を作って背負って歩く。
その場所は体の外側にあるように見えてもそこから足が生えている。
そんな生物が、私たちの身近にいる。
http://blog.livedoor.jp/yamato_onoko/
内部の内部は外部という言葉を思い出したのは、鬼の幼虫のような気味の悪い写真を見たときだった。

生き残る

2010年06月23日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)
製品のもっとも大事な部分を国外生産にするという企業がある。
企業が生き残るためには、国の境界を考えてはいられないという論法である。
人が逃げているわけではなく、企業という生きものが逃げ出すのだから、国外逃亡とそしる声は聞こえてこない。

その企業は、生き残る、存続することを第一目的としている。
これまで生産にかかわってきた社内外の従業員は、国外生産に役立たなくなれば、個人個人で生き残りのすべを自分で見つけなさいということになる。

国外へ、海外へ、残るのは国の境界に忠実な公益法人だけになる。
そこでは孫も孫々もだいじにされる。
かつて技術立国を叫んだ国は、公益立国となる。

それでもしぶとく残るものがある。
アニメ、お笑い、それに細々の手作業。

括弧書き

2010年06月22日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)
「生物多様性(喪失)の真実」(ジョン・H・ヴァンダーミーア/ 池澤夏樹 みすず書房)という本がある。
(喪失)としたところに著者か編集者の狙いが感じられ、この書名のつけ方が何かひとくせありそうである。

括弧の部分なしで読めば、生物多様性には多くの人が気づいていない真実が隠されている、となる。
括弧の記号だけをはずすと、生物多様性が失われていくことにはこういう真実がある、と読める。
多くの人は、今の世に何かが失われていく不安を漠然と持っているが、喪失ということの真実を生物の多様性にたとえればこういうことなのだ、とも読める。
とすれば、多様性は生物種の喪失によって顕著になってくる、という逆説も成り立ちそうである。

あるのが当たり前であったことは、それがなくなってくると、あったということがはっきりしてくる。
たとえば空気の存在は酸欠によって再認識され、電気の有用性は停電によって再認識される。
空気や電気は、喪失現象が局所であったり瞬時であったりするから対処もできるが、生物の多様性は喪失に気づいたときは、たぶん手の打ちようのないところまで進んでいるだろう。

著者が何を言いたいのかは、読んでみないとわからない。
平書きでもときどきひっかけられるのに、括弧書きから真実を読むのはまこと難事である。

説明

2010年06月21日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)
説明責任、説明をせよ、説明が十分でないなどと、ものごとのいわく因縁を語らせようと責めたてる言動がしばしば見られる。
責めている人は、大勢の人の代理になっているつもり。

しかし、説明というのは案外曲者であることに気づかずにいることがある。
巧妙な説明が全体の意味を消滅させてしまう場合にそうなる。
わからないことがわかるようになると思わせておいて、影も形も見えなくしてしまう「けむにまく」という手もある。

説明を聞いているうちに、そうかそうだったのかと感心し、あるいはとりあえず安心して、ことの本質をつかめないままに時が経てば、問題そのものを忘れてしまうのである。

メディアが騒ぎ立てるのを、自分の声だと勘違いし、自分で考えることを捨てて、むやみに説明を求めても、本当の答えはそこにはないのである。

網友

2010年06月20日 | つながりを楽しむ
網友、ネットで知り合った友人、メールのやりとりだけではない、心の支え、よりどころを得られるような、ありがたい人をこう呼びたい。
「モウユウ」より「あみとも」と読んだほうがよさそうである。
カタカナのアミトモでは、浜松に拠点を置く会社と同名になるから、ここはひらがなでなければならない。

昨日のこと、昔からの友人から初めてのメールが来た。
旧友が網友になりかけているところなのだが、驚いたことにこの旧友の旧住所の近くにもアミトモの店があるらしい。
ネットは偶然を拾いながら絡みながら広がっていく。

四国の網友が、写友と四人で「男たちの写真展」を開くという。
素晴らしいことだ。

http://blog.livedoor.jp/yamato_onoko/

「げにめった、やってくれるにゃ。四人組ちゅうんがまたえいにゃあ」
通じへんかな?
ほんまはこうやと教えてチョー。

と書き込んでおいたら、正解発表があった。

「おっとろし、たいちゃぁやってくれるねや。四人組ゆうががまたげにえいやいかのう」
とでもなるでしょうか、と。

「やってくれるにゃ」でも「やってくれるぜよ」でもなく「やってくれるねや」
なるほど「にゃ」はくだけ過ぎ、「ぜよ」は威張り過ぎの感じがするねや。

会の成功を祈っとります。

様式分類

2010年06月19日 | なんだいまあ(何だこりゃが念仏になった)
形式犯という犯罪形式があるという。
偽証、脱税などがそれに当たるらしいが、対立分類は実際犯や実行犯と言ったのではしっくりこない。
実態犯とでもいうのか。

形式という言葉の次には整えるという行為が頭に浮かぶ。
形が整っていることを想定しやすいこの言葉を、ものごとを整然とするためでは決してなかった偽証、脱税と嵌め合わせるのは、ピッチの違うねじをむりやり押し込んでいるようで、おさまりがよくない。

影響の広汎巨大な偽証、通常では手の届かない額の脱税など、大罪を犯しても、知識を駆使すれば懲罰はまぬかれる。
犯罪を、確信犯、親告罪などと、わかりにくい名前をつけて分類するのは何者なのか。
有識上位/無知は下位、知識の勝利/無知敗退という、形はないが大きな枠組みに生えるカビが正体、梅雨明けまでは特にご用心。

花は根に

2010年06月17日 | Weblog
さるお方が花という意味をあらためて知ったと書いておられる。

http://blog.livedoor.jp/yamato_onoko/

こちらもあらためて辞書をめくり、歌を見つけた。

「花は根に鳥は故巣にかへるなり春のとまりを知る人ぞなき」

これがいちばん近いかと勝手に思う。

だが、「花は根に」という言い回し詠い回しが、「根に持つ」を連想してちょっと気になる。
しかし、ものは考えよう、言葉も考えようで、持ったものが遺恨の類でなく、根の先に広がったたくさんのひげ根、そこから吸い上げ蓄えられる豊かな養分なら、これこそ花のいのちの大きなお役目なのだろう。

昨日も元気に花を咲かせておられる何人もの方にお会いでき、まだまだ根腐れを自分で防がねばとカサカサ頭で思っているところ。