ふと窓の外を見ると、さくらがほぼ満開のようす。
明治通りには、さくらが片側ずつ咲いて二度花見のできるところがあるそうです。
⇒ http://jump.cx/meiji
明後日は知人の家で花見の会、愉しみではありますが、晴天は明日までとの予報を聞いてしまい、ややがっかり。
手土産に窓から撮った写真でも持って行こうかとこれから取り込みを始めます。
昔なら暗室に潜り込んで半日がかりの作業でした。
ハイポの匂いを懐かしく思い出しています。
ふと窓の外を見ると、さくらがほぼ満開のようす。
明治通りには、さくらが片側ずつ咲いて二度花見のできるところがあるそうです。
⇒ http://jump.cx/meiji
明後日は知人の家で花見の会、愉しみではありますが、晴天は明日までとの予報を聞いてしまい、ややがっかり。
手土産に窓から撮った写真でも持って行こうかとこれから取り込みを始めます。
昔なら暗室に潜り込んで半日がかりの作業でした。
ハイポの匂いを懐かしく思い出しています。
背負い投げ、決まったときには、まこと見事です。
本田選手を評して「相手を背負って戦えるプレイヤー」と言った人がいます。
ザッケローニ監督です。
そういう目で見ると、サッカーというのは、背後から追ってくる大勢の相手との競技です。
似たものに、ラグビー、アメフト、バスケット、ホッケー、ハンドボール、まだありそうです。
競技には、相手と正面に向き合うものと、相手を背後において逃げるものと、ふたとおりあるのに気づきました。
まだありました。ときには前にいたり、横に並んだり、後ろから追ってきたり、相手の位置が定まらない競技もあります。
しかし、こういう見方には、もっともらしさといいかげんさが織り交ざっています。
いいかげんなのは、追われる競技と言っても、大勢の追う側のプレーヤーを、話の外においていることです。
競技は人間を鍛えます。
競技に経験の全くない人は、困難に立ち向かったり、難局をしのいだり、時を待つのに耐え忍んだりする力が多分弱いでしょう。
おかしなことに、日本語の発音では、「追う」と「負う」は同じです。
「追う」と「負う」では、どちらがプレーヤーに力をつけるでしょうか。
いちばんダメなのは「追う」格好だけしてちょろちょろ走り回っている人でした。
短縮語というよりローマ字記号と言ったほうがよさそうですが、そう呼ぶ人はいません。
なぜでしょう、長いからです。
会社名、団体名、専門用語にはローマ字記号がもともと多く用いられていますが、KYなど、状況表現に使われだしたのはごく最近のことです。
皆がせせこましく動き回り、話すことも忙しそうにするようになって、忙しいのがあたりまえのようになってきました。
「お忙しいですか」に挨拶の意味もなくなったようです。
みなの気持のせかせかを、せかしているのは電子会話具です。
瞬時に届く電子メールは、送信から着信までの時間を猛烈に早くしてくれました。
伝播時間が短縮された分、その前後も中間もゆっくりできるという勘定を、どういうわけか人間はしません。
伝わるのが早ければ書くのも早くしなければという、強迫観念がついてくるのでしょうか。
メール文の書き込みの早さは文字数に反比例しますから、文字数を少なくしようと、相談したわけでもなく記号化がすすみます。
Webで調べれば知らない記号の意味も使い方もわかりますから、巧くなくても使いやすければ慣用までに期間はいりません。記号の決まり方もせかせか、相談などされないのです。
テレビCMなどで無理やり認めさせようというのも現れます。なかにはあまり冴えないのもあります。
YDKというのがありました。
「やればできる子」だというのですが、「やってもできない子」も同じ記号が使えます。
「やっぱりだめな子」「やんちゃ だだっこ きらわれる」悪いほうの言葉は早く思いつきます。
「やっぱ どんどん きたなくなる」
古典と呼ばれる作品には、そう言われ続けてきた底力があります。
今の世に居てそれを真似ようとしても、そうはいきません。
贋作がすぐばれるのは周知のことです。
古典は敬意の対象であって、敬意が愛着になられては作品のほうが迷惑をこうむります。
古典への愛着心はなぜ起きるのでしょうか。
それは、新しい考えを生み出す気力が失せてしまうことからではないかと気付きました。
昔お世話になった方が、W城の敷地の中に住み着くことを、どういうわけか許されていました。
そのときには、なぜそこに居られるのかなどと考えもしなかったのですが、いま思うとそれも不思議です。
そのおばあさんの口癖を、また思い出しました。
「古いもんの弱いとし、いそがし、いそがし」
生物の生存には、他者とのつながりが必要です。
飼い主も心もとなくなってきた犬のために、老犬ホームという施設もできていると聞きました。
全く単独で生き続けているように見えるものでも、どこか目に見えないところでつながりができているかもしれません。
無人島にいる人でも、生まれおちる前には親のつながりがあったはずです。
必要なことはなくなりません。「つながり」がこの世からなくなることはありません。
ただ、だいじなのはつながり方で、「つながり」自体が目的化されてしまうと、つながる目的のほうは忘れ去られ、なんでもよいからつながっていればということにもなります。
目的の要素が消えてしまったつながりが「腐れ縁」です。
何かよくわからないけれどもつながっているようには見える、無目的擬似的なつながりもあります。
結びつきが、古いままの名簿であったり、あるときの記念写真であったり、電車の通らなくなった線路のように、淋しげなつながりもあります。
つながりの数が無限であるという偉大さが感じられても、いまいちばん危ないつながりは、顔も見せあわず素性も知らせあわない、電波に乗ってできたつながりでしょう。
歴史を記すなら、百年後の読者への意識を持てと言われます。
百年後の読者が、どういう読み方をするか、それを今見て確かめることはできません。
しかし、百年後まで恨みつらみを引き摺らせるよりも、百年の間に明るい智恵が増し、それからまた百年後に望みをつなぐような、そんな読み方をしてもらいたいと願うのは、進歩と呼びながら己が愉しむだけの新しいモノ作りより、さらに意義の深いことのように思います。
いかがでしょうか。
日本語の多くは、複数の読み取り方を持っています。
「お」という接頭辞も、尊敬語、丁寧語、謙譲語、虚飾語、軽侮語などさまざまに使われます。
お名前、お弁当、お使い、お洋服、お受験とあらためて並べてみると、個々の言葉が分類と一対一で対応しないこともあります。
分類自体が厳密な定義を持たず、融通無碍だからです。
発信と受信で意味が変わることもあります。この変身が、便利な場合もあれば品格を落とす場合もあります。
「武士に二言はない」という昔の言い回しは、違う言葉を言わないだけでなく、別の意味に変えないということだったと思っています。
「そういう意味で言ったのではない」などと言い逃れはしないとしたものでしょう。
武士がいなくなって、日本語はあやしさの度合いが強くなりました。
二言三言、これは「にごんさんごん」と読んで欲しい、一言に二意三意のつもりの未熟語なのですが、ほとんどの方は「ふたことみこと」と読んでしまうでしょう。
「ふたことみこと」はうるさいと思っても、「にごんさんごん」はおなじみになっていて、おなじみさんには名前はいらないのかもしれません。
「にごんさんごん」があたり前になると、口車という言葉も、乗せて騙すというその特殊性が失われます。口車は行方不明になりそうです。いや、口車はもともと行先不明なのでした。
行先がはっきり確かめられないことと言えば、リサイクルというグルグル回りも、「にごんさんごん」のお仲間さんではないかと思えてきます。
カナ文字で書かれた日本語には「にごんさんごん」にしやすい性格があるようです。
アイデンティティ、コミュニティ、グローバル、エコ、みなそれらしい気がしています。リサイクルもそのお仲間でしょう。
リサイクルという「名目」でゴミを分別させ、「再生資源回収事業者認定」を受けた事業者が収集し、「リサイクル化証明書」を出して、実際の処理はそのまま焼却という話もあります。
排出物が固体から気体に変わってしまえば、量の対比は不可能ですから確かめようがありません。
しまいには けむになっても リサイクル
そういえば「煙に巻く」という言葉も、近ごろあまり聞かれなくなりました。
書物は同じことしか言わないから安心と言った人がいます。
いまは種々雑多な情報が乱入してくるので制限が必要だろう、それには取次ぎ効率のよすぎる電波情報に頼らず、情報源を書かれたことの変わらない本に限ってしまうのがよかろうという説です。
もっともらしく聞こえましたが、そうかなあという思いもどこかに残ります。
本の読み方は、名著と呼ばれるものでも人さまざま、自分自身の読み方も、そのときによって変わります。
読み方が変われば、書かれていることが変わって読み取られるのではありませんか。
人間はいろいろなツールを考え出しますが、ツールが変われば人間も変わっていきます。
読みながら読む人間も変わっていくのです。
書物なら大丈夫というのは、米や豆なら安心、肉より魚のほうが体によいという珍説とあまり変わりがないように思います。
GMOという変な大豆もありますね。
政治は文化によって改まると言われます。
緊急時の人と車の動きには、その国の文化があらわれます。
文化は、ビジネス文化、エセ文化人などという、組み合わせ熟語にもなりやすい言葉です。
その組み合わせと用法によっては、称賛語にも揶揄語にもなります。
外面称賛内心は揶揄という、狡賢い使い方もできます。
「早稲田の理系はコピペで成り立っている」という記事を見かけました。
⇒ http://jump.cx/cpp
この記事の標題は「早稲田大学の理工系におけるコピペ文化について」と書かれています。
コピペは、確かに文化と呼んでもよいほど、人間のよくない癖を作ってしまいました。
はじめこの記事を目にしたとき、これは早稲田特有のことなのだろうか、特有の現象なら文化ではないだろうとも思いました。
しかし、ゆっくり読むと、過去レポを集める能力が修士課程でものをいう土壌の汚染成分が、コピペ文化だと言いたかったようです。
標題のチラリ読みだけでは、文の真意は読み取れません。
山のような論文風コピペ紙の綴り、それがほとんどつぎはぎ作り、そこから学生の成長見込み能力を判定するのは、さぞ大変なことだろうとお察ししているところです。
ガスレンジで煮詰めにかかると極く弱火にしたくなります。
ちょうどよい高さの五徳があると便利なのですが、安いものは見つかりません。
手作りでモノにしてしまうお方もいらっしゃるようです。
100円ショップの花鉢台を加工して作ってみましたが、出来が悪かったので、いつの間にか埋め立てゴミにされてしまいました。
何かうまいものはないかと探していたら、これが目の前にありました。
二つのバーナーには、普通の高さの五徳が一つずつ乗っています。
煮詰めのときは、隣のバーナーを使って同時進行はしませんから、一方は空いています。
隣から持ってきて重ねれば2倍の高さになる、こんな簡単なことになぜ気付かなかったのか、頭の悪さにあきれかえります。
わかりきったことは、すぐには見えないものでした。
日用品の買いだめはくだらないお邪魔ごっこであるという、わかりきったことがすぐには見えない人が増えると、赤ちゃんのオムツにも困ります。
SNSで交わされるのは、意見ではなく反応らしいです。
SNSは、なぜかゆっくり考えていてはいけないものと、参加者に思い込ませる奇妙な性格を持っています。
交差点で信号の変わるのを待つ人々の心理に、似ている気がします。
くるまが何かの弾みで、いつこちらに向かって来るかもしれないのに、車道に踏み込んで立つ人がいます。
そんな一歩分ぐらい、歩いているうちに取り戻せるのに、少しでも早く渡りきらなければと、思ってはいないけれども足が出てしまうのでしょうか。
早いことが良いことという「とりつかれ」の空気が、SNSにも交差点にもただよっています。
早い反応には強い刺激が効果的です。
しかし、強い刺激も受け続けると、それが強くは感じなくなり、さらに強さを強要します。
求めていないのに、これでもか、まだまだかと、強さの誇張がいや増します。
深慮だの教養などは、さげすまれます。
パッと反応、何でも知ってる、それが優れ人の特徴とされます。
動物の情報伝達は、反応の交換によりますから、人間も頭を使い果たすと、反応が早く強いところに集まっていくようです。だんだん、魚の群れとあまり変わりがなくなっていきそうです。
あそこ人は頭がよいと言われる国があります。
その国のある中学校で永年使われていた教科書に、それでも教科書かと思うような記述があったそうです。
⇒ http://jump.cx/ideb
その記事は、「日本がアメリカに原爆を落として敗戦した」「森林伐採によりCO3が大量に発生した」など、ひどい間違いなのですが、知らずに教え込まれれば信じてしまうようなことです。
教科書の間違いはともかく、それを使っていた先生たちも気付かなかったのかと思うと、その先生たちを教育した先生たちはと、教育の歴史が気になりはじめます。歴史教育ではなく教育の歴史です。
それでも人は育ちます。
もし議題がなくなったら、「他山の石」という日はいかがですかと、教育委員会の先生方にお勧めしたいと、ふと思いつきました。
「広告は人生の暗部は描かない」
ラジオだったかテレビだったか忘れましたが、ついこの間聞いた言葉です。
なるほどと思いましたが、では広告は何を描いているか、あらためて考えてみると、妙なことに気付きました。
今の広告に、人生の明るいところ、美しいところを描いたものはごくわずかしかありません。
人間のバカさ、セコさを、これでもかまだまだかと描いたものが大部分を占めています。
暗部を描かないのは、見る人が歓ばないからですが、では今の広告を人々が見て歓んでいるのでしょうか。
どこにいても見張られていると思うか、どこにいても見守っていてくれると思うか、GPSや監視カメラをどう思うかは、人さまざまでしょう。
都合のよいことには便利だと思い、まずいことには厄介だと思う、場合によりけりとも言えます。
監視型社会という嫌な呼び方も、いずれ慣れてしまうと気にならなくなるでしょう。
しかし、監視しなければならない理由は、実生活上では、だらしないから、どこか抜けやすいからでしかありません。
間違いなさそうなことが一つあります。
こういうシステムが生活領域に深くかかわってくると、人間の能力が退化するということです。
洗濯も掃除も食事の支度も自動になって、もてあました時間はテレビやスマホでバカな仕草を見たりバカ話を喜び合ったり、歩く力も衰えて、そのあとは、書くのもはばかられます。
どうでもよいことはときどき思い出すのに、だいじそうなことは覚えていません。
何が違うのか、やっと気付きました。
思い出すことと覚えていることが違うのでした。
覚えるつもりになっていなかったことを、思い出すはずがありません。
どうでもよいと思っているのは、今なのです。そのことが起きたときは、どうでもよくはなかったのです。
だいじかどうかも、今の気持です。それを聞いたときには、だいじと思っていなかったのです。
記憶力とは、貯め込んでおく力ではなく、引き出す力です。
しかし、思い出すのに力はいりません。覚えていれば力まなくても出てきます。
いらない力を、なぜわざわざ「力」と呼ぶのでしょうか。
ものごと、違いがわかると、わけがわからなくなってきます。困ったものです。