・・・・・・あわぞうの覗き穴・・・・・・

気が向いたときに、覗いてご覧ください。
何が見えるかは、覗く方々のお眼め次第です。

呆れ民主主義 :15 社会保障

2018年10月31日 | つぶやきの壺焼

人間は、どこでもどんな場合にでも、みな同じ扱いを受けなければならない、それが人道という説を振りまきながら、他国の人に厭な仕事をさせるのは、そろそろ舵を切らなければならない考えの一つです。

いま、日本の社会保障制度のもとでは、外国人の日本国外別居家族の医療費まで日本国民が負担することになっています。
外国人が、日本で出産すると、日本の少子化対策のための出産一時金がもらえます。

自国民に不利益なこういう制度を、いつまでもそのままにしておくことが、みんな仲良くのまことにありがたい精神だとされているのでしょうか。

対策はさほど難しくありません。
外国人向けの制度を別に作ればよいのです。

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呆れ民主主義 :14 狂乱の自由

2018年10月30日 | つぶやきの壺焼

公道にバカでかい看板を立てて、どう見ても街の景観を著しく阻害しながら、得意顔で立ち並ぶ人の写真があります。
狂乱行為としか言いようのないこういうものを取り締まる法律はないのかと探してみたら、景観法というのがありました。

ところが、この法律は、例によって専門家でなければ読む気がしないように作られています。
それらしい条項があるにはありました。

景観法 最終改正 H23(2011)/12/14 ・・・野田内閣
(工作物の形態意匠等の制限)
第72条 市町村は、景観地区内の工作物について、政令で定める基準に従い、条例で、その形態意匠の制限、その高さの最高限度若しくは最低限度又は壁面後退区域(当該景観地区に関する都市計画において壁面の位置の制限が定められた場合における当該制限として定められた限度の線と敷地境界線との間の土地の区域をいう。第4項において同じ )における工作物(土地に定着する工作物以外のものを含む。同項において 。同じ )の設置の制限を定めることができる。この場合において、これらの制限に相当 。する事項が定められた景観計画に係る景観計画区域内においては、当該条例は、当該景観計画による良好な景観の形成に支障がないように定めるものとする。

こんなわけのわからない法の下では、狂乱の自由を抑えることは難しいでしょう。

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呆れ民主主義 :13 遵法隣道

2018年10月29日 | つぶやきの壺焼

国会で国会らしくない質疑と答弁が繰り返されている困った状況が、しばしば話題に上ります。

国会での審議空転や審議拒否は、審議効率を著しく阻害し、効率ゼロに近いものになりますが、それよりむしろひどいのは異目的の質疑でしょう。

国会法 第102条(議題外発言の禁止)すべての発言は、議題以外に及び、又は許可を受けた発言の性質に反してはならない。

法律は隣の道であるかのように振る舞う、提議事項からはずれ私的利得が目的とみられる質疑には、発言途中であっても直ちに打ち切りを命ずるレッド・カード制など、厳しい改革策を講じてほしいと、常々願っています。

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呆れ民主主義 :12 混迷持続

2018年10月28日 | つぶやきの壺焼

あたりまえのことを普通にやって過ごす、それは人間にとって、動物生活本能を満たすことのできる最も安定した状態です。

あたりまえと普通には、民族によってそれぞれ独自の様態があって、地球上まるごと均一ということはありえません。
異文化はつながりはつくられても、混ぜ合わせて一つにすることはできません。
あたりまえと普通に大きな差のある異文化の民族同士が、便宜上引かれた国境線で遮られた形で、一つの国に押し込められると、不幸極まりない状態になります。
この便宜上の国境線は、第三者の他民族の都合によって引かれてきました。

押し込められた民族同士が、互いのあたりまえと普通をやむなくすり合わせていこうとしても、またそこに他国から、考えてもみなかったXX主義のようなものを持ち込まれては、まとまりの邪魔になることが多いでしょう。

混迷はたちまちいさかいのもとになり、内戦と名付けられる民族間の争いの着火装置が苦もなく作られます。
着火装置の次は、燃料、ふいご、消火剤を交互に送り込み、火加減を巧みに調整すれば、燃焼材のある限り火を絶やすことはありません。

XX主義は、産業政策としての混迷持続の媒体にも使うことができるのでした。

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呆れ民主主義 :11 文武分裂

2018年10月27日 | つぶやきの壺焼

文武両道という言葉があります。
これは、「文事と武事、学芸と武芸、その両道に努め、秀でていることを指す」こととされています。(Wikipedia)

文武両道は、文を主においた、和を貴ぶ本来の伝統であるという説を唱える人もいますが、熟語の中の文字のあとさきには、さほど大きな意味はないでしょう。
文と武が二つ並んでいれば、その両方とも偏りなくというのが素直な読み方です。

誰かへの何かの弱みが脳の傷になって、文武が分裂すると、どちらか一方が極端に弱くなります。
文の弱者と武の弱者が、相対して距離の縮まったとき、不幸が始まります。
訪れる不幸ではなく、自ら招き入れる不幸です。

文武の文の感覚をなくしてしまった人は、相手のことを考えない暴力行為に走ります。
乱暴をするほうは、その場の身近にいる人に強いところを見せつけたいという欲求だけが強くなり噴出させます。
武を振り回すことにしか生きがいを見つけられないようになってしまっています。

文武の武のほうを極端に嫌う人は、相手の武の乱用にも無抵抗を続け、やがて相手が目覚めるのを待つことにしか知恵も働きません。
それが最も良い方法という信念があるのでもなく、そうするしかないと思い込んで、頭も体も反応しないのです。

民主主義を国名にまで組み込んでいて、なぜか文を失った独裁者が、武を誇張し威力を示したがる国があります。
一方、どんな相手にも、武で対決する心を出させないよう、こうしなさいと言われた法律を、70年も後生大事に守り続けている国もあります。

それぞれに文武分裂の障害を抱えているだけで、知恵がないわけではなく、当座のそろばん勘定にしか知恵の働かないことが、分裂障害修復を阻む要因になっているのです。

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呆れ民主主義 :10 報道の自由

2018年10月26日 | つぶやきの壺焼

民主主義社会では、報道の自由が重んじられます。
報道の自由は、事実を告げ知らせる行為の自由とされています。(Wikipedia, コトバンク)

この言葉は、使われ方によって報道の結果に大きな違いが生まれます。
素直に考えれば、ある事実が生じたとき、偏った思想などにとらわれず、偏った解釈を施すこともなく、そのことをありのままに伝える行為が、制限を受けたり阻害されたりせずに自由に行われることと言えるでしょう。

ところが、報道の仕事をする人が、どんな思想を持つのも自由、解釈の仕方も自由、都合が悪ければ知らせないことも自由、なぜならば報道の自由は保障されなければならないからと言いだし、そんな伝え方を続けたらどうなるでしょうか。

そういう新聞を売り付け、電波に載せている企業があって、大きな顔をしている実情を、皆さんはどうお考えでしょうか。

 

 

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呆れ民主主義 :9 お色直し

2018年10月25日 | つぶやきの壺焼

役職という言葉は、二つの文字がつなぎ合わされてできています。
「管理職になって責任と職権をもつようになった」ことを「役職に就いた」と言われます。

二つの文字のもともとの意味は、"役"はこき使われること、"職"はつかさどることでした。
ところが、それぞれのうしろに"人"の文字が加わると、二つの意味が入れ替わってしまいます。

さらに、"役人"の前に"お"がつくと、"職"の意味であったつかさどることが変容し、"職権"が"利権"に変わるという困ったお色直しも始まります。

10年以上前に、もう開発途上とは言えない中国への政府開発援助は中止されたものと思っていたら、総理が今回の中国訪問のとき正式に伝える方針だという報道がありました。
今さら何をと思ったら、2007年12月に中止したのは、新たな円借款の供与のみで、無償資金協力と技術協力の「贈与」がずっと続いていたのだそうです。

民主主義のもとでは、お役人がこんなお色直しマジックも演じることができるのでした。
そのとき、お役人の最高上位にあったのはどなたかと調べてみたら、やはりあのお方でした。
人の嫌がることはしない、ということは、人が喜べば道理に合わないこともするのでしょうか。

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呆れ民主主義 :8 主義と的

2018年10月24日 | つぶやきの壺焼

XX主義は、XX的な行動によって裏づけされます。
民主的行動には、民主主義をあえて唱える必要はありません。

民主主義を唱えながら民主的に行動しない分裂気味の人もいます。

日本語の「てき」は、同じ文字でも外国語の「的」とは意味が異なります。
日本語の「てき」は、外国語の助詞にあたる「的」をそのまま音読して、名詞に添える接尾語にしたという説明をしている古い辞書もありますが。

意味の違う「的」を日本語に織り交ぜて"私てきには"などと言うと、はなはだ聞き苦しい言葉になります。

「そのまま音読」なら意味もそのまま使ってよいだろうと無茶解に流れたのが"私てき"愛好者の理屈になっているかもしれませんが、日本語は日本の言葉なので、とかくごちゃ混ぜは汚れが目立って良くないものです。

XX的という言葉には、XXという概念にぴったり当てはまる意味もあれば、XXらしい、XXのような、なんとなくXXの気配があるという使い方もあって、もやもや感があります。

ある行動が、民主的であるかないかの境界は、"誰のため"であるかを見さだめればはっきり見えてくるでしょう。

唱える主義が、的の中心にピタッとおさまれば、その声は活きてきますが、的からずれそうな主義の叫びは、雑音になったり空気を汚すもとになったりして、ひどくなれば的の存在さえはっきりしなくなるでしょう。

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呆れ民主主義 :7 効率的

2018年10月23日 | つぶやきの壺焼

国会法第1条には、「国民の代議機関の国会の民主的で効率的な運営に寄与すること」がこの法の目的であるとされています。

この条文では、国会が民主的で効率的な運営をされなければならないことは自明の理とされています。
それをわざわざ「国会は民主的で効率的な運営をされなければならない」などと規定はせず、規定してないのだからどうでもよいことという理屈は通りません。

ばかばかしいので見る気もしなくなった委員会や本会議の様子では、効率的ということはどこかに飛んで行ってしまって、同じ人が立ったり座ったり歩き回ったりしながら、同じことをだらだらダラダラとやりとりしているようです。

効率的運営は、なんでもさっさと片付けていくということではなく、審議の密度を上げて時間当たりの議事内容を濃くしていくということなので、会期を短くすれば効率的であるとは限りません。

ものごとが形式にとらわれすぎると本来の目的からずれていきます。
国会がその実例見本になっているのは困ったことで、改革の意思があるなら、このあたりからお願いしたいところです。

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呆れ民主主義 :6 国会法

2018年10月22日 | つぶやきの壺焼

禁じられなければ何でも自由、自由こそが民主主義の根本原理と、本当に思っているのか、それを信じているふりをしているのかはわかりませんが、議場で気ままな行動を繰り返し続ける困った人がいます。

立法の仕事に携わる国会議員の皆さんは、「国会法」をしっかり頭に入れて行動されていらっしるのでしょうか。

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呆れ民主主義:5 集会所

2018年10月21日 | つぶやきの壺焼

「我が国の民主主義の総本山はどこでしょう」
もしこういう早押しクイズの問題が出たら、すぐにボタンに手が伸び「国会議事堂」と答えるでしょう。

たくさんの会議が行われる国会議事堂のうち、本会議場といえば、厳粛に議事が進められるところを想像したくなります。

実際にそこで見られるのは、自身の生活のために足を運び、特別なバッジをつけているだけのおじさん、おばさんたちの姿のようです。

A4判のケチくさいプラカードをパタパタさせてみたり、何が書いてあるのかわからない紙きれを振り回して見せたりで、「論議」と呼べるようなことばのやり取りはごくわずかのようなのです。

持ち込む話は、世界の話どころか国の話でもなく、誰と誰が口をきいいたとかそうではないとか、そんな無駄話を交わす費用が1日3億円と聞きました。
渋茶も出ない商店会や町内会の集会所のほうが、はるかにまともな論議の場になっていそうです。

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呆れ民主主義:4 不安定

2018年10月20日 | つぶやきの壺焼

「それが民主主義」と力を入れて言われるものごとには、不安定なことが多いものです。

大きな叫び声の主の多くは、誰のために何のためにということを、十分に考えていないからでしょう。

誰のためのの誰が、せいぜい自分の住んでいる町のことでは寸足らず、隣の国までの足ながもまた困りものです。

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呆れ民主主義:3 民意

2018年10月19日 | つぶやきの壺焼

民意という怪しげな言葉が横行しています。

この言葉は、「民意を問う」と言われるときには正常に使われます。
民意を問うのは、民意を尊重したいからで、民意の尊重は民主主義の原則であることに異論はないでしょう。

ところが、自説に合うように仕組まれたアンケートの結果でも、集計した数字に民意のシールが貼られます。
方法がどうであれ、「世論調査」という名目のもとに行われたアンケートの集計値を指して、「これが民意だ」「民意に従うのが民主主義だ」と言われだすと、はなはだ怪しいものになります。

「これが民意だ」は、「そうですか」と黙り込む空気をつくる触媒にもなります。
民主主義を無条件で信奉する人々は、その怪気充満になかなか気付きません。

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呆れ民主主義:2 表現の自由

2018年10月18日 | つぶやきの壺焼

民主主義の大きな欠陥は、「表現の自由」を唱える自由が、事情も内容も問われることなく許されるところにあります。

たとえば、他人の発言の一部を抜き取って、意味を変えてしまうことも罪とされません。
それが組織の行為であるときには、圧力発揮の自由も大いに幅を利かせます。

表現の自由は、変容して伝搬力を増し欠陥を見えにくくできることによって、欠陥性がさらに増幅されます。

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