核兵器より始末の悪いウイルスの製造、悪魔がその技術を手にしてしまった。
それをうまく利用しようとの最悪人の思惑は見事に外れ、犠牲が大き過ぎた。
数年に一度またこれを繰り返されれば、地球はたちまち疲弊衰弱する。
Gotoがどうとか、閉店時刻がどうとか、そんなことは、些末の切れ端のようなこと。
ウイルスの製造機能を悪魔の手からどうもぎ取るか、それが最大の課題なのだが、いわゆる水面下に役目を覆いかぶせるしか、今はだれも策を持たない、考えても口にも出さない。
製造機能の徹底破壊、モノもヒトも、そんなことができるかと、おおかたの顔はみな横を向く。
多数の人間を苦しませ、ワクチン漬けにして、最悪人グループの何人かが喜ぶ、そんな世界を後世に遺すのか。
歴史に関する後世での困りものの一つは、ねじ曲がった見方の創作物を、歴史小説と称して流布された脚色歴史。
(例)
▼ 国に功績を残した人物を、悪者に仕立てた書
▼ 植民地から解放した行動を、悪行に仕立てた書
説明責任という厄介なことがらがある。
求められた人は、説明を求める人が納得するように、話を繰り広げて見せなければならないという、随分いい加減な責任追及様式である。
聞く人が理解するかどうかではなく、納得するかどうかが要求の根源だから、ねじ曲がった頭、しかも智の薄い頭の持ち主の場合には、その人が気に入るような言葉が引き出されなければ、要求を満たすには至らない。
構えたキャッチャーミットのその位置へ、するっと収まるような球が来なければ、説明責任を果たすことができない。
気に入る言葉はただ一つ、それを見つけ出せなければ、多くの言葉は無用になるのだ。
天使のふりをした最悪人は、悪魔との互恵戦にさまざまな戦略を繰り出す。
いま世界中の人が欲しいと思うもの、多分それはコロナ・ワクチンだろう。
天使の側も、適切な時期に適切量が出来上がるように、工程調整に知恵をしぼる。
悪魔の側にも、競争の誘いをかけてワクチンを作らせ流布させる。
無償でばらまかれたワクチンには、300種を超える副作用があるぞと言いながら、悪魔は平然と恩を売る。
ことによると、最悪人と悪魔連には、見えないつながりがあるやも知れない。
そもそも互恵戦とは、つながりの証なのだから。
悪人にも階級がある。
極め付きの悪人は、誰が見ても、どう見ても悪人にしか見えない。
こういういわゆる極悪人こそが、悪人のなかで最も悪い悪人だろうか、いや、そうではない。
人品骨柄どこから見ても淑女か紳士、善人の鑑のようでいて芯は悪人、個人でもグループでも、それが最悪人。
最悪人は、悪魔までも手なずけようとする。
悪魔はこれ幸いと、互恵の舞扇をひらひらさせながら寄っていく。
そこで、最悪人と悪魔との騙し合い、互恵戦が繰り広げられる。
悪魔の目標はまず世界制覇、これを声高らかにとなえる。
最悪人は目標など示さず、制覇というような目立つことは旗印にもしない。
互恵戦では、一つのものを取り合うような原始的愚行はなされない。
この穏やかそうな波に巻き込まれれば、難行苦行を強いられる。
そう、互恵の裏面は、難行苦行なのだ。
産まれたときからそっくり悪人という人間はいない。
性善説と呼ばれるその考えは、通常、甘いという感覚で受け止められる。
父母ともに完全な悪人の場合には、生まれたときすでに悪人ということもあるかもしれない。
しかし、そんな組み合わせは、世にはびこっている悪の巣の奥深さを形成するほど多くあるわけがない。
あったとすれば、それはもう人間の世界の生きものではなく、悪魔なのだ。
初めからそうではない人を悪人にするには、その仕立てを業とする人間がいるに違いない。
そうだ、悪人仕立屋だ。
これは思ったより路地の奥が深そう。
しばらくの間、ここに分け入ってみようか、そんなことを今考えている。
減っては困る、増え過ぎても困る、しかも認められた適性値がない。
概算ではおよそ15億から20億人ほど、いや50億という説など、さまざまあって、定説がない。
人口問題も、神の思し召しに従うまでなのか。
世情の論評に、「私はこうしている」「私の家族はこうだ」ということが引っ張り出されると、その主張は途端に怪しくなる。
行儀のよい自分の家族がそうしているからと言って、それを皆も同様にできるはずというのは強弁であることに、やや興奮気味のその人は気づいていない。
自分や家族の行動を変えなければならないのが嫌なだけなのかもしれない。
著名人が私情を訴えれば同情を集めやすい。
もし声の響きによってその同情の結果が、為政者の判断に迷いを招くことがあれば、後世に禍根を残すおそれも出てくる。
私情を原理に持ち出してはならないのだ。
緊急事態宣言を、ラヂオで数日前に聞いた。
これが宣言なのか、こういうことに決まったからそれを知らせるという決定報告ではないかという気がした。
緊急事態には、何よりも国民が一致団結して宣言された方針に従わなければならない。
ものごとこれからという宣言は、宣言文朗読ではなく、発令者の強い意思が汲み取れる演説でなければならない。
決定事項に半ば賛成ではない、本心は避けて通りたい、態度を明らかにすることも避けたい、そういう内心の裏側が朗読には表れる。
「いや、そんなことはない」と言われても、はじめに耳に入った感覚を打ち消すには至らない。
冷静沈着と外見の似た避賛避明、この態度が、ことに望んでの通例となっていけば、さほど遠くない未来へも良い影響は伝わらないだろう。
政治家や実業家が、外国に行って罹りやすい仕掛けがある。
ハニー&マニー・トラップ、略称をHMTとしてみた。
手厚いもてなしをしていただいたと、浮かれて帰ってくると、程なく返戻徴収係がニコニコしながらやって来る。
もてなし~お返しの関係が一度でも結ばれれば、あとは決してほどけない、固い結び目になる。
仕立てられた腐れ縁も、絆と言えば聞こえがよいが、これが孫子の代まで引き継がれたのでは、HMT網がますます強固になって、まことに始末の悪いものになる。
国会は、法律を作るのが仕事の仕上げとされている。
法律は、それが施行されれば何かが決まっていくものと、誰しもが考えそう。
ところが、こういう法律で、こういうことが決まった、これからはこうするのだと、国民が最近心に刻んだことを述べてみろと言われても、何も頭に浮かばない。
頭に入っていないというのは、それが報じられてないからで、報じられないのは、決めたことがないということ。
それでも、法律は次々にできている。
法律ができて、決まっていないのは、決めない法律を作っているから。
ものごとをあえて決めない、しかしだいじなことだから各々が心に記して忘れるな、そういう類の法律が多いのではないだろうか。
あることを決めようとすると、反対の声が必ず出る。
何ごとにつけ「そうだ、それで行こう」という共感は表さずに、とにかく対立という図式を敷き、それにこだわっていると、決めない政治が通常の形のようになっていく。
決めずに各々の考えに基づいて行動する、それを自律と言ってしまえば聞こえはよいが、地域ごとに取り決めが異なれば、たとえば地域を渡り歩いて仕事をする人には大いに迷惑である。
無決各銘方式が定着すると、扱いが異なるというだけが対立の理由になる。
「なぜだ」の理由が「そうなっているから」しかないのでは、子や孫たちは、昔の人間の馬鹿さ加減に呆れつつも、それを引き継いでいくしか方法はなくなる。
まさに、ああ悲しいかな、である。
急発進で一度失敗すると、途端に用心深くなり、次の手をなかなか打てない、そういう人はリーダーの資質に欠ける。
機敏誇示の演技でしくじったら、そのあとはしくじりを拭い去るような演技を見せなければ、しくじりだけが見る人の記憶に残る。
まだ大統領になってもいなかった人に、他には負けじと祝言を伝えてしまった。
そのとき演者には、大統領は一代、財閥は永代という通奏低音がずっと響いていたのだろうか。
財閥らに、うっかり忠誠を誓ってしまったという自縄も、正直者には容易にほどけない。
正直の首に神が宿ったのは、狭い日本列島の中でのことだった。
失敗落第演技を払いのける大見えが切れない人に、リーダーのバトンを預けて、後世に難儀の種袋を渡してしまったことに、人々は漸く気づき始めたが、さあこれからどうする。
「政治は、折り合いのつけ合い」と言った人がいる。
そこまで折り合えばここまでは儲かる。
そんな勘定は、必ず目先のこと、わが身のかかわりにまず限定される。
何ごとも、まず折り合いの線を見つけることに終始すれば、線でなく面で勝負と望む相手には、立てる歯を持てない。
大陸の片隅にある小国ならいざ知らず、世界の趨勢を変えてしまうような大国の大統領選挙で、投票有権者数よりも投票集計値の合計が多いという、超大ペテンが実政治の場で行われていても、折り合いが見つかればそれでよいのか。
そんな折り合いのつけ方を、民主主義政治の手本であるかのように、声を大きくして叫ぶ阿呆もいる。
折り合い政治は、折り合いの線の数だけ難儀を積み重ねていく。
まことに後世多難である。
密であることを避けるのが社会常識のようになってしまうと、それがとりあえずのあり方だと承知している大人はよいのだが、外の人との接し方をそういうものと教え込まれてしまった子供たちには、どういう習癖がつくのだろうか。
・他人との間には、常に一定以上の距離を置くことが、通常の姿だと思い込む。
・親密であることが、見苦しいことのように思い込む。
・体を寄せ合うことは、サルの生活習慣に等しいものと思い込む。
密を避ける避蜜、読みはヒミツ、この習癖は、明るい未来には結び付きそうにない。
多分、子を持つ親御さんたちには難物になるに違いない。