・・・・・・あわぞうの覗き穴・・・・・・

気が向いたときに、覗いてご覧ください。
何が見えるかは、覗く方々のお眼め次第です。

乱学ことはじめ:3

2013年02月28日 | つぶやきの壺焼

スポーツ選手が、マイクに向かってときどき使う「結果を出したい」という言う決まり文句がある。
言い換えれば「勝ちに貢献したところを見てもらいたい」となるのだが、ドン臭い動きでも、勝てればよい、得点が多く、自失点が少なければよい、それだけのことなのだ。

スポーツの場合は得点という評価の様式が決まっているから結果を出しやすいが、たとえば料理の場合はどうだろう。

本を見ながら悪戦苦闘して作り上げても、見るからに不味そうなものが出来上がる。
それでも「おいしい」の世辞には満足する。

美味いとはどういうことかを体感したこともなく、整理されたレシピを覚えこむのに夢中になる。
料理の場合には、その滑稽さがわかりやすいが、これが言葉の世界になってくると始末が悪い。

限られた期間に言葉を教えるという仕事には、体系付けられたカリキュラムが必要になる。
あえて「教えるという仕事には」と書いたのは、「教えるには」と言っただけでは意味がずれてしまうからである。
一般に用意されているカリキュラムは、「教える」ためよりも「教えるという仕事」のために作られている。

言葉の教育カリキュラムで、いちばん目立つのは「文法」だろう。
いかにも理路整然としていて、それを覚えこめばその言語を縦横無尽に駆使できるような錯覚を誘うに十分ではあっても、結果はまったく違う。
そんなことを、教師は気づかないことにし、生徒は気づかずに、採点の効率優先の出題に向かって、品詞の区別、対義語探し、熟語のかき集めなど、出来の悪いゲームが繰り広げられる。

これもまた乱学、日本語の美しさは、FAQを使ってやまと言葉を教えてもらえばわかるというように軽々しく扱われ、言葉は深い傷を負っていく。

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乱学ことはじめ:2

2013年02月27日 | つぶやきの壺焼

言葉の教育に限らず、いま教育全般にある決して良いと言えない傾向は、何のための教育かということを、当事者がそれぞれの立場でしか考えていないことである。

弁護士が無罪ないしは刑罰軽減のためにあらゆる手段を講じるように、塾の教師のほとんどは、受験に成功するためだけの教え方をしているだろう。

仕事は評価されることによって生きるものと、みなが思い込んでいる。
おばかなスポーツ選手が、マイクに向かってアピールへの努力を得意顔で語るのも、評価第一のあらわれである。
わが社は宣伝活動に社運をかけますなどと、正気でないPRに努めているようなものであることに、彼らは自分で気づいていない。

仕事には評価が必要なのはあたりまえのことだが、よい評価を得ることが仕事になってしまうと、そちらに向かって仕事をするようになる。

塾の教師の目標は合格率が唯一のものとなり、相手の学校のほうは入学者数つまり集客率を上げることが最重点となる。
そうなれば、お互いに生徒の成績を評価しやすい方法が効率がよい。
こうして、採点の難易と教育の評価の難易に密な関係ができあがる。

採点を効率よく片付けるには、正誤判定○×方式が最適である。
日本語教育で言えば、「この言葉は正しいか」という設問が横行することになる。

言葉は、使われ方に適否はあっても、一つ一つの言葉自体に正誤という属性は存在し得ないのに、何でもかまわず正しいかどうかと問いかける。

こうして、教育の実質とは無縁の○×ゲームが、点数という役にも立たない魔物の獲得で、成長過程にある人々を喜ばせ、乱学の時が過ぎて行く。

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乱学ことはじめ

2013年02月26日 | つぶやきの壺焼

いま日本語教育には、言葉の意味をただすことに力が入り過ぎているのではないか。
その様子が、FAQの質問から察せられる。

一つの文章が目に入ったら、言葉の一つ一つの意味を確かめていく、それが日本語を学ぶ基本である、などと教え込んではいないだろうか。

人間の生活には、自明の理、その事実の前には証明は一切無用ということがたくさんあり、言葉にもそれがあることを、再認識させていないのではないか。

誰が見てもわかることに学問という厄介なことはいらないのに、何から何まで意味を尋ねたがるように仕向けているふしがある。
応用のための解析なら別だが、聞いてどうするというのでもなく、ただ質問して答えを貰えばそれが学習なのだと思わせているようなところが頻繁に見受けられる。

人間がこの世に生を受けて言葉を覚えていく過程を無視して、別の頭で違う方向から言葉を理解させようとしている。
こんな筋違いの方法で、挨拶言葉や囃子言葉にまで、意味や由来をいちいち知りたがる、妙な突っ込み癖を、あえて育てているように感じられるのである。

こうなっては言語教育が乱学と呼ばれても仕方がなさそうの思うのだが、どうだろうか。

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最強の欠礼

2013年02月25日 | つぶやきの壺焼

創作したものに、どこに載っていましたかと訊ねるぐらい酷い欠礼はない。
作者の力量を軽く見ている内心を、質問の形で面と向かって伝える行為だからである。

そのときに、敬語を使ったかどうかなど、上つらのことは欠礼の下位グループのものでしかない。
あるFAQサイトに、日本語というカテゴリーがあって、そこにはいろいろな質問が集まってくる。
わけのわからないクイズ仕立てのものや、聞いても仕方のない無意味な質問は論外として、多いのは敬語と文法、それに言葉の正否である。
外国人に日本語を教えるところで、敬語と文法に力を入れている様子が想像できるが、敬語と文法を覚えてみたところで、日本語が上手に話せるわけでもないのにと思うと、教える人たちの力量が伺われる。

せっかく日本に来て日本語を勉強しようという人たちに、こんな教え方をしているのかと思うと、これこそ最強の欠礼ではないかと思うことしきりである。

なんと敬語を教えながら、欠礼を働いている、とんだギャグアクションではないか。

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適合とは

2013年02月24日 | つぶやきの壺焼

あの国でのPM2.5の排出源は、数からしても自動車が多いようです。
燃料とエンジンが、安価粗悪の方向に偏りすぎてしまったことがこの結果を呼んでしまいました。

良質の燃料は、高性能エンジンにしか合いません。
燃料が悪ければ、古い型のスカスカエンジンでしか使えません。

こんな話を聞きました。
ガソリンスタンドでBMWの新車を満タンにして、走り出したら100mでエンスト。
ガソリンが文字通り水増しされていたためです。
廃油まで混ぜて売るなら、水のほうがまだきれいと思ってのことでしょうか。

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強国とは

2013年02月23日 | つぶやきの壺焼

オリンピックに負けないためには、強くなる必要があります。

強くなる方法は、選手を育てることだけではないようです。

勝てない種目をなくすという多数決横暴が、オリンピックにもときどき現れます。

人間は、何千年もかけて何をやっているのだろうと、猫たちもあきれているでしょう。

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悪い国ではない

2013年02月21日 | つぶやきの壺焼

「あの国は悪い国ではない」と、志半ばにしてか、もうそろそろよかろうと思っていたかはわからないが、大使の任を解かれてしばらく経った人が回顧している。
勝手に回顧するのはよいが、講演でそれを言うのはどうかと思う。
住めば何とかと言うから、大使ともなれば住み心地が悪かったはずもなく、そういう言葉は出るだろう。

しかし、悪い国でなければ何をしても許される。悪い人でなければ何をしてもお構いなしか。
していることを見ずに、国がどうこうと言うのは、お商売のためにはなっても、自国民のためにはならないだろう。
どっちをだいじに思っているのか。
「もちろん自分の国がだいじです」と誰もが必ず言う。

言っていることと、していることの違いは責めないでほしい、私は悪い人間ではないのだからと、口から出ない言葉が聞こえてくる。

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熱を味方に

2013年02月20日 | つぶやきの壺焼

ついに二度目がやって来そう。
まさか生涯に二度の大気汚染を体験しようとは思わなかった。

大気汚染の元は化学反応、そこでは必ず熱が出ている。
出てくる有害物質は何とか捕まえようとみな考えるが、熱は、ついでに出てくるものだからと、つい粗末に扱われる。
これを捕まえて利用しようとなぜしないのか。
理由は、捨てたほうが安いという、人間の浅知恵でしかない。

燃料も、機械も、安く短く、そして売買行為が商人だけの仕事でなくなってしまった。
技術屋に物売りをさせ、ケイエイサンカなどと呼ぶ下手な仕事のさせ方が行きわたって、技術屋が技術の仕事を忘れてしまい、ショーバイに熱を上げて、無駄な熱を何とかしようなどと思っている暇もない。
技術一本で生きてもらえば、どれほどすばらしいモノができるか計り知れない人にも、金の算段に走り回らなければならないような、馬鹿なことをさせている。
それが社会の、国の大損失であることにみな目を向けない。

家庭用蓄電システムが量産を開始したと報ぜられた。
 http://techon.nikkeibp.co.jp/article/NEWS/20130214/265781/
放熱性に優れるラミネート型セルを採用し、万が一、セルが内部で発煙・発火しても酸素の流入を遮断して延焼を防ぐ構造にしてあるというが、やはり考えているのは「放熱」で、そこで捕まえることは設計思想からまったく飛んでしまっている。

熱を遮断するとか、放熱するとか、敵扱いではなく、味方にする方法は何かあると思うのだが、どうだろうか。

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木を見て森を感じる

2013年02月19日 | つぶやきの壺焼

森の写真はまだ撮れたことが一度もない。
森を撮ったつもりでも、林にしか写らなかったり、木立でしかなかったり、森は難しい。

森は、その中に入ってしまうと、一本一本の木しか見えなくなる。
せいぜい周りを見ても、木立しか見えない。
木を見て森を見ずというのは、近づきすぎるから、あるいは引きずり込まれているからか。

安い木造の家を森と訳した粋な人がいた。
「ノルウェーの森」という名邦名をつけた、当時東芝音楽工業でビートルズ担当のディレクターをしていた高嶋弘之氏である。

"Norwegian Wood"が「ノルウェーの家具」や「ノルウェーの木造小屋」などと呼ばれたのでは、あの曲の売れ行きも違ったであろう。
村上春樹氏の小説も生まれなかったかもしれないと、名訳者と同姓の高嶋ひでたけ氏本人だったか対談の相手だったか忘れたが、ラジオで放送していたのが、また因縁を感じて面白い。

森は遠く見るほど美しい。
近くに寄れば様相も、気配も変わる。
中に入れば入った者の心持も変えてしまう。

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年齢の区別

2013年02月18日 | つぶやきの壺焼

コンビニで酒を買おうとしたら、未成年ではない申告ボタンを押せと言われて怒り出した老人がいるという。
年をとると気が短くなるから仕方がないとしておけば、話は一番簡単に片付くのだが、売った人も買った人もしばらくは気分が悪いだろう。
ボタンを押すぐらい、駅で切符を買うのと変わりはないのだから、黙って押せばいいではないかという理屈には拍手できない。

切符を買うときは、ボタンを押さなければ行き先の判読は機械にはできない。
ものを買う人が未成年かどうか、機械が判定しにくい場合に限ってボタンを押させればよいではないか。
自己責任論を持ち出すのはそこから先でよい。

監視カメラは、暗いところでも雪の降るところでも、はっきり映るようになったという。
出来たらさっさと使おう。
趣味半分のソーラーパネルの補助金より、世の中の人の気分を和らげる、こちらのほうがだいじだろう。
従業員の待遇改善も、支給条件と抱き合わせにするとなおよさそうだ。

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タテヨコの区別

2013年02月17日 | つぶやきの壺焼

縦割り行政、横の連携、縦系列、横断的調査など、社会にはタテヨコが走り回っている。

タテヨコという言葉には、ふたとおりの使いみちがある。
ひとつは組織の見方、もうひとつはものの寸法である。

寸法の話を持ち出したのは、海苔が真四角でなく、タテ19センチ、ヨコ21センチという基準寸法が決められていると聞いたからである。

その寸法が、ちり紙の大きさからきたと言ってしまうと印象を損ねるので、浅草和紙と伝統色を添えて呼んだ心憎い説明が多いが、いまのティシュの基準寸法19.7センチ×22.9センチは、ほぼこれに近い。

手本があったからということ以外に、タテヨコ同じにしなかったのには何かわけがあるのか。
同じにしておけば、揃えるのにも簡単ではないかとも思うのだが。

海苔にも漉くときにできる目の向きがあって、それを間違えると歯切れの悪い巻き寿司ができてしまうのかとも考えが、中身の多少、つまり出来上がりの太さによってどちらの向きでも使うと聞いては、この浅知恵も引っ込ませなければならない。

いまだにわからないのは、社員食堂の昼食に出てきた、ひと口にタテに頬張ればのどにつかえそうで、ヨコに噛み切ろうとすれば海苔が粘り強く抵抗した、あの海苔巻きの作り方である。

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環境情報とはどういうものか

2013年02月16日 | つぶやきの壺焼

県の環境科学センターというところが大気汚染常時監視測定を行っていて、「微小粒子状物質(PM2.5)測定結果【速報値】」が知らされるようになっている。

毎時の測定値は、「大気汚染物質広域監視システム そらまめ君」というサイトがあってそこに外部リンクのかたちでデータを知ることができる。

おお、これはよいシステムだと思えば、すぐに見たくなる。
ただし、ここにはこんなただし書きがあった。
「※アクセス集中の為、つながりにくい場合があります。」
この情報はまことに的確で、いつもアクセス集中、つながれる瞬間ににめぐりあうという幸運に恵まれなければ見ることはできないということがよくわかる。

まあ、大気汚染のデータは、いまどういう状態かを知ったところで実生活にはあまり役立たない。
それでも「いま」を知りたがる人が多いから、そらまめ君は大忙しで、並んでも意味のない行列ができる。
大気汚染のデータは、毎時のことよりも、少し長い目で見て、どういう傾向にあっていつごろどうなりそうか、それまでに何をしておくかがだいじなのだ。
今の状態を知るよりも、これまでの経緯を知りたい。
と思っていたら、環境省がPM2.5の専用ページを2月12日に開設したと報じられていた。

http://www.env.go.jp/air/osen/pm/info.html
これを見ると、「PM2.5質量濃度の推移(平成13~22年度)」という3年前までのグラフが出ている。


今の知らせは要求殺到で読み取れない、これまでの経緯は3年前までしかわからない。

環境情報とは、情報開示とは、どういうことなのだろうか。

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防護とは通り難くすること

2013年02月15日 | つぶやきの壺焼

怖ろしくも不気味な微小粒子状物質を吸い込まないようにするには、呼吸器の入り口で捕まえるしかない。
今年に入って、高性能マスクの売れ行きが上がっているという。

偏西風に乗って、黄砂と一緒にやって来そうなPM2.5の影響を、少しでも避けたいという人が増えている証である。

粒径2.5ミクロンより小さい微小粒子だから、それだけを鼻や口から入らないようにすることはできないが、ほかの粒状物質に付着して飛んでくるならそれと一緒に抑えればよい。
防護用具には、マスクの目の細かいものしかないだろう。

マスクの性能には、米国労働安全衛生研究所(NIOSH)が定めた、N95,N99,N100 という規格がある。

N95は、 0.1~0.3μmの微粒子を95%以上除去できる性能。
N99は、 0.1~0.3μmの微粒子を99%以上除去できる性能。
N100は、0.1~0.3μmの微粒子を99.97%以上除去できる性能。

除去できるといっても、そこで消えてなくなるのではなく、捕集できるという意味で、フィルター自体の性能を示すものだから、装着したときのマスクと顔との密着性はまた別の話ということになるのだが。

さて、顔面との密着を完全にしてしまったら、当然のことながら空気が入ってき難くなるので、普通の呼吸では息が苦しくてたまらないと思うのだが、どうなのだろうか。

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見ることのできないぐるぐる回り

2013年02月14日 | つぶやきの壺焼

北京の町の写真を見ると、スモッグの酷さに驚く。
はっきり目に見えて、これは酷いと思うのだが、原因が目に見えない微小粒子状物質だと聞くといっそう不気味になる。

PM2.5などとしゃれた命名は失敗だったと思うが、もう遅い。
粒径2.5ミクロン以下の Particulate Matter であるとどこかに書いてあったが、粒子状という言い回しにも、この化けもの性が表れている。

気体ではなく、目に見えない固体なのだろうか。

普段余り気にかけない気体という言葉が気になりはじめて、検索を試みた。
「気体は物質の三態の一つ、気相状態のものを指す」とある。

では気相状態とは、でまた検索。
「物質が、気体の状態にある相」おやおや。
ぐるぐる回りでは定義は成立せず、そのようなものと考えて納得するしかない。

PM2.5は、ハウスダストと同様に、目に見えず空気の流れにも乗らない。
風にも流されずに、その場でぐるぐる回る運動しかしないという。
それが粒の大きめの黄砂などに付着すると、風に乗ってやってくる。

あの言論豊かな国では、PM2.5は東方にある他国から流れてきたなどと、ばかげたことを平気で流しているようだ。
ぐるぐる回りも解釈次第で、回転半径を長大に引き伸ばしたこんな言いたい放題も、広大国ではまかり通るらしい。

見えないのは気持ちが悪いが、見えるものに乗ってこないように、何とかならないものだろうか。

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宝石とホチキス

2013年02月13日 | つぶやきの壺焼

宝石のイラストにホチキスを重ねてみた。
突拍子もない思い付きには、それなりのわけがある。

何年ぶりかに行ったJRの駅で、ティシュ配りに出会った。
受け取った場所は駅ではなかったような気もするが、はっきりは覚えていない。
駅と言っておいたほうが話の都合がよいので、そう思い込んでしまったのかもしれない。
それは、ティシュが「ジュエルカフェ」というジュエリー買取専門店の開店広告用に配られているものだったという、ジュエル⇒JRというだじゃれの都合に過ぎない。

「ジュエルカフェ」という名からは、宝石を眺めながらお茶を飲むところが想像され、カフェが営業種目と思ってしまいそうだが、そうではなかった。
カフェのような居心地良い空間を提供して、そこで宝石買取の商いをするという、大型スーパーの一角に設けた常設店舗だった。

ジュエリークリーニングも無料で行っているという。
買取る一方で、きれいに磨いて差し上げることもする。
だが、磨いてもらえば、その場では手放さないだろう。
買取りとクリーニング、これには矛盾を感じるが、逆手をにぎって離さなければどうなるか。
次に出るのは「参りました」の声というわけか。

数学にも、求めようとする値を変化させてみる逆手流というのがあって、解法の方針が立てやすくなるらしい。
ことによると、逆手流と見せながら、クリーニングという名のアップレイジング、値踏みをひそかに行っているのではないかと思ってもみる。
裏を返せば表になる。

こんなことを考えていると、ホチキスのことがどこかへ行ってしまうので話を戻そう。
配られたティシュの袋には、「お売りください/ジュエルカフェ」と書いてあっても、店の場所は印刷されていない。
店舗のことは、袋にホチキス止めされた小さな紙片に書かれているのだった。
これなら、袋は1種類ですむ。紙片をつければ全国どこでも使える。

こういう手もあるかとよく見ると、ホチキスの針が、中のティシュの端のほうを一緒に綴じてしまっている。
これでは中身を出すとき破れてしまうではないか。
アルバイトのいやいや仕事の結果か、そうでなければ、肝心の袋を先に捨てさせないという、これも逆手流なのか。

小紙片はいくつも付いていたが、こちらは配られた主意とは逆に、中身にしか用がないので、先に燃えるごみになってしまっている。

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