感情表現はボヤキと同類だから、それが行動であるとは言えない。
懸念の表明は、行動に値するだろうか。
否、懸念表明は感情表現であって、何か行動したことにはならない。
政治家に求められるのは行動で、ボヤキの声ではない。
感情表現はボヤキと同類だから、それが行動であるとは言えない。
懸念の表明は、行動に値するだろうか。
否、懸念表明は感情表現であって、何か行動したことにはならない。
政治家に求められるのは行動で、ボヤキの声ではない。
鉄道の故障がしばしば起きる。
故障、不通、開通のニュースは流れるが、人命にかかわらない故障の場合、発生の根源をつきとめたというニュースは聞かない。
原因不明、もうこの辺で、あるいはそういうことにしておけという、追究打ち切りが多いのではないか。
不明とされることに、目立たずに行われる社会実験など、仕掛けのもとが隠れてしまっていることはないのだろうか。
くわばらくわばら。
EVは、ガソリンで走っていた自動車のエンジンを電気モーターに入れ替えたものか、そんな簡単なものではないらしい。
ガソリン車では、乗せて運ぶのは人間だった。
EVでは、乗った人間の行動情報がいっしょに運ばれる。
交通機関だったものが、情報収集機関に変身している。
止めて、乗って、行って、下りれば終わりではなくなった。
EVは、動力付きのスマホだよ、と言う人もいる。
インフルエンザ・ワクチンは皮下に接種したのに、これから打ちましょうと言われる武漢コロナのワクチンは筋肉注射、接種でなく注射。
ワクチンで植え付け方の違うものがあるのは何か変だなと思っていたら、武漢コロナのワクチンは、ワクチンと呼ばれながら、実際はワクチンではないらしい。
予防接種はウイルスを植え付けるのだが、武漢コロナのいわゆるワクチンは遺伝子を注入してウイルスを体内で作らせる方法だという。
お医者さんが解説したがらない、このワクチンもどきは、壮大な人体実験ではないのか。
豆でも遺伝子を組み換えたものは気味が悪いのに、人間にじかにそんなことをして大丈夫なのかなあ。
「令和の日本型学校教育」の構築という課題がいま文科省にあるそうだ。
全ての子供たちの可能性を引き出すこと、個別最適な学びと協働的な学びの実現が狙いと言われている。
役に立ちそうな、型を使った型ものづくり、「何の役に」その肝心のところが抜けてしまっているような気がするのだが。
人間の体は動かなければ動かなくなる。
自粛自粛と動かない状態を続けていると、いつの間にか度を越えて自縮になってしまう。
自縮の害は徐々に嵩じていくから自分では気づかない。
黙って言うことを聞いているうちに、病気を恐れて体はガチガチということになるから、自粛もほどほどに。
友好も協力も、人間同士の場合には、ほほえましい行動様式に見える。
だがこれが集団になると、生活の表通りのことばかりではすまなくなり、人倫に沿わない方向に友好、協力が求められるようにもなる。
個人的な付き合いにしても、異国の人との間に離れにくいしがらみができて、そこに互いの利権が絡み合うと、協力利権、友好利権という構図が定着してしまう。
そうなると、良いことのはずであった友好、協力が、国家の危機や国際信用の失墜を招くことにもなりかねない。
もし政府や大政党の要職にある人に、この協力利権、友好利権がこびりついていたらどうなるか。
橋渡し役としては、その関係は極めて有効なのだが、外交の表舞台では、相手側の横暴な発言にも、その人は無言で微笑ぐらいの生ぬるい態度しかとることができないだろう。
友好協力も、内容の事実をとらえなければ、面の文字だけでは、とんでもない落とし穴の掘削作業幇助ということにもなる。
今の要人たちの実情はどうなのだろうか。
主義と呼ばれる人間の考えは、数えても仕方がないにしても500近くある。
信じている一定の主張を主義と呼ぶならば、何かことをなす方法も、主張を続ければ主義と呼ぶこともできそうだ。
その実例として、多国間主義と呼ばれる方法がある。
一つの課題に対して、多数の国で取り組むことをそう呼ぶらしいのだが、こんなのは、あることがらに対処する一つの方法であって、わざわざ主義と呼ぶにふさわしいかどうか、怪しいものがある。
主義という旗印を掲げれば、ついてくる人が増えそうだと思うからではないのか。
旗印といえば、あえてそれを掲げないのに、それがどんな場合にも是であるとされることがある。
あるいはその逆に、全く本質が違うのに、旗印さえ立てれば是とされることがらもある。
その代表格が民主主義と呼ばれている。
民主主義に反すると言えば、無論理無根拠な障壁がたちまち出来上がる。
呼び名はもちろん確立されていないが、こういうのを狂賛的民主主義ということもできそうである。
一大国を代表する首脳の選任手続きとして行われる選挙で、不正という言葉を封印してしまい、力を示しすぎることが気に入らないからと、現職の人を引きずり下ろすために、選挙とは名ばかりの様々な悪辣な手法が駆使されたのも、つい最近の出来ごとである。
その非人間的な行為が、これこそ200年の伝統を誇るその国の民主主義の発露であるなどと、ちんぷんかんぷんな説を振りまいた学者気取りの人気売人もいた。
民主主義と呼びさえすれば、なんでもまかり通る、こういうのは、まさに狂賛的民主主義という、奇妙な新主義の実例ではないかと思うのである。
何か問題が起きて結論が欲しいとき、有識者会議が開かれる。
この有識者会議の多くは、結論制作会議のようなものらしい。
こうしたいということを予め示さずに、空気だけを会議に吹き込む。
さすが有識者たちは、空気の読み取りにはたけていて、結論らしいものはすぐ見つかる。
しかし、ある程度時間をかけなければ、検討の実績が残らないから、開会から大部分の時間は、有識者先生方のお勉強に割り当てられる。
有識者がことさら何を勉強するのかと、不思議に思うだろう。
有識者と呼ばれても、持ち出された問題について、専門知識を持っている先生は数少ない。
知識がなければ、出された結論に箔がつかないから、このお勉強は必須事項となる。
こうして時間をかけて検討されたことが結論の根拠になる。
「有識者会議の意見によれ」という、決定者の責任の負担割合を極力低減する効果が生まれる
チョコレートを食べる人の幸福感は、チョコレートの味や香り舌ざわりよりも、GODIVAと書かれた金箔の包装を開けるときに味あわれるのだ。
早く、早く、それはモノを売るとき、だれでも考えること。
期間利益は時間利益の集積だから、扱う人、運ぶ人がどれだけ忙しかろうと、とにかく早く売れればよい、それが昔から言われた薄利多売。
品物がいくらあっても限定販売、先着順は申し込んだ人はいつでも先着。
こうして早い者勝ちだよと急かされたとき、勝ったのは、買った人ではなく売った会社なのだ。
場を選ばずに出せる、それが力
気分や都合に合わせて、出したり引っ込めたりするのは半端な力
「継続は力なり」は半分ウソ
継続だけが力と思っている議員がいるのはホント
出したことのない力をいくら継続しても、それは歳費タダ取りの欲